今月の『諸葛孔明 時の地平線』


★『flowers』2005年12月号(2005年10月28日発売)

・首尾よく漢中から曹操が撤退した後も少数民族たちの反乱は続いていた。漢中、ひいてはこの国の平和のため、劉備は法正のすすめにより漢中王を名乗ることを決意する。
その事実は曹操・孫権陣営等にも衝撃を与え、蜀に対する攻撃がさまざまな方向から忍び寄ろうとしていた。

・今月号は話が大きく動いています。
ついに劉備が漢中王を名乗り、関羽の運命も見えてきました。ラストの引きも久々に緊迫しているし。
漢中王については、この無欲な劉備がどうやって王の地位につくのかと思っていましたが、やはりこういう方向しかないでしょうね。孔明が言うように、王という地位に就く人間がみなこういう考えなら世界はもっと暮らしやすくなるのに。
馬謖に対して「人がそうだからといって自分がそうである必要もなかろう?」と言う孔明の言葉が印象的です。世の中の理不尽を嘆くのもシニカルに斜めから見るのもたやすい、でもそれを自分が率先して少しずつでも変えていこうとするのは難しい。だけどそれはやりがいのある仕事ではないか? と問いかけているように思えました。
最近日本でも女性天皇を認めるかという話題が取りざたされていますが、新聞等で関連記事を読むと、日本のように実際に権力を握る人物が入れ替わっても王朝がそのまま続くというのはかなり珍しいことなんだそうですね。大抵は曹操のように権力を握った人物が王朝を簒奪して新しい王になる。
その流れでいくと、実は劉備がやったこと(漢王朝の後継者になる)は時代の流れに逆行していたのかな、と思います。もっとも劉備自身は、少なくとも「時地」の劉備は権力を握る気持ちはさらさらなかったので、一時期自分が王の名を預かってゆくゆくは正当な後継者に返す、くらいのことは考えているのかも。
でも漢王朝のやりかたでダメだったからこの乱世になっているわけで、「オレが? 変える? いやそうじゃない 変わってゆくんだ 世の中は」と言っていた孔明も漢王朝の存続という時代の流れに逆行したなりゆきには逆らえなかったのかなあ、とちょっと考えてしまいました。

・曹操のもとに現れた安期生(華陀)と子竜のもとにあらわれた士元。
これまで諏訪さんはこういう超常現象的なことはあまり描かれなかったような気がするので、今回少し驚きました。
士元が退場したとき、はっきりと死んだという描写はなかったし遺体も結局見つからなかったので、ひょっとして安期生の側にいて再登場もあるのでは、という感想をネットで見ましたが、ホントにそうなのかな?
私としては死んだ人間はもう絶対に帰ってこない、だからこそ人の命は大切なのだと思っているので、士元再登場は今月号のあれだけにとどめておいてほしいなあと。
本当に士元が孔明の危機を知らせに来たのかもしれないし、子竜の武人としての危機感知能力がああいう形をとって現れたのかも、ということでもいいかと。

・ラストページのバタちゃん、涙目が似合いますな。ってそんなこと言ってる場合じゃないか。でも孔明がここで死ぬということはまずないので緊迫感がそがれるのはいたしかたないところ。「三国志」知らない人でもそうだよね。
でもここでバタちゃん退場ってことになると悲しいなあ。
どちらかというと孔明の運命を心配するというよりは、この襲撃に馬謖がからんでいるということがばれてしまうのかそれともばれないままか、ばれた場合どういう展開になるのか、のほうが興味あるかも〜。次号に期待です。


★『flowers』2005年11月号(2005年9月28日発売)

・夏候淵の死を契機に曹操軍は漢中から撤退し、束の間の平和が訪れた蜀に華陀が現れた。久しぶりの再会で亡き士元のこと、馬超の行動について話し合ううちに孔明の心も少しずつ落ち着いていく。
また黄家にて農業に関する書物を写本中の馬謖はそれと知らず英に出会い…。

・久しぶりに表紙と本編に華陀が登場。ナントカは忘れたころにやってくる、なんて。でも扉絵が動物シリーズでなくて少し残念です。華陀にはどんな動物が似合うかな?
本編で持っているショルダーバッグ、今でもエスニック雑貨屋さんで売ってそうですね。こういうバッグは当時からあったのでしょうか。民族衣装って結構昔から形が変わってなかったりしますもんね。

・今月も馬超・子竜の漫才(?)と常識人・孔明のツッコミ(おい)が見られて嬉しいです。
子竜と孔明の会話もいいんだけど、2人だけだとどうしても平行線というか、同じ方向にしか行かなかったりするので、3人というのはなかなかいいバランスなのではないかと思います。諏訪さんが描く劉備・張飛・関羽の若い頃の会話もちょっと見てみたくなりました。

・黄先生は相変わらず浮世離れしててかわいくていいなあ。シリアスな場面ではちゃんといろいろ考えてたりするんですが、普段はただの親バカというのが好きです。
でも確かに10年以上も婚約してたら必死にもなるわなあ。当時の、特に良家の基準では英さんすでに嫁き遅れだろうし。
しかし馬謖の前では臭くても平気なのに孔明に会うのは恥ずかしい、というのはようやく英さんにも遅い春がやってきたのかと微笑ましく読みました。「まだ婚約中なんですかあなたたち」には受けましたわ。他の三国志では英さんは容貌に難があって売れ残っていた、ということになっているので、そこのところを一致させるためにこんなに長い間結婚させなかったのかもしれませんね。

