今月の『諸葛孔明 時の地平線』
★『flowers』2006年3月号(2006年1月28日発売) ・荊州・樊城にて曹仁を籠城させ包囲を固める関羽への対処をめぐり、曹操軍・孫権軍ではさまざまな思惑が交差する。 陸遜の計略を見抜き出兵を見合わせようと献策するが軍議では黙殺される仲達に、曹真は新たな角度からものを見ることを助言する。 彼の助言は仲達にとって「新しい地平線」になりうるのか---。 一方関羽は優勢を保っていたが兵糧が届かないという「事故」により撤退を余儀なくさせられた。気づかぬうちに陸遜の罠にはまり追い詰められていく関羽。決死の覚悟で降伏を呼びかけにきた諸葛謹の説得もすでに遅く、関羽は蜀の、ひいては三国の未来のためその申し出を断り、息子・関平とともに冬枯れの野を落ち延びていくのだった。 ・とうとう関羽退場です。 このあと続いて退場していく人たちが何人もいるのですが、その始まりの割には静かなストーリー展開だったのがちょっと意外でした。 クライマックスの、関羽が諸葛謹の申し出を断るシーンくらいでしょうか、動きがあったのは。それでもあの言葉は言ってるそのままの意味ではないですし。諸葛謹の命を救うためにあえてあんな行動を取ったのは謹にも重々わかっているはずなので、やはり全編通じて静かな回だったという印象が否めません。 いやだって、普通三国志的にはこれでもか〜と盛り上げてしかるべきエピソードだと思うのですよ。関羽の最後ももっと詳しく具体的に、華々しく描かれるのではないかと。 しかし「時地」では派手な戦闘も戦闘の果ての雄雄しい最期もなく、淡々と話が進んでいったなあ、という感じがしました。 冒頭からしていつものように青二才の書生・仲達は偉いさんたちに無視されてますし(笑) この静かさは、関羽が陸遜の少しずつ周囲を囲み包囲を狭めて逃げ道をなくしていく周到な計略に気付かず、じわじわと追い詰められていくようすをよく表しているみたいで、激しい戦闘の末の最期よりもなんだか怖いように思いました。 最近『となり町戦争』(三崎亜紀さん)という本を読んだのですが、いつのまにか始まり、町の「公的事業」として淡々とまるで予定表を消化するように進められていく戦争がいつしか日常になっていくようすを静かに描いた、実際の戦争も実はこれと同じなのかも、と思わせる怖い話で、この静かな不気味さ、得体の知れない不安感に今回のストーリーとの共通点を感じました。 街が焼かれ死体の山が築かれるだけでなく、戦というのはいつ始まったかわからないくらい周到に計画され気がついたときにはすでに手遅れ、という側面もある、ということなのかもしれません。 ・あー、なんだか今回は最初から最後までシリアス展開で、いつものほっとなごむシーンが全然なくて、感想書くのもついつい時間がかかってしまいました。 というか私の中でうまく消化できなかったのよね。ふう。 関羽が劉備の夢枕に立ったシーンは、演義での「関羽の幽霊が夜な夜な現れて…」というあたりに対応しているんでしょうか。 ・この後どんどん退場していく人が増えて、時地もまた新しい展開を迎えそうです。 以前諏訪先生の公式サイトの掲示板で、先生ご本人が「あと数巻で終わり」と書き込んでいらっしゃいましたが、まだまだ重要なエピソード、物語の急展開があるはずなんですが、そんな「数巻」で描けるのでしょうか?どこまで描くのかでも違ってくるでしょうけど。 退場する人たちだけでなく、馬超の行く末とか、孟獲との再会だってちゃんと伏線張られてたし、仲達のほうだってページを割かなきゃいけなかろうし、馬謖の暗殺事件もあのまま終わるわけではないですよね。 まあ数巻といっても2〜3巻と8〜9巻ではえらいちがいではありますが。 ひょっとしてこのままぐあーっと一気に終盤へなだれこんでいくのかなあ。 |
★『flowers』2006年2月号(2005年12月28日発売) ・孔明暗殺未遂に馬謖がからんでいる疑念を捨てられない子竜。その可能性を馬超にきっぱりと否定されても当夜の馬謖の様子に不審な気持ちを捨てられない。馬謖もまた自らの行動を孔明が疑わぬことに割り切れない気持ちを持つ。 孔明は怪我をして久しぶりに自邸に戻り、英とつかの間のなごやかな時間を持つが、うらはらに関羽が赴任する荊州には不穏な動きが…。 ・いやー今月は少女漫画してましたね! ていうか最初から少女漫画なんだけど、題材があれなのでついそのことを忘れてしまいます。 硬派の三国志ファン(て変な呼び方ですか)は「時地」を読んで「三国志じゃない」「当時の時代感覚ではありえない」という批評を下す方も多いようですが、私は常々「それはいささか的外れな読み方ではないかなあ、だって諏訪さんは少女漫画家なんだもん」と思っていました。 少女漫画だから歴史をちゃんと描かなくていいとか人物像が甘くてもいいとかそういうことではなくて、表現形態としてね、少女漫画でないとできないことがあるし、諏訪さんはちゃんとそこに自覚的なんだと思います。青年誌に載ってるみたいな本格歴史漫画を描こう、『蒼天航路』に負けない迫力ある「三国史」を描こう、なんて全然思ってないと思うよ。 「いい人すぎる」孔明や劉備の性格づけにしろ、少女漫画で三国志を描く切り口としては正解なんじゃないでしょうか。だって私たちだってわかってますもん、現実はそんなに簡単じゃない、理想の社会は実現困難だって。