イザークが自分のお気に入りのカップを割られたのを見て、なおかつ常日頃には見せない静かさでもって二人に対応した。
この事実はいったい何なのだろう……。
『イザークお兄様の逆鱗編・後編』
これがおかしいと言わずしてどう言うのだ?
キラとアスランは顔を見合わせる。
「片付けようか」
「うん」
どちらからともなくそう言いだし、ほうきとちりとりを片方ずつ持った。
「どうしたんだろ、イザーク」
「さあ」
「アスランは気にならないの?」
「怒られないだけマシだろ?」
こういう時、アスランは淡泊である。
元々、彼は兄弟の中ではキラに一番執着を見せるが、その反動か他の兄弟にはおざなりな部分があった。
(もう……)
キラは心の中で悪態をつく。アスランはいつもこうだ。
「けどさ」
心の中で弟に対する文句を言っているキラの横で、アスランはほうきを動かしながらポツリとつぶやいた。
「何でイザークはこのカップを大事にしてたんだろ」
「え?」
「だってこれ、どう見てもどこかのブランド品じゃないし。それにどことなく形がいびつで……百円ショップやアウトレットのほうがよっぽどましなものを売ってるよ」
何でこんな粗悪品をイザークは大事にしていたのだろう。
イギリスにいた頃から愛用し、日本に持ってくるほど大切にしていたという白いカップ。
キラは一番大きな破片を手にした。見れば取っ手と底がそのままついている。
何気なく底のほうを裏返すと、文字が彫られていた。
「何これ?」
余りに稚拙なその文字に、思わず目を細める。
『しょーがないなー。じゃキラ、ここに一緒にメッセージ書く?』
『うん』
がたっ。
脳裏に浮かんだ映像に、キラは勢いよく立ち上がる。その拍子に背後のテーブルにぶつかり、大きな音をたてた。
「キラ?」
アスランは訝しげにキラを見上げる。
(じゃあこれは……)
キラは震える口に思わず手をやった。自分はなんてことをしてしまったんだろう。
キラは身をひるがえしてダイニングを出て行った。イザークを探すために。
「なんなんだ?」
アスランは訳がわからず、ただ眉をひそめる。
キラが今しがた持っていたカップの破片を手にとり、底を裏返した。キラは何を見て、あんな血相を変えたのだろう?
書かれていたのはかなり幼い文字だった。
『Kira
and
Athrun』
「あ」
アスランはようやく思いだした。
* * *
イザークは一人、かつての子供部屋にいた。
たった一つしかないデスクの引き出しをあけ、中から一枚のカードを取り出す。
それと同時に、血相を変えたキラが部屋にのりこんできた。
「イザーク!」
だがキラは、イザークの手元にある物を見てビクリと体を止めた。
「キラ?」
キラの様子が明らかにおかしかった。イザークは手にしていた手作りのカードをデスクに置き、首をかしげながらキラへ近寄る。
「わからなかったんだ」
呆然とキラはつぶやいた。
「全部、思いだしたはずだったのに」
キラは視線を落とす。己の震える両手を見つめるその顔はかなり青くなっていた。
「まだ、忘れていた物があったなんて」
「キラ!!」
今にも倒れ込みそうなキラを見て、イザークは思わず彼を抱きしめた。
青い顔をしながらキラは全身を震わす。寒いわけでもない。ただ、己の愚行に嫌悪感が募るのだ。
「あのカップ、僕とアスランからイザークへの誕生日プレゼントだった?」
「ああ」
イザークはキラを抱きしめる手に力をこめた。
少しでもこの弟の不安や悲しみを取り除けるように。それだけを願って。
「大切に持っていてくれたんだね」
あれは、イザークの八歳の誕生日プレゼントだった。
近所の知り合いの陶芸教室で、一生懸命教わって作ったのだ。
言いだしたのはキラだったが自分ひとりではうまく作れず、結局そのほとんどをアスランが作った。
