今月の『諸葛孔明 時の地平線』

★『flowers』2007年7月号(2007年5月28日発売)

・最終回です。

今回、全編を通して、孔明のもう何もかも悟ったような達観したたたずまいに胸が痛くなりました。
魏延に憤る馬超や姜維に対しても、当の魏延に対しても、仲達に対しても、華陀に対しても、取り乱さず淡々と信念を曲げず。
「死を目前に見据えたとき 誰もその人間の意志には触れられんぞ」と言ったのは『玄奘西域記』の正法蔵でしたが、今月号での孔明の終始穏やかな表情にもそのことが感じられました。
人生に後悔がなかったわけでは絶対にないはずです。赤壁のことも、士元のことも、周瑜のことも、馬謖や喬のことも、なぜああいうふうにしてしまったのか、もっといい解決策があったはず、と思うことがたびたびあったかと思います。
それでもあのように落ち着いた表情でいられたのは、自分が平和という目標に向かってがむしゃらに駆け続けてきたという自負があることと、道半ばで倒れても後を托せる存在が確実にいたからだったのでしょう。
「限りある生しか与えられていない人間というものが永遠の生命を得ようと思うなら、次の世代に想いを伝えつないでいくしか方法はないのだ」ということは、木原敏江さんの『銀河荘なの!』でもほったゆみさんの『ヒカルの碁』でも語られていたテーマですが、ここにきて時地でも改めてそれが浮上してきたような気がします。
孔明が仲達に国の統一・平和をまかせたように、諏訪さんもまた読者の私達に「ここからはあなた達自身があなた達の世界で何ができるのか、この物語を読んで受け取ったことを伝えていってほしい」と望んでいるように思えるのです。

・仲達に女物の衣装が送られるエピソード、描いてほしいけど多分ないだろうな、と思っていたのにちゃんと描いていただけて、しかもしっかり時地解釈が効いていてとても嬉しかったです。
この会談、周瑜が死の直前に士元を呼んだエピソードとだぶりました。周瑜とて優れた武将で政治家であったはずなのに、時勢が違うとはいえあのときの彼には、呉と蜀のことや迫る魏の脅威しか見えていなくて、何十年も先の国全体の未来図までも見通す余裕はなかったのだなあと切なくなりました。
為政者としての資質にはいろいろなものがあるのでしょうが、時間的にも地理的にもどれくらい大局的に物事を見られるか、というのが大きいのでしょうね。現代の世界でいろいろと行き詰っていることも、長い目で・広い視野で物事を見られない(見られなかった)ことが大きな原因のひとつになっているのではないかと思います。
ただ、孔明が「曹操の陣営に入って内側から変えていくほうがよかったのでは?」と思っていることにはあまり賛成できないかな。
もちろんそれもひとつの有効なやりかたではあるのでしょうが、組織の中に入ってある程度発言力を得て組織を動かせるようになるまでは、納得できないことにも黙って従わざるをえないことだって往々にしてあるわけで、そんな「これはダメだ、変えていかなくては」と感じるような思想に一時的とはいえ加担するよりも、組織の外側から「こういうやり方はおかしい、こんなものに組したらダメですよ」と言い続けるほうが健全、というか信用できる気がします。
んー、まあ「イヤなもんはイヤなの!」というだけかもしれませんが。でも生理的な嫌悪感って結構大事というか信用できるもののような。孔明が若いときに感じた「人をモノ扱いするのは許せない」という感覚はずっと大事にしてきて正解だったのではないかなあ。

・魏延の最期について、「結局は暴力か」というせりふはかなり痛いところを突いているのでは、と思えました。孔明が直接指示したわけではないし、彼自身は最後まで魏延を説得したいと思っていたんだけど、やっぱり暴力による解決を唱える相手に最終的に・即効性がある手段は暴力でしかない、という側面を現わしているようで。
魏延の最後のせりふを読むと、彼の反乱は賭けだったのかな、と思えます。賭けに勝てたら魏軍を破って漢王朝の復興ができる、負けたら孔明に「乱世の残りカスを一気に粛清」させてやる、みたいな。孔明のためにやったわけではないだろうけど、自分が時勢に乗れていないというのはわかっていて、それでも今までの人生で培ってきた信念を今更曲げるのができなかったのかもしれません。人間、変われるけど、簡単には変われないもの。

