『うつほ草紙』

  時は平安時代、藤原氏の権勢世に並びなき頃、琴を司り天上界の声を聞いて帝に仕える清原家の嫡男、若き天才奏者・清原俊華牙(きよはらとしかげ)は、乳兄弟の琴職人・春音(はるね)と共に遣唐使副使として唐へ船出する。しかし名誉ある大抜擢と思われたそれは、清原家をなきものとせんがための藤原氏の陰謀だった。嵐で難破し海を漂う俊華牙と春音は、波斯(ペルシャ)の商人・セライ・ナジャに助けられ、波斯の都バグダートへ。しかし彼らは宮廷内の抗争に巻き込まれ、俊華牙は「愛別離苦」という霊木の呪いを受けてしまう---。
  日本最古の物語文学『宇津保物語』を下敷きに、日本、天竺、波斯と海を渡り時を超え、琴の音にのせて紡ぎだされる壮大な歴史ファンタジー。


       



  一読してまず思ったのは、『うつほ草紙』は『玄奘西域記』と表裏一体の作品ではないか、ということでした。玄奘は荒れはてた天竺のようすを見て、「宗教に何ができるのか」と悩み、「取経という行為に意味があるのか」と迷います。しかし彼の気持ちの根底にあるのは「仏教によって迷っている人・困っている人を救いたい」という正義感で、この気持ちは一貫して変わることがありません。どんなに悩んでも、最終的にはその気持ちを信じて,光に照らされた一本の道をまっすぐに進んでいきます。
 
  しかし『うつほ草紙』において、俊華牙はそのようなゆらぐことのないポジティブな信念を持ち続けてはいられません。藤原家に陥れられ、バグダード王の邪心に利用され、たとえ理性をもって止めようとしても彼の心はしばしばネガティブな方向、怒り・憎悪・復讐心へと向かい、その心ゆえに悲劇を引き起こすことになります。
  
  だからといって一概に「玄奘は強い人、俊華牙は弱い人」と言えるわけではありません。私には『うつほ草紙』と『玄奘西域記』は、二作あわせて人間の心という不思議なものの表と裏・光と影を象徴するものであり、人は誰でも、どちらへ転ぶ可能性も等しくあるのだ、という気がします。そして心に迷いが生じ影の方に傾きそうになったとき、どうすれば踏みとどまることができるのか、また運悪く影の方に転んでしまったとき、そこから抜け出すために必要なものとは何なのか。その答えがこの作品なのだと思います。

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