先ほどイザークが見ていたものは、プレゼントに添えたバースデイカードだったのだ。
「けど、それを僕が……」
呆然とつぶやくキラに、イザークは優しく事実を伝えた。
「あれは元々ひびが入っていたんだ。そろそろ使うのをやめないといけないと思っていたが、つい食器棚にしまっていた」
だからキラのせいではない。
そう言うイザークに、しかしキラは免罪の言葉をつき返す。
「でも! 僕がこの記憶を忘れていたのは事実だ」
大切な記憶だったのに。忘れてはいけない物だったのに。すべて思い出したと思っていたのに……。
どうして、自分はこんなにも大切な記憶を失っていたんだろう。
忘れてはいけないものばかりだった。
それを平気で忘れていた自分。
再会したときのアスランの傷ついた顔が、今でも忘れられない。とてもひどいことを言った。
忘れていたからなんて、免罪符にはならないのだ。
自分自身への憤りで、吐き気がした。
「キラ、人は物事を忘れやすくできているんだ。だから気にするな」
「そんなこと、関係ない!」
「なら、アスランは覚えていたのか?」
「え?」
「アスランは覚えていたのかと聞いている」
思ってもいなかったイザークの言葉に、キラはためらいがちに首を振った。横へと。
「全部覚えているはずのアスランが覚えていなかったんだ。ならキラがこのことを覚えていなくて、何が不思議なんだ?」
イザークはキラの眼を見つめる。
こんなにも彼は思い悩んでいたのだ。自分が記憶をなくしていたことに。
それはおそらく、大切な家族のことを自分の精神的苦痛から逃れる為だけに切り離してしまったことに対する、重い罪悪感。
けれどそれは仕方のないことなのだ。少なくとも自分たち兄弟はそう思っていた。
キラも表面上はそう振る舞っていた。気にしていないと。
むしろ何事もなかったかのように、昔と変わらない明るい笑顔を兄弟に振りまいていた。
その心中がどれほど傷ついていたのか、推し量ることすらできない。
「キラ」
イザークは優しく声をかける。
これ以上最愛の弟が傷つかないように、誰の知らないところで一人静かに泣くことがないように、それだけを願ってイザークは言葉を発した。
「人の記憶は、忘れたと思われるものでも実際には忘れていないそうだ。人は生きていれば日々大量に記憶を作る。毎日次から次に記憶はできるから、古い記憶が奥底に追いやられても仕方ないことだろう? それでも、覚えていなくても、記憶が完全に消滅したわけじゃないんだ」
完全に消滅していたのなら、お前は記憶を取り戻すことはできなかったはずだ。
けれどお前は、俺たちのことを思い出した。
ならば深層意識のなかでは、忘れていなかったということなのだ。
だから気に病むことはない。お前は忘れていないのだから。
イザークの言葉は、キラの心にすんなりと染み渡る。
兄の優しさが嬉しかった。それでも……、
「イザーク。けれど僕は、自分で自分が許せないんだ」
「お前がお前を許せなくとも、俺がお前を許す。それでは駄目か?」
キラの顔を両手で持ち上げ、再びイザークはその紫水晶をのぞき込んだ。
キラは肯とも否とも答えず、イザークの肩に自分の顔を押さえつけ、そして静かに涙を流した。
イザークはそんなキラを抱きしめ、ただ優しくその鳶色の髪をなで続ける。
ふと顔を上げれば、階段の手すりから見慣れた夜明け色の髪が見えた。
おそらくキラを心配して追いかけてきたのだろう。
イザークが気づいたことに気づいたのか、アスランと目があった。
アスランは苦笑し、キラを任せると目で合図して、キラに気づかれないように静かに階段を下りていった。
アスランが再び作った白いカップが、イザークにこっそり手渡されたのは後日談である。
十年前と比べ、すでに名匠の域にきていたそれの底には、『Kira
and Athrun』と刻まれていた。