・ 最後に。
今回感想を書くに当たって、冒頭「最終回です」と書いたきりちょっとの間固まってしまいました。
いやだって、何から書いていいのかわからないですよ。この1年くらいの展開を見るにつけ、そろそろ終わりを考えているんだなあと思っていましたが、本当に終わるときが来るなんて。
もちろん始まったものは必ず終わるのだし、『三国志』をベースにしている以上、物語の顛末もわかっているはずなんですが。
それくらいこの作品は私にとって「あって当たり前」「いつもそこにあるもの」、現実の世界の出来事に迷ったり考えたりするたびに、『さあ顔を上げて、こちらを見て』と道を示してくれるような、夜道に浮かぶ灯火のような、そんな存在だったのだなあと思います。
思えば、諏訪さんのファンサイトを作ろう! と思い立ったとき、まだ連載は3年目でした。あれから約5年、私の生活にはいろいろ変化がありましたが、「時地」はいつもゆるぎなくそこにありました。
諏訪さんには心から感謝を送りたいと思います。本当にお疲れ様でした。今までありがとうございました。


★『flowers』2007年6月号(2007年4月28日発売)

・今月でこの連載も74回目、いよいよ大詰めに入ってきました。
ここ数ヶ月、そろそろまとめに入っているのかな、という展開が続いていましたが、今回はっきりと「乱世は終結しつつある」という表現が出てきました。
世の中は少しずつ平定され、ゆるやかに世代は移り、主役達も退場していく。ここにきてようやく姜維が登場してきたのもその現れのひとつでしょう。
最初読んだときは「いきなりな登場だなー、もう少し早いうちに出せなかったのかしら、終盤のかなり重要なキャラクターなのに…」と思いました。多分編集部から「あと○巻で終わらせてください」という要請があったのでしょうし、それを踏まえて、限られたページ数でどのエピソードをどれくらい詳しく描くかの問題もありますが、この時点で姜維が出てきたのはやはり世代交代を強調するためでもあったのかな、と思います。
まあ五丈原で重要な役割を果たすのだからそれまでに出しとかないと、というのが一番なんでしょうけど。そういえば陳舜臣さんの『諸葛孔明』でも最後の最後に出てきたなあ。
世代交代と言えば、表紙がかなり意味深だと思いました。
病に伏せる(手が筋張ってるし)孔明が掛けている着物、楽しそうに遊ぶ童子たちの柄なんですね。中央には桃の木が描かれていて、実を取っておいしそうに食べている子たちがいて、お茶を飲んでいる子もいて、皆にこにこと笑っている。飢えることも乾くこともおびえることもなく過ごせる幸せな夢の日々、それはもうすぐそこまで(絵としてイメージできるくらいに近くまで)来ているのだけど、孔明がそれを見ることはない…。
この表紙はそういう暗喩なのではないか、というのはうがちすぎでしょうか。

・一方、魏のほうでも乱世の終結と世代交代は同じように意識されています。
かつて仲達が曹操に上奏した策を孫の曹叡が用いることは、社会情勢が変化する何十年も先を見越して立てていた政策が世代を経て引き継がれ生きながらえてきたということだと思います。
私は歴史には詳しくないし、宮殿造営のような事業が本当にこういう目的で行われたのか、それとも単なる帝の贅沢だったのかはわからないけれど、(結果論かもしれませんが)軍縮の方策になった、というのは興味深い解釈だと思いました。
本当のところはどうだったんでしょう? 通常の解釈では蜀も漢王朝の復興と天下統一を目指して北伐をしていたのだし、総力戦で何度も出兵していたのだからこの時期に軍屯や宮殿造営なんてところへは気が回らなかった? でも宮殿のほうはともかく兵糧を得るための軍屯はやっていた(というかやらざるを得なかった)のでしょうね。兵糧が出兵前に十分用意できていればそんなことはする必要がなかった、といういわばマイナスの点を、戦争が終わった後の社会運営を考慮して計画的にやっていたんですよ、というプラスに転換する、というのはすごく諏訪さんらしい発想だな、と感心しました。

