御縁 の 無常
和 田 節 子
今年も又、お盆がまいりました。二年前の悪夢のような日が蘇ります。あの
時」前日まで 「お盆のお参り」を、手伝っていた息子が倒れたのです。
はじめは風邪だという診断に、前夜は普通に食事をとり、薬も飲んでやすみま
した。
それが翌日には、全身の痛みを訴え、高熱も出ました。熱の誇言を言い出して
から、はじめて息子の異変に気がついたのです。
往診を頼み、痛み止めや点滴をうってもらいましたが、一向に症状は和らがず
苦しむばかりでした。夜中になって救急車をお願いすることになりました。しか
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し、もうその時には担架にも乗せられないほどの全身の痛みを訴えて嘔吐の連続
でした。やっとの事で、病院に運んでもらいました。当直の医師に私から、経過
と症状を告げたあと、鎮痛剤で眠った息子を見て安心し、夫婦して家路に着くこ
ろはもう空が自みかけていました。安堵感から疲れが出て、いつの間にか三時間
ほどぐっすり眠り、その朝、再び病院に行きました。すると前夜と同じ状態で苦
しんでいました。それでも病院に入っているのだからと安易に思い、長女を残し
て病院からお参りに出かけました。(気にかかり心は残しても、体は残せないお
盆参りの其最中でした。
夕方に帰ってきた主人と私に、病院からの呼び出しの連絡が待っていました。
とにかく (まだ二人共その日のお参りが残っていたのですが) 病院に走りました。
そこで耳にした医師の話に、後ろから殴られたかのように目の前が暗くなり、
体からは血の気が引く感じがしました。耳を覆いたくなるような話の内容と言い
ますのは、病名が「アデム=ハースト脳炎」で脳の血管の中でアレルギーをおこ
して、死亡率が非常に高く、生存率は1パーセントであるということでした。し
かも、その1パーセソトの中にも植物状態になる可能性が高いといわれたので
す。
聞きながら私には現実のこととして、思えないまま、息子の姿を探せば、ナー
スステーションから窓越しに見える 「集中治療室」で、意識もなく眠り続けてい
る.のです。夜の十一時頃まで病室前の廊下で待ちましたが、その日は病室には入
れてもらえず、放心状態の帰り道でした。そしてその日の深夜、一段と高く鳴り
響くベル音に、もしやと思い受話機をとると案の定、病院からで『呼吸が止まり
掛けていますので、人工呼吸器の準備をしています。』とのこと、またもや新た
な不安が募る中、五分程あとには、『今、全面的に呼吸器の装置に切り替えまし
た。』との連絡があり、すぐに駆けつけたいという気持ちに、看護婦さんの 『今、
来ていただいても仕方がありませんので明朝で結構です。』 との言葉が冷たく感
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じられました。(今となっては、献身的にお世話いただいた、心優しい方たちば
かりでした。)
明朝にやっと、五分だけという約束で病室に入れてもらい、眠り続ける息子の
側に行くことができました。しかし、そこに眠っている青年が、あの元気に飛び
回っていた息子の姿とは思えませんでした。それに、どうしても思いたくはあり
ませんでした。あんなに野球が好きで (小学校の頃など、日曜日に雨が降ると
『野球いけへん』と泣いていた。) 中学と高校(軟式で全国大会まで出場しまし
た)も野球部で過ごした息子だったので、本人も体には自信があっただろうと考
えますし、私たちも、そう思っていました。ですから、何をどんなに考えても納
得がいきません。私は夢でも見ているのではないか、病気が何かの間違いではな
いかと、あくまで現実の逃避心ばかりでした。そして歯を食いしばり、お参りに
出かけました。途中に涙が出そうになるのを、我慢して、懸命に『お経』を唱え
ました。ふと気がつけば、息子の回復を願ってお念仏していました。
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ですから家に戻れば、主人も私も止めども無く涙がこぼれ落ちました。寝床に
はいっても涙涙で、幼な児のように泣き疲れて、まどろんでも目が覚めれば涙と
いった具合でしたから、あとには来客が見えても応符が恥ずかしいほどこに、目か
ら顔全体が腫れてしまいました。
そして五日目の朝、眠れぬままに本堂に座り真宗では祈らないと聞いています
から、「報恩感謝」の意味を考えました。ゴキブリを殺しても真剣に怒る息子
が、なぜに二十歳の生命を断たれようとしているのか、私たちにこんなにも辛い
思いを、させる息子の生まれた意味を考えました。そう思っているうちに息子の
顔が浮かんできました。嬉しそうに笑っている顔でした。決して病院で苦しんで
いる顔ではありませんでした。
その時、ふと思いました。そうやって二十年間も私の側で、息子は私を励まし
支えになってくれたのです。やはり感謝でした。此処に生まれさせていただいた
ことを喜び、「感謝の報恩」.のお念仏を称えさせてもらいました。
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何時かは、医師と人工呼吸器をはずしてもらう相談をしなければと‥‥そ
