『諸葛孔明 時の地平線』
 
  興平元年(194年)中国徐州・瑯耶。後漢末期、朝廷が権威を失い、天下麻のごとく乱れる時代、軍に火をかけられ燃えさかる街のなかを逃げまどう少年は、炎の中でその男と運命の出会いをする。少年の人生はそのとき始まった。
  戦乱の時代を背景に稀代の軍師・諸葛孔明の目を通して描く諏訪緑版『三国志』、堂々の開幕。


       



  『三国志』という題材は男性向けのものなのでしょうか。女性ファンも増えてきたとはいえ、読者はやはり男性の方が多いようですし、全てのものをチェックしているわけではありませんが、『三国志』を書く女性作家もあまりいないようです。(ある特定の人物のみを取り上げて、『三国志』本編とはあまり関係のないエピソードを創作する、というスタイルのものは聞いたことがありますが。)
  諏訪版『三国志』も、これまでに書かれてきた『三国志』とはかなり描き方が異なります。諸葛孔明を中心にすえて彼の目に映るものを描いていく、という手法なので、通常の『三国志』の前半部分はほとんど省略されていますし、重要な人物が全く登場しなかったり、会話中に名前が出てくるのみ、ということもあります。

  『諸葛孔明 時の地平線』を読んでいると、私には、これは従来の男性中心の世界観、男性原理というものに立ち向かっていく、全く新しい『三国志』なのではないか、という気がします。
  孔明の信念は「どんな無名の人にもその人の人生があり、家族や友人がいる。いかなる理由があっても人を殺さない」ということです。それは自分が戦で家族を殺され、幼い弟妹の世話をしながら難民生活をしていた経験にもとづく確固としたものです。戦乱の時代にあって何年も何十年も戦が続き、何百・何千という単位で人が死んでいく日々に生きていても、彼は決して「大の虫を生かすために小の虫を殺す」ことを許そうとしません。皆が「しかたがない」と目をつぶってやりすごそうとしても、また自分がそうするしかない状況に追い込まれても、自分の信念を守るために悩み苦しみます。

  しかし、作中の他の人物も「乱世だから」と折り合いをつけようとするし、読者も「これは1800年も前の戦乱の時代のことなんだから」と読みすごしてしまいがちですが、この作品は「本当にそうなの?」と問いかけているように思えます。今回この文を書くために、最初からじっくり読み直していて気付いたのですが、「これが乱世というものなら、今だって乱世なんじゃないでしょうか?」

  強大な力を持つ大国があって、「世界の秩序を回復するために」武力で他国を攻め、従えようとしている。その国が理想として掲げる言葉は一見りっぱで聞こえがいい「世界の平和のため」「一部のものが私腹を肥やさない安定した政治(民主主義)のため」といったものだけど、そのためにじゃまになる(と、その国が思った)ものは躊躇なく攻撃し、殺す。そのために一般の市民も巻き添えになり、戦争のためにそこでは暮らしていけなくなって難民になる。子ども達も飢えながら放浪し、食べ物や薬がなくてたくさんの人が死んでいく。
  その圧倒的な力が自分の前に立ちはだかったとき、それに対抗するためにはどうしたらいいのか。
  対抗しなければならない、曹操の「力の論理」を許すことはできない、しかし暴力で攻められたからといって暴力で攻め返していいのか、殺されたから報復してもいいのか、殺さなければ殺されるぎりぎりの局面でいったいどうしたらいいのか・・・。
  答えの出ない問いに苦しむ孔明の悩みはそのまま現代の私たちの悩みです。

  今までもうっすらと感じていたことですが、諏訪さんの作品はほんとうは「歴史もの」ではないのかもしれません。たとえ当初の目的が歴史を描くことだったとしても、完成した作品が訴えてくるのはそれだけではありません。もちろん舞台はいつも遠い昔、ときには神話の時代です。でもそこで起こる事件や人々の考え・行動は、しばしば現代の状況を思い出させ、私たちに問いかけてきます。かといって不自然さは全く感じられません。この作品は現在進行形であるだけに、その傾向が最も強く出ています。
  今後この作品がどう展開していくのか、物語としての興味に留まらず、この「問い」に対するなんらかの「答え」となる可能性としても見守っていきたいと思います。

(注)この文章は2002年9月に書いたものです。


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