・それにしても孔明と仲達のエピソードが交互に語られる今回は、この2人が対立する陣営にあって、同じことを同じように考え、同じように対応し、同じものを目指している不思議について今まで以上に考えずにいられませんでした。
そもそも有能な文官気質の2人がいろいろないきさつがあって軍を預かることになり、戦をすることよりも戦をしないことで戦おうとする。目の前の敵と戦うのではなく、社会の構造や、魏延の言葉を借りれば「人はより大きな力・権威にしか従わぬ生き物」というある種の真理と戦い、ついには(一時的なものかもしれないけれど)勝利をおさめようとしている。でも多分その勝利は長くは続かないということもこの2人は心の底ではわかっているのではないでしょうか。だからこそ「イタチごっこのように」次々と悪事が出てきても「死ぬまで知恵比べしますよ そいつらと!※(少なくとも自分が生きている限りは)」と言う言葉が出てくるのですね。

・いよいよ来月号、最終回です。
一読者としてはまだまだ描いてほしいこともたくさんあるのですが、どんなラストを見せていただけるのか楽しみにしています。だって『三国志』の終わりなんてある意味決まっているでしょ。問題はどこまで描くか、ということくらいで。
個人的には隴ちゃん(もう「ちゃん」て年でもないか)が仲達に渡したものが大事な鍵になるような予感。(根拠は何もないけど。)

注:「死ぬまで〜」は作中の仲達のせりふですが、※(少なくとも自分が生きている限りは)の部分は私が自分の解釈で付け足しました。


★『flowers』2007年5月号(2007年3月28日発売)

・今月は(も?)感想を書くのが遅くなってしまいました。
体調不良というのも大きな原因なのですが、今回実はかなり悩んだのです。自分の中で今月号の内容がうまく整理できなくて。
私は諏訪さんの大ファンなんですが、実を言うと最初に今月号を読んだとき、今回のストーリーはこれでよかったのか、ほかにやりようがあったのではないか、今までで初めてと言っていいくらい考え込んでしまいました。
一言で言うと、「諏訪漫画」としては正しい展開だけど「三国志」としてはどうなのか、と。
いや「時地」が必ずしも「三国志」である必要なんかないのですが、でもそれなら諏訪さんが「三国志」を描くことの意味は何なのか、とか。
「三国志」としての「時地」に足りないもの、今までもなんとなく感じてきたけれど、それは「非情さ」なのではないかなあと思います。あの時代、彼らのような立場の人間には(多分)必ず身近にあったはずのもの。泣いてもわめいても、一番大切なものをあっという間にもぎとってしまい、決して返してはくれなかった、大きな力。ときには自分がその「大きな力」にならなければならない決意。どうしても自分の望むようにならないことがこの世界にはある、という厳然とした事実。
「三国志」を読んでいる、と思うから、それがないことに違和感や時には物足りなさを感じてしまうのも確かです。今までも「時地」は「三国志」である前に「諏訪作品」なのだと思い、従来の「三国志」とは全く違う視点で違うアプローチで描かれたものだと理解していたのだけど、今回「ここまでやっちゃっていいのかなあ」とふと疑問に感じたのも正直言ってホントのことでした。
一読者としては馬謖も喬も決して死なせたくはないです。誌面の上・フィクションの世界とはいえこんなに長く付き合ってきて、ことによっては現実の人間のように身近に感じ、彼らの心情に共感したり反発したり「あああ、バカだねえ」とはらはらしたりした気持ちにウソはない。
でもね、でも、こんなに孔明にとっていいように物事が運んでしまっていいのか、とも思ってしまいます。いや今までつらいこと苦しいこと、思い通りにいかないことももたくさんあったはずなんだけど。
ただ、街亭での失敗を喬の責任にしたことには、単に「時地の馬謖がやりそうにない」からというだけではないものを感じました。
「何千という人を」 「煙に… 火に焼かれ」「死に」追いやったのは喬だけではない。孔明も20年前に赤壁でやってしまったことだった。因果はめぐる、というか、逃れようとしてもやってしまった事実からは一生逃れられない、後になって「焦って火計に走り多大な犠牲者を出すよりも先に交渉で事態を解決すべきだった」と悟っても、それを他の人々や次の世代に正しく伝えていくことのどれほど困難であることか。
軍師の仕事は「殺すこと」ではなく「殺さない」ことなのだ、ということを語るためにこの展開があったのかもしれません。それは「時の地平線」という作品に一貫して流れるテーマのひとつなんだと思います。

