今月の『諸葛孔明 時の地平線』


★『flowers』2006年9月号(2006年7月28日発売)

・「孔明がどうしても陸遜を殺すと言い張るなら 庭に引き出して斬れ」
劉備の病が孔明の怒りに火をつけた。人が変わったように陸遜を討つと主張する孔明を全身全霊で説得しようと試みる子竜。その様子を遠くから見守る馬超と共都。時代の熱は二匹の龍となり、一方の拠り所を失った龍は孔明の内に入り込み、高熱を発し渦巻きながら出口を求め暴走する。解決策を示唆する安期生、それを聞いておののく華陀。
「そのときは 一緒に沈むだけさ」
孔明はあの日劉備がくれたものを取り戻すことができるのか---。

・ここ数ヶ月の展開が一挙にクライマックスに達した感がある今月号でした。
読んでいて思い浮かんだのは『玄奘西域記』での玄奘とハザクです。どこがどうかぶっている、というわけではないんだけど。強いて言えば普段は頭のいい秀才タイプなのにいざ頭に血が上ると何も見えなくなって、実践家タイプの相棒のほうが理性的に現実を見ている、みたいなイメージかな。
今月号の前半ではいつのまにか子竜と孔明の立場が逆転していました。
孔明の「それなら先にわれわれが江東を平定するほうが被害が少ない」というせりふを読んで、これは危ないなと思いました。だってこの論理は蜀攻め前の士元と同じなんだもの。あれほど理性を持って士元を止めようとしていた孔明なのに、劉備の生命の危機に際して全く感情に歯止めが効かなくなっている。第7場ではちゃんと理解していた自分の「封印を解いて暴れたがっている子どもの熱」に無自覚になっているような。このコマの焦りの表情には狂気が感じられます。
結局子竜が危ういところで逆上した孔明の目をさまさせることができたのは、2人の、長い間かけて築いてきた絆(理解や共感)があったればこそ、なのでしょう。
でもできたらもう少し2人の外見が年相応だったらなー、と思います。出会った頃と外見がほとんど変わっていないので、2人が時間をかけて信頼できる関係を築いてきたという実感が湧きにくいのです。少女漫画で髭のオジサンたちが主人公、というのも難しいとは思いますが。
ま、孔明は「万年・悩める青年」だからしょうがないのか。

・安期生の「龍は人の熱の走る道だ」という言葉が印象的でした。
時代の空気や流れは少しずつ動き始めて、それと知れるくらいになったときにはすでにもう止められないくらいの勢いでひた走っていて、その怒涛のような流れが歴史の転換点につながっていくのでしょう。第二次世界大戦前の日本やドイツが流されていったように、「これは危ない」と気がつくころにはもうどうしようもなくなっている、みたいな。
そして孔明や曹操はそのはけ口と言うか、その時代の熱の象徴となる人物なんですね。
ひょっとしたら諏訪さんが描きたいのは諸葛孔明・曹操といった「人間」だけではなく、その「熱」そのものなのかもしれません。そのことを端的に説明しているのが「時の傍観者」安期生の視点であり、言葉なのでは。
では安期生や華陀の手から発する「時代の龍を無に帰する熱」の正体はいったい何なのか、という疑問は残りますが。
安期生は超常能力を持つ神話時代からの先住民族の生き残りで、ということは実際「神」と言ってもいい存在なのかもしれません。自身は熱の痛みと手っ取り早く乱世を終わらせられるということで手のひらの熱を始皇帝(ですよね?)に向けて発してしまい、その結果乱世は終わって平和が訪れたけれど、本人は「本当にそれでよかったのか?」と思っているのではないでしょうか。たとえ一般の人びとと全く違う存在の自分達であっても、神の視点で世界を見、コントロールしようとするのは思い上がりであり、楽な方法に逃げて一足飛びに問題を解決しようとする姿勢をよしとしない、と。