でも何が理想か、何を目指すべきか、それを少女漫画というメディアで、「時地」という物語のなかで、ほかでもない「諏訪緑」という作家が説得力のある言葉で描くためには、甘いと言われてもこういうキャラクター作りやストーリー展開が必要なんですよ。 確かに「リアル」ではないのかもしれないけど、物語のメッセージを受け取った私たちが実際の生活の中で「自分達がどうすべきか」を考えていくきっかけになるのなら、それは「現実味がない」わけでは全くない、と思います。 ・話がずれた。 いやなんと言っても今月は英さんだなあ。あのヘアスタイルかわいすぎる! 現代ならわざわざパーマかけてああいうふうにする人たくさんいるのに〜。てか私もやりたい。でも当時は長くてまっすぐな黒髪が美人の条件だったんでしょうね、寧寧や隴みたいに。 英さん現代に生きてたらめちゃくちゃもてたんじゃないかなあと思いました。小柄でかわいくて頭がよくていいとこのお嬢さんで、きっと(女子が少ない)理系に進んでいるはずなのでエリートのオトコたちもよりどりみどりよ〜。あのくせっ毛も、ショートでもかわいいし伸ばしてもワイルドでロックぽくてイイ! と思います。 でも私たちの目から見たら言うことなしの女の子(しかし今いくつだろう?)でも、容姿のことや、孔明が苦労してるのに自分は…みたいなコンプレックスを持っているのがかわいいなあ。 正直物語の大きな流れにとってはそんなに重要な役割ではないキャラなんですが、こういうところがしっかり描かれているとなんだか安心します。 だって少女漫画だもん! や、言い訳的に使ってるわけではないですよこのフレーズ。少女漫画で三国志を描く、って少女漫画で国際スパイ謀略もの(エロイカだってあえて少女漫画であれをやってるところがいいんだから)を描くのと同じくらいすごいことだと思いますから。 ・あとは馬超があいかわらずいいなあとか、手書きせりふのツッコミがえらく多かったなあとかまあいろいろ。 しかし後半はかなりシリアス展開になってきました。そろそろ関羽退場か…? てことはあの人たちもそろそろ…。本格的に世代交代の季節になりそうです。この経緯を諏訪さんはどう描かれるのか楽しみ。 |
★『flowers』2006年1月号(2005年11月28日発売) ・南越族の刺客に襲われ致命傷を負う孔明。どうにか命を取りとめることができたのは、馬超と子竜の働きとある偶然によるものだった。 死線をさまよう孔明はなにかにひきずられるように同じく「命」が尽きかけている曹操との不思議な出会いを体験する。 ・表紙のカラーが美しい〜。民族衣装シリーズですね。これはどこの衣装なんでしょうか。以前の動物表紙シリーズにしても、元ネタになった絵などがあるのなら一度まとめて特集してほしいです。「時地」データブックとか作ってもらえないかなあ(自分で調べればよいのでしょうが…)。 民族衣装も諏訪さんが描くと単なるエキゾチズムだけでなくて異民族・他文化への共感や共存というメッセージも(ひじょうに控えめなれど)あるように思えますね。 ・冒頭の竹林の意味するところはいったい…? 後半、孔明が意識を取り戻したとき邸の外に竹林が描かれていますが、遠のく意識の下で笹が風に揺れる音を聞いていたのかな? 意識が身体を離れて遠くへ飛ぼうとしている比喩なのかしら。 しかし子竜と馬超の大活躍のシーン、いつもながら緊迫感がありません〜(苦笑)。まあ孔明がここで死ぬことは絶対無いとわかっているせいもあるんですが。 刺客が南越族なのに漢人と同じような外見をしているのも大きいかも。いや劉備の本拠地に潜入するんだから服装を漢人ぽくするのは当然なれど、顔かたちを南国風にしてもらえるともっと臨場感が出たかなあ、とか。 あーでも華陀も最初とかなり顔変わりましたよね。初登場時はかなりタイとかベトナム系ぽかった。 ・以前、諏訪さんはあまり超自然的な展開を描かないように思う、と書いたことがあるんですが、今回はいきなりファンタジーに! ちょっとびっくり。 まあ『玄奘西域記』の深沙神のくだりもそうとも読めますが、でもあれは「玄奘の無意識」でも説明つくしね。 多分諏訪さんはこれまでいろいろな三国志を読んで、孔明と曹操は実は同じタイプの人間の裏表の姿なのではないか、もしも2人が膝を突き合わせて語り合うことがあったら、もしもうまく一緒にやっていくことができたら、歴史は大きく変わっていたのではないだろうか、と思っていたのではないでしょうか。もちろん「歴史に『もし』はない」のはちゃんとわかっている上で。 そしてこの2人の行動原理を「理想を求める妥協を知らない子どもの熱」と解釈したのはちょっとすごいと思います。なんというか、全く違う視点から見た三国志解釈なのではないかなあ。普通、男性作家の描く三国志(歴史・戦記もの)ではこういう考え方は出てこないのでは。曹操が魏王になったのが全国制覇の前段階としてではなく、孔明の三国鼎立案を汲んでのことだった、というのも。 孔明と曹操の会話を読んで、同じ「子どもの熱」を持っていながら、実は曹操よりも孔明のほうが大人(それを「子どもの論理」だと自覚している)なのに改めて感心しました。あーそうか、諏訪さんのなかではこういう位置づけなのね、て感じで。普通逆じゃない? ・やーしかし諏訪版馬超はいいですね! この能天気なところがなんとも。 北方版馬超も相当好きなんですが、北方さんが描く武人って剛毅さの中に本人も気付いていないような深い哀しみがあってその意外性がいいんですけど、諏訪版馬超はその哀しさを持ち前の自信とか陽気さとか楽天性なんかでえいやっと強引に乗り越えている感じ。好きだー。 |