・この街亭のエピソードではてっきり馬謖退場となると思っていただけに、子竜の最期には本当に驚きました。
私は北方版の「三国志」を読んでいたので、勝手に子竜は最後まで孔明と一緒にいるのだとばかり思い込んでいましたが、史実(正史)では229年没となっているのでここで亡くなるのは実は史実通りだったんですね。そのせいで先月号のラストでも「子竜が死ぬわけないしー」と楽観していたのですが、甘かった…。
こうしてひとりひとり退場していくのはとても悲しいけれど、でも皆信じたことを「死ぬまで放り出せない」で、最後まで逃げずに自分の信念にしがみつき、前を向いたままで倒れていく、その後姿を追っている人がちゃんといる、ということに胸が熱くなりました。それがどんなに苦しくても、一歩一歩確実に進んできて、踏み出したところにはちゃんと今まで見えなかった新しい地平線があるのだ、という作品の主題をくっきりと表した今月のラストシーンだったと思います。
子竜の「オレはおまえにだけは負けたくないんだ」には泣けました。糜夫人を助けられかった自分の無力に涙しながら「あいつにだけは 負けたくねえ!」と心で叫んでいたあの出会いの頃から、こんなにも時間がたち、遠いところへ来てしまったと。
そして、今まで散々「孔明たちが年を取らない!」と書いてきましたが、今回初めて、彼らの外見は実は内面の現れなのではなかったか、と思い当たりました。
すごい妄想入ってるかもしれませんが、きっとあの世界では実際の彼らはちゃんと年齢相応の外見をしているのです。でも彼らの内面が若い頃と変わっていない、「最初は高い志を掲げても うまいこと言っても 欲やしがらみ 世の中のありさまに負けて 放り出す」ことはしなかった、ということを読者に伝えるために、あえて若い頃のままの姿で描いているのかもしれないなあ、なんて。
いやだって孔明たちはともかく、共都姐さんて多分50代末から下手したら60歳いってるんじゃないですか? あれはありえんでしょう!(同じ女として切実な叫び) 由美かおる?


★『flowers』2007年4月号(2007年2月28日発売)

・表紙が珍しく孔明・子竜・馬超のトリオでした。諏訪さんは以前「2人以上の人物をひとつの画面に描くのが苦手」とおっしゃっていたような気がするのですが、確かに過去の表紙絵を見ても圧倒的に人物ひとりの絵が多いです。でも今月号の表紙は、同じ場所にそれぞれの方向を向いて、でも3人が確かに一緒にいる、というとてもいい雰囲気。
またアオリがしみじみと感慨深いです。今は友情と信頼で結ばれた3人だけど、いつか別れのときが来る、でもそれは実は悪いことじゃない。始まったものはいつか必ず終わるけど、終わることを恐れて何も始めないのは馬鹿げている、と思えます。
そういえば子竜と孔明、孔明たちと馬超も会ってすぐ意気投合、なんてしたわけではなくて、今のような関係を築くまでにかなり衝突したし紆余曲折がありました。なんというか、苦労しないで得られるものにたいしたものはない、のかも。