・安期生・華陀だけでなく、共都姐さんや馬超も2人の会話を見守っているということがなんだか嬉しく思えました。諏訪さんの作品はクライマックスで2人の会話が延々と続く、というのが多いですが、会話は2人の間だけで行われていても、その成り行きを見届けよう、何かあったら助けようとしている仲間がいる、というのはいいものだなあ。
それも孔明が長い時間をかけて努力してきた証なんですよね。
子竜が(馬超は)「漢人でも『おまえは』信用したんだよ」と言うように、もしも一人の漢人を信用できたら他の漢人にも信じられる人間はいるかもしれない、信頼というものはそうして少しずつ広がっていくものなのでしょう。
もとはたった一人でも、0(ゼロ)と1の差はとてつもなく大きい。0から1へ進むことができたら、1から2へ、2から3へと進んでいくのはよりたやすくなるんだと思います。(でもこれって諸刃の剣にもなりますね。不信もそうやって広がっていくのでしょうから…。)
華陀が手の熱を孔明に向けられなかったのも同じく華陀が「おまえは信用した」から、今まで築いてきた心のつながりがあったから。
そしてそれこそが絶望の中の希望になりうる、全ての拠り所なのではないでしょうか。

・そんでもって最後にひとつお願いが。
酒宴には共都姐さんも混ぜてあげてくださいね〜、諏訪さん!



★『flowers』2006年8月号(2006年6月28日発売)

・難民を伴い荊州から脱出中の劉備と呉の間で戦闘が始まったとの報が入り、子竜は急ぎ夷陵へと向かう。
途中危ういところを共都に助けられ、追撃する陸遜を馬超が食い止め、なんとか劉備を救い落ち延びていくが、ようやくたどりついた白帝城で劉備は病に倒れてしまう。
しかし、陸遜の策略にはまり関羽・張飛に続き劉備まで失うことを恐れ、怒りに燃える孔明を見た劉備が子竜に命じたことは…。

・さあ物語は佳境に入ってまいりました!
や、このシリアスな場面で浮かれ口調になることをお許しください。でもここ数ヶ月蜀は呉にまんまと罠にはめられてばかりで後手後手に回っていたきらいがあって、関羽・張飛の退場という(ついでに馬謖も一旦姿を消したり)三国志的にはかなり重要な展開なのになんだかさらっと進んでしまったなあ、とちょっと物足りない気もしていたので。
今月号だって陸遜にはめられて劣勢に追い込まれたのは同じなのだけど、ただあれよあれよと状況に巻き込まれていくというのではなくて、劉備や孔明の気持ちがまず土台にあって、それをベースにして話が進んでいくので、ああこういう感じは久しぶりかも、と思ったのです。
後半は一転、時地ならではの展開に持ち込んでいますしね。

・共都姐さん、お久しぶりです〜。あいかわらずいい女だ。しかし孔明や子竜だけでなく姐さんも年取りませんね。最初に登場したときから10年以上たっているはずなのですが。
子竜に「来るならもっと早く来いよ」と言われて「スマン」と言ってるのが好き。「ごめん」でも「悪かった」でもなくて「スマン」なんですよね。なんかすごく姐さんに合ってるなあと思いました。
そんでもって馬超も、どうしてあなたたちはこういつもおいしいところを持っていくの? という感じ。陸遜の名前を忘れていたのもわざとかしら?演出かしら?みたいな。後ろから馬岱が「陸遜ですリクソン!」と言ってるのもお約束〜。嬉しくなってしまいます。
いや決してけなしてるわけではありませんよ。私お約束大好きですから。ちゃんと生きてる使い方をしてるかぎりは。こういう「お約束」って、そこにいたるまでのキャラクター設定とか状況とかがちゃんと描けてないと効果ないものでしょ。