こまでも思いつつ、その早朝に息子との別れを決意して、病院に行きました。そ
して、いつものように何の反応もないだろうと思い込んでいましたから、力無く
呼びかけたのです。その瞬間、何かが変化したような気がしました。私は、「お
や!」っと思い側にいた長女に問いましたが、気付かなかったと言います。もう
一度、大きな声で呼んでみましたら今度は確かに眼を開けようとした。、首を振
ろうとしている気配が、はっきり感じられました。信じられない思いで何度も何
度も名前を呼びましたが、そのたびごとに反応が見えました。
あまりの嬉しさに病院中の、全員に伝えたいような感激でした。
それから日が経つごとに、耳がよく聞こえるようになり、目の方の視野が広が
り、首、肘、手首さらには指先と動くようになりました。全身の回復が待たれ、
毎日が喜びの連続でした。しかし、喜びの後にくる苦しみは一段と辛く、ある期
を境にみぞおちから下の感覚が戻らなくなったのです。(入院後、二年四ケ月経
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つ今も感覚は出てきません)
上半身の感覚が戻りかけた当初は、半年か一年はどすれば歩いて帰れた、と言
うような例を幾つも聞いていましたので、逆に今度は悲しみといらだちの思いば
かりに変わります。意識が戻りはじめてあんなに有頂天だった気持ちはどこへや
ら(どこまでも凡夫でしかありません。)……。
無常の世にいて殊さらに自動車や大きなバイクに跨り、出かけていく姿に無事
を願ったものでした。
ただ、いつも『行ってきます。』と出かければ、『ただいま。』と無事に帰って
くるのが当たり前ではないと思い、いつも漠然とした覚悟のようなものをして、
送り出していたような気がします。
それでも現実におきれば厳しいものでした。今までいかに観念的に考えていた
のかと、自分で自分自身の頼りなさに呆れています。
人生には想像だにしないことが突然、起こるのですね。
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しかしそれは蓮如上人の 「御文革」 の一帖目に 1もしただいまも無常の風き
たりてさそひなば、いかなる病苦にあひてか、むなしくなりなんや! とありま
す。その通りでした。
息子が一夜にして、変貌した身体を通してはじめて「老少不定」の身である自
分を実感させていただきました。今までの私は、逆境の中におられる方々にも
「そのままを素直に受け止め、それを喜びとしていって下さい。」などと安易に
励ましていたのです。そんな私はいつも第三者的で、自分のこととして捉えては
おらず、ましてや自分だけはそうならない様な気でいました。自分が死なねばな
らない道理まで忘れていたようです。
蓮如上人の 「御文章」 の上(四帖目) にも、−今も無常の風きたらんことをば
知らぬ体にてすぎゆきて、後生をばかつてねがはず、ただ今生をはいつまでも生
き延びんずるようにこそおもはんべれ。あさましといふもなはおろかなり−と戒
めておられました。
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そのうち、二年目の盆参りがやってきました。その中に私がはじめてお参りさせていただく御門徒のお宅がありました。そのお宅には、息子さんが交通事故
(歩いていて車にはねられて) にあわれて植物状態になられている方がありまし
た。そちらの御夫婦(初老とでも言うべき年齢の)は、毎日揃って病院へお世話
に行かれるとのことです。しかも九年間という(電光朝露の夢幻のあいだとは云
うものの)永い年月です。そのご夫妻が仰有るには、『毎日面会に行けるだけで
嬉しいのです。』と、私もそんな思いの日があったことを思い出しました。息子
の生命が危機に漉しているときでした。生きているからこそ、こうして会いに釆
られると思い、とても有難かった事をです。さらに御夫妻は仰有いました。『先
生(医師)や看護婦さんや他の方々は、そんなこと感じられませんと言われま
すが、私たちには変化があるように見えます。呼びかけたら私たちを見ようと
している様子が感じられて、わかってくれているような気がしてならないので
す。』とも語ってくださいました。私もその息子さんにお会いしたことはありま
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せんが、きっとそうではないかと思います。他の人にはわからなくても血を分
けた肉親の親御さんには必ず、わかる感応通交的なものがあるような気がしま
す。
そのお宅は、うちの息子よりもはるかに重傷でいらっしゃるのに愚痴が出るど
ころか、いまだに呼吸があるから、世話ができると喜んでおられる姿に、頭が下
がる思いです。それに引き替え、私は僧侶とは名ばかりで、ちょっとしたことに
二喜一憂して動揺している自分が恥ずかしくなりました。
手足のご不自由であられた中村久子さんの本の中にこんな詩がありました。
ある ある ある
さわやかな 秋の朝
「タオル 取ってちょうだい」
「おーい」と答える 良人がある
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「ハーイ」とゆう 娘がおる
歯をみがく 義歯の取り外し
かおを洗う