・冒頭の馬超と孔明の会話、なんだか2人が会うのはこれで最後、みたいな感じがして不安になりました。ひょっとしてこれが今生の別れになるのかなあ。そのわりには少々あっさりしすぎているような気もしますが。史実では馬超の没年や理由ははっきりしていないらしいので、この後再登場の可能性がどれだけあるのかは全く謎なんですけど。まあこれだけ存在が大きくなってしまった以上、ほんとに最後の出番のときにはもっとちゃんと盛り上がりがあるとは思いますが。
しかし馬超は毛皮が似合いますね、ゴージャスでいいわ〜。羽織っているのはともかく、帽子のほうはなんの毛皮でしょう? 普通毛皮の帽子でこの形ならアライグマとかビーバーとか? でも中国の北部にそんな動物がいるのかしら。は、ひょっとしてタヌキ…。い、いかん、馬超のイメージが〜。

・最近物語がいよいよ大詰めに入ってきたせいか仲達の出番が多くて嬉しい私。いつでも冷静で飄々としていていいなあ。もちろん人並みに驚いたり冷や汗をかいたりすることもあるのですが、孔明と違ってそれを表に出すより先に自分の中で整理して落ち着き場所を決めて片付けることができる人なのね。
それと、現代の作家が描いているから当然の展開なのかもしれないけど、戦争を終わらせるために実力行使よりも先に、機を見て和解の交渉を前もってしてしまう(たとえ「密約」と呼ばれるものでも)、というのが、やっぱり時代を先取りしているのかな、と思います。敵の本拠地に攻め入って最高権力者の首級を挙げるまで戦が終わらない、のではなくて、どこかできっかけを掴んで双方の条件を照らし合わせてお互い手を打てるところを見つける、というのが。この方式が行き着くところまで行ってしまえば、そもそも軍隊の出番はなくなってしまうわけで、でもそれは現代の社会でもまだまだ理想なんですよねえ…。
しかし関係ないけど仲達も年取りませんね。孔明より年上のはずだけど。でもこのタイプの人って若い頃からあまり若々しい外見ではないので、年を取っても「老けた」というイメージがなくて結構得だったりします。藤村俊二さんとかね(個人的に好きなのですぐ名前が出てきた・笑)。

・今月はいよいよ街亭、「泣いて馬謖を斬る」の回かと思いきや…。
うーーん、そうきたかー。確かに、登場した頃の馬謖なら孔明への反発と自分の才覚への自信(つか自惚れ)から、命令を無視して山に登るということがありそうな気がしていたんですが、最近の展開を見るにその線は可能性低そうだし、どういう解釈になるのかなあと思っていたんですが。
若輩者が勝手に気を回していらんことをやって思慮の浅さから大失態を招く、という構造はそのままなんですけど、これだとこの後「公正を期すために大事な側近でも重大な過失があれば厳しく処分する」という方向に持って行きにくい気がします。喬は孔明にとって自分の息子でもあるけど、実は兄の子で蜀と呉のつながりを託されている存在でもありますから、大失敗をしでかしたからといって処分(死刑に)するわけにもいかないだろうし、責任を感じて自害という手もあるけど、それをやったら史実とかなり変わってきてしまうし。来月号どうするんだろう?? 兵の大半を失い、街亭を敵に渡し、なおかつ子竜まで危険な状態に、ということであれば生半可なことではすませられなさそうなのですが。

・魏延との会話にさらっと出てきた「次には秋に再出兵する」ってとうとう「秋風吹く五丈原」になるんでしょうか。一部ではあと2,3回で最終回という噂が流れておりますが、まだまだ十分描ききっていないと思えるのは私だけかなあ。確かにここのところ話は着実に進んでいるんですけど、うーん…。



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