・さてここから少し真面目な感想です。
上記の馬超と陸遜の会話で「国が3つあると大戦にはならずこぜりあいにしかならない」というせりふがありましたが、それは逆に考えると、「大戦にはならないけどこぜりあいは起こってしまう」ということなんですね。
もちろん大きな戦が起きてたくさんの人が死に国が疲弊することを考えるとこぜりあいのほうがずっとまし。でもそのこぜりあいに巻き込まれてしまう人というのもどうしても出てしまう。
まあこぜりあいで終わるのなら比較的すぐに普通の生活に戻れるし、生活の基盤が取り返しようのないくらい壊れてしまう可能性も低いのでまだまし、ということなのでしょうが。でも誰かが犠牲になるのは同じだし。
通常の三国志では、「三国鼎立」というのは、すぐに国をひとつに統一する力がないのでとりあえず3つに分け、その後国力をつけて自分達が中国(という呼び名ではないですが当時は)をひとつにまとめ、支配・統治するための、いわば暫定的な策で、統一への通過点であるわけです。
しかし時地では最初に孔明が劉備に「三国鼎立」を説いたとき以降、「その先」へのビジョンが語られることがあまりなかったように思います。なんだか「国を3つに分けること」が最終目的のような気がしていたのは私だけでしょうか。だって曹操も最後まで「三国」にこだわっていたし。
曹操はともかくとしても、劉備・孔明にとってはその先すなわち国の統一はどうしたって平和に無血でというのはかなり困難なはずで、だから最終目的(国の統一…誰がトップに立つにしても)をしっかり確認すること・そういう蜀陣営を描くこと、が、先延ばしにされていたような印象もあるのです。
それが今月号の後半でひとつ新しい展開が見えてきたのかな、と。
ひょっとして諏訪さん(または諏訪さんが描く劉備や孔明)の「三国鼎立」は中国統一・新しい皇帝(権力)への通過点ではなくて、共和制に近いものではないでしょうか。この時代にはまず出てこない発想だとは思いますが…。

・もうひとつ印象に残ったのは、劉備が「本当は心のどこかで 陸遜に一矢報いたい そう思っていたのかもしれねえな」と告白した場面です。やはりそうでなければあまりにもこの劉備は立派すぎ・聖人すぎてなんだか人間として違和感がありました。
でもそれを認め、そういう個人的な恨みで大勢の国民を危険に巻き込むことの愚かさを知り、あえて「今こそ 話し合うんだよ」と言えるキャラクター造形が諏訪さんの新しいところかと思います。
劉備は、話し合うことができないのなら、孔明を斬れと子竜に命じます。
私、これはもしかしたら諏訪版「泣いて馬謖を切る」なのかも、と一瞬思い浮かびました。
(いやまあ、ここで孔明がうっとり斬られて死んじゃったら連載終わっちゃうからそれはないんだろうけど…。)


★『flowers』2006年7月号(2006年5月28日発売)

・関羽・張飛を失い、馬謖も陣営を去り、孔明は泊り込みで仕事をすることも少なくなり家に帰る日が多くなっていた。山積する難問になかなか気が休まらない孔明だが、彼の顔を見ることが何よりも嬉しい宏や喬、気遣う英に囲まれ、少しずつ元気を取り戻す。
だが難民を非難させるために出兵した劉備軍が、呉で陸遜を牽制する諸葛謹の働きもむなしく戦闘に巻き込まれたとの報せが入る。
援軍を送ろうにも人手が足りない蜀陣営に強力な援軍が…。