短いけれど 指のない
まるい つよい手が
何でもしてくれる
断端に骨のない やわらかい腕もある
何でもしてくれる 短い手もある
ある ある ある
みんなある さわやかな 秋の朝
そうだったのです。無くなったものに執着するのではなく、残されてあること
に喜びを味わう方が、より楽しく生きられるのです。息子が車椅子でロビーまで
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行けるようになった時でした。『ワシにとって足が動かん云う事は、そんなに大
したことじゃなかったんや。』と笑顔で言うのを聞いて思いました。そうだ、足
に替わる物もあるし、手も胸から上も動くものばかりだと、心から有難く思えま
した。
この世の中は苦楽万品で様々なことにあわせていただきます。しかし、苦だっ
たものがいつか楽の因になることもあるのだと思います。それに、こんな事も言
っておりました。『歩いていたときは、こんなに歩けるということが有難いとは
忠わんかった。』と、本当に何でも無くって、はじめて有難さを知ることができ
るのでした。世間でよく言われる 「親の恩」も、確かにそうでした。
そう思うと何かしら母のことが懐かしく、数年前の出来事を思い出しておりま
した。福岡に住む実家の母が少し具合が悪いので入院したとの連絡に驚いて万障
繰合わせて出かけようとする私は、住職 (主人) に 『もう二度と会えんと思う
て、会ってこなあかん。』と言われたのです。私は耳を疑いたくなるほどのショ
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ックでした。頭の中には母の容態が心配でいっぱいでしたから、「冗談じゃない
わ。こんな時に・・・・・なんてことを言うのかしら」と、悔しい思いで、出かけ
ました。新幹線に乗り座席に着くなり、先ほどの言葉を反易してみました。でもTj
やはり、腹立ち忙しかなりません。その為、四時間弱の車中も眠ることなく、種
々のことを考えていました。考えているうちに怒りも納まり、いつしか母の姿が
頭に浮かんできていました。厳格な(私には我が値のようにもみえた)父や勝手
放題の子供にも、ほとんど文句や小言をいうことなく、笑って見守ってくれる、
優しい人でした。その母が人をお見送りするときはいつも、その方が見えなくな
るまで、門口に立ってじっと見送っていました。近所に住んでおられて、いつで
もお会いできるだろう方たちにでも、そうでした。今になって思えば、それは母
の無常なる事(もの) に対する愛しさのようなものではなかったかと、そして
又、それが 「一期一会」的な人との接し方でもあり、別れ方であったような気が
します。そう思えば住職の言葉も、そういう意味なのかと、はじめてわかりまし
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た。
蓮如上人の 「御一代聞書」 の中にもありました。一帖目の初めに、年始めに来
られた観修寺の道徳さんに ー道徳はいくつになるぞ、道徳念仏申さるべし−
と仰せられるところが、ありますが、この『いくつになるぞ』は唯、単に年齢を
問われたのではなく、世の無常を思われて、お互いに年をとった身であるから、
後生の一大事を心にかけて念仏申すことが肝要であると仰有ったのだろうと開い
たことがあります。無常の車に住んでいる私たちは、一利郡一利郡が 「一期一
会」となるのだと思います。それならば、御縁となった一利郵一利都は有難く、
又、愛惜しいものであります。
そんな中で明日のことどころか、一利な先のことさえ、わからない私がずいぶ
んと先の日の事まで、(一切を智見できる神通力でもあるかの如く)約束してい
ます。
もしも、先の約束ができるのならば、私は 「常住捏欒界」 の 「お浄土」 にて、
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この世でも有縁であった方々と又お会いできることを約束させていただきたい
ものです。
先ほどの母が亡くなる前に、看病に行った時の事でした。延命治療の為でしょ
うか、たくさんの管をつけられて喋ることができない母は、私の顔を必死に見つ
めていました。(それは、まるで今生の別れを思い、次の世までも忘れないよう
にと、見てるかの様でした。) もしも、あの時に母が喋ることができたら、何を
云わんとしていたか、後日になってわかったような気がします。それは母の臨終
に立ち会った兄夫婦から聞いた話でした。口にまで入ってた管や器具を取り除い
て貰ったせいか少し楽になった様子で、にっこりと笑い、嬉しそうに両親の名前
を呼んで、息が切れたのだそうです。私はそれを聞いたとき、母は、『阿弥陀
経』 にある 「倶会一処」 の言葉通り、祖父母に会えたのではないかと思いまし
た。それならば、母が、私を見つめて言いたかったことは、また「お浄土」 で会
おうねと言いたかったのだろうと言う気がしてなりません。
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父の家に嫁ぐまでは、「真言宗」 の寺に育った母でしたから、「真言」 の教え
に「供会一勉」的な考え方があるかどうかはしりませんが、きっと母は私にそれ