・冒頭はほほえましい孔明の家庭生活(笑)。
英さんが子育てを農作業にたとえたのは、作者の諏訪さんが園芸好きだからなんだろうな、と思いました。
「毎日違う顔を見せてくれて 成長が楽しいんですよね」というのは諏訪さんの実感なのではないでしょうか。
宏はどんどん士元に似てきますね〜。寧寧さんとは正式に結婚していたのかどうかわかりませんが、妾腹とはいえ一応良家のおぼっちゃまだし、士元の生家(陵中)からは遠く離れているけど経済的には全く困っていないのでしょうし、士元が子どものころもこんなだったんだろうなー、と思うとなんか笑っちゃうような懐かしいような不思議な気がします。
それにしても寧寧さんはほとんどこの家の主婦と化してますね。なんだかもうこのまま大家族になっちゃってもいいんじゃないの〜。日本でも何十年か前くらいまでは、家族以外になんで一緒に住んでるのかよくわからない親戚とかもいたりしたそうですし。
いやだって、孔明もそろそろ40歳でしょ。ひょっとしてこのまま英さんと結婚しないで、ってことも…(ないか)。
でもこれからもうすぐ白帝城になるわけだし、また結婚どころじゃなくなっちゃいそう。あ、でも蜀の権力図ががらりと変わるわけですから、独身ではそろそろさすがにまずい、みたいな流れになるのかなあ。
どっちにしろ誰かが一肌脱いでくれないと、本人にまかせてたんじゃ一生結婚できませんわ。頑張れ孔明! 甲斐性見せろ〜!
しかしここまで長い春(?)が続くというのは、孔明・英さんの2人とも恋愛体質ではないというのが大きいんでしょうね。恋愛なんて、と思っているわけではないんだけど、人生の中での優先順位が低いと言うのか、ほかにやりたいこと・やるべきことがあったら恋愛はとりあえず後回しでも全然気にならない、みたいな。
や、だってさー、バレたら即殺されること必至、最終的には曹操と刺し違えて死ぬ覚悟で二重スパイ生活を送っていた士元なんか、あの極限状態でちゃっかり恋愛していたもんなあ。孔明には絶対無理! もう体質としか言いようがない(笑)。

・まあそれはさておき。
今回の見所は前半の孔明家庭編だけではなくて、諸葛謹兄さんと陸遜の静かな戦いですね。
個人的には謹兄さんのほうがいわゆる「諸葛孔明」のイメージに近いかもしれません。
最近の孔明はどちらかというと蜀で内政に力を注いでいることが多くてあまりその描写もないせいか、腕を振るっているというイメージがないような。
しかし馬超のときもそうでしたが、孔明と同じく土地を追われて避難民の生活をしてきたのに、陸遜と孔明の立場や思想が180度違うものになってしまったのはいったいどうしてなんでしょう。
多分孔明のほうが少数派なのではあるのでしょうが、同じ経験をしてもまったく違う道を選んでしまうことがしばしばあるのは、人間て不思議だなあと思います。
馬超はそれでも孔明(と子竜)の時間をかけた説得によって少しずつ変わっていったけれど、陸遜はもうこのまま変わることはできないのでしょうね。どんな体験をしたかだけではなくて、その前後にどんな人に出会ったか、というのも人生の分かれ道なのかも。
自分がひどいことをされたから人にも同じことをしてやる、と考えるのと、ひどいことをされたから人にはしないようにする、と考えることの違いはどこから来るんでしょうか。
信念を変えることは今までの自分や自分が正しいと信じていて大切に思っていたことを否定することなのだし、変わることができる人のほうが少数派なんだろうなあ…。

・そして後半、(多分)陸遜の計略にはまって出兵した劉備軍に強力な助っ人が〜。
ここで百戦錬磨の武将に花(しかも大輪の牡丹だ。なんて華やかな!)を背負わせる諏訪さんの感覚が私は好きです。これこそ少女漫画だ! かつて青池保子さんも『エロイカより愛をこめて』で脇役のおじさんたちに「これでもか〜」と花を背負わせまくっていましたが、あの開き直り(?)ともまたちょっと違う。
こういうシーンを見ると、諏訪さんの「三国志を『少女漫画』で描く」というこだわりが感じられますね。きっと諏訪さんは少女漫画の利点も欠点も限界も知った上で少女漫画という媒体が大好きなんだろうな、と思います。



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