を言いたかったのだろうと信じています。誰もお浄土の旅から、帰ってきた人が
いないので、五感で感じる確証はありませんが、「お経」 の上で信じさせて貰っ
ています。手前味噌の話ではありますが、母の生き方(逝き方) に、そういった
ことを感じました。
うちの寺の小さな庭に所狭して大きな銀杏の木があります。開くところによれ
ば、五十年ほど前に落雷の為に地上から三メートルぐらいの所で、折れてしまっ
たのだそうです。ですから嫁いでから、ずっと、この木は死んでいると思い続け
ていました。ところが三年ほど前でしょうか、その木に新しい葉が出ているのを
見つけました。とても感激したことを覚えています。五十年もの間、何の変化も
ないように見えていた木も根本から、ずっと息づいていたのです。そして今では
多くの枝が出て葉も多く繁るようになりました。
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あと、息子もリハビリが進むにつれて残された機能をきたえることによって、社
会生活の復帰を目指しています。感覚が戻らないと知ったときのショックの日々か
らは予想できなかった事柄(ベットから車椅子に乗り移ったり、車筐子から自動車のシートに移動したりと−)が可能になりました。
二年四ケ月という歳月の中に脈々と息づいていたものがありました。そして多
くの枝を伸ばして、そこからたくさんの葉を出した銀杏の如く思えるのです。
これも嬉しい 「無常」 の一つの形であると思いました。確かにこれから先も、
不自由であったり、できないこともあるのでしょうが、残された梯能をフルに使
って、できることを多くしていってほしいと思います。人より少し多くの風に当
たったことで彼も少し学ばせて貰いました。
以前、(まだ車椅子に乗ることも自由にならなかった頃に)息子が『この世の
中、様々な病気があると思うけど、何でワシがこんな病気にかかったんやろ、何
でワシやねん。』と言っていた時がありました。本当に何で自分だけが・・・と、
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どんなにか口惜しかったでしょう。
その疑問が解消したわけでもないのですが、健常の時と同じように明るい顔を
しています。先日、二人の娘と話していましたら、上の娘が突然、『病気にかか
ったのが○○で良かったね。』と言うのです。少し驚いて尋ねましたら『○○は、
よう辛抱できたなあと思う。私だったら、辛くて絶えられへん。ノイローゼにな
っていたかも、わからへん。あんな目にあってよう平気な顔していられるなあと
思うわ。』と言うと妹娘までが、『ほんまや、私かってあかんかったと思う』 と
口を揃えるのです。それを聞いていて私は、もしかすると、息子の病気は、耐え
られるだけの度量が必要だったかもしれないし、またこの病気になったことで、
度量を広くして貰ったのかもしれません。いづれにしても、私には彼の病気が何
かの御縁をいただくための無常であり、ご催促ではなかったのかと勝手に思って
みるのです。
幼いときから寺の生活を好んでいなかった、我が家の3人の子供達ですが、息
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子は高校・大学と宗門校に通わせてもらい(まだ途中ですか)私たちの礼拝の対象が
「弥陀一仏」としり「悪人正機」 の悪人が 「.罪業深重」 の凡夫である私だという
事も学ばせて貰いました。車椅子の今も、できるところまで 「寺」をやらして貰
うと云っています。姉の方も弟の病気が縁となり得度させて貰いましたし、末娘
も来年の受験に向けて仏教を学んでみょうか等と思案中の様子です。無常とは物
事だけでなく気持ちまでがかあっていくのも無常の態だろうと思います。
それぞれにたくさんの御縁に遭わせていただき、人より少し多くの風に当てて
いただいたことを喜び、報恩感謝の気持ちを持ち続けていきたいと願います。阿
弥陀様にお任せすれば当来にも定まった場所で又、会える世界があるから安心し
て、この無常の世界が喜びの世界になることと信じます。御縁による様々な無常
に学ばせていただく私です。
この原稿依頼をいただいたとき、拙い文革で皆様の出版物を汚してはと辞退す
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るつもりでしたがこのように御縁を喜ばせていただけるようになったのは偏に、
十年間も学内、学外においてまで、御教授くださった浅野教信先生に御礼が申し
たくて、寄稿させていただきました。
先生、本当にありがとうございました。ロでも文章でも、巧く言えませんが、
退職後も今まで通り変わらない(無常でしたね)お気拝で、これからも私の先生
でいてくださることをお願いして、御礼の言葉に替えさせていただきます。
そして浅野ゼミでお世話になりましたOBの皆様、現役生の皆様にこの紙面を
お借りして御礼を申させていただきます。
すこしだけ(?)年配(年齢不詳) の私を仲間に入れてくださり、大事にして
いただいたこと、忘れはしないつもりです。有難うございました。
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