・今月は「三国志」的ストーリー展開は小休止。華陀と孔明、馬謖と英の会話が中心になっています。
私には特に馬謖と英の会話が印象に残りました。
「女子どもで何が悪い」という本があったと思いますが(未読・すみません)、2人の会話を読んで真っ先に思い浮かんだのがこの言葉です。
もちろん「戦争がなぜ許されないか」の理由として、「人を殺してはいけない」「他国を侵略・略奪してはいけない」という大原則があるのですが、それを自分の身に引き付けて実感を持って考えるために、もっと具体的な地に足をつけて一歩ずつ歩いていくような考え方が必要で、それが英さんにとっては子どもの頃から慣れ親しんできた「農業」だったのではないでしょうか。
英さんのようなこと(農業の発展で争いが収まる)を言うとやれ理想論だとかきれいごとだとかいう反論が必ずあって、でもそういう人が理想論より優れた確実な方法を持っているのかというと必ずしもそうではない。
私は理想論でいいじゃないか、と思うんですけど。大事なのは理想に向けて着実に進んでいくためにはどうしたらいいのか、であって。「女子どもの論理ではダメ」というのがホントなら、今頃世界はもっと住みやすくなっているんじゃないでしょうか。あまりそうとも思えませんけどね…。


★『flowers』2005年10月号(2005年8月28日発売)

・西暦213年。定軍山をめぐる篭城戦も1年近くがすぎ、両陣営とも膠着状態に陥っていた。夏候淵の甥・夏候尚を囮に、捕虜交換を前に一計を案じる子竜だが、捕虜達の命を重視する孔明に却下される。
しかし2人の話を隠れ聞いていた馬超は独断で行動を起こす。
夏候淵を失った曹操陣営では撤退をめぐって仲達が窮地に立たされるが…。

・今月の表紙は孔明&牛。これひょっとして七夕の牽牛でしょうか? あの話って中国原産でしたよね。でも背景は南方ぽいし、季節も違うし関係ないか…。
次はお月見の兎&英さんとかもかわいくていいかも〜。

・冒頭の仲達と楊脩の会話、やっぱり仲達っておぼっちゃまなんだなあ、と思います。金持ち喧嘩せず。何事にも必死になれないというか、がつがつしたところがないんですね。
女優・演出家のわかぎえふさんが『男体動物 若旦那に愛をこめて』(講談社)という本を書いていらっしゃるのですが、その中に出てくる若旦那の特徴が仲達と士元にすごくかぶっているんですよ。おっとり・のほほんとして必死に頑張るということができない、また必死にならなくてもなんでもある程度のレベルでできてしまう、みたいな。
崖っぷちに立っている楊脩のような立場の人とは根本的に違うのですな。悲しいことですが2人が理解しあえなかったのもむべなるかな。まあ楊脩の場合、自分で崖っぷちに立っていると勝手に思い込んでいたというのもなきにしもあらずですが。

・人質交換を前にした孔明と子竜の会話、また孔明が人の死がショックで何も食べられない、という描写があります。
この作品での孔明の人柄を表す端的なエピソードですが、通常人間はどんなひどいことでも慣れてしまい、平気になってしまうもの、時代的背景も考え合わせるとさらに、ある意味不自然なシーンであると言えるかもしれません。
でもあえてそれを描くというのは、人間の生命を奪うということは本当はそれくらい大変なことなのだという諏訪さんの主張ではないかと思います。

・その孔明を元気づけるために自分の昼ごはんの残りを差し出す子竜は、単純だけどいい男だなあと思います。世の中どんなにつらくても、食べて寝て体力つけて乗り切っていかなきゃならないのね、生きてる以上は。しかも孔明は一人で大勢の命を左右する立場になってしまっているのだし、亡くした人たちの命を悼み心痛のあまり病気になるよりも、しっかり食べて今後のより有効な対策を練るほうがいいでしょう。
しかしこのとき子竜が渡した食べ物、なんだったんでしょうね? この時代なら稲作も行われていたでしょうが、日本米と違ってあちらの米はおにぎりにはできないような気がするし、干し飯にしていたのかな?
当時の食べ物についてはほとんど文献が残っていないそうで、諏訪さんも『ユリイカ』に「当時の野菜を調べたがほとんどわからなかった」というようなことを書いていらっしゃいます。
蜀に関しては山間部なので海の幸は多分ほとんど食べられていなかったとのこと、琅邪生まれの孔明は魚介類が恋しかったかもしれませんね。

・子竜がカウンセラー的な役割を果たしているのは、孔明がひとりでなんでもやろうとするのにブレーキをかける意味があるのですが、膠着した事態を本当に進めるためには子竜だけではなく馬超も必要だった、というのが興味深いです。同じ劉備の臣である子竜はやってはいけないことでも、客将という身分の馬超にならできる。
子竜のエピソードだけなら「ひとりではできない」なのですが、実は二人でも足りなくて、いろんな違う立場の人と人との結びつきで社会は成り立っている、ということなんじゃないのかな、と思いました。
しかしここ数ヶ月馬超の株急上昇では。こういうハッタリをきかせた系(や、実力もあるんだけど)武人キャラは諏訪さんの作品では珍しいかも。
夏候淵との一騎打ちシーンでつくづく思ったのですが、やっぱり「娯楽としての『暴力』の魅力」というのはあるんですよ。今までの諏訪さんの作品ではそういう要素は皆無でしたけど。(玄奘のは暴力というにはちょっと、だし)。実際の生活では暴力なんてぜったいゴメンだと思っていても。まあ私がアクション映画が好きなだけかもしれませんけど…。

・後半は魏の内情を描くエピソード。こちらのほうも最近どんどんクローズアップされてきて面白くなってきました。
しかしそれ、軟禁じゃなくてりっぱに監禁だと思うんですが…>曹操
楊脩が持ってきたお弁当も気になります。フライドチキン?
終盤、曹操と仲達の会話を読むと、仲達が最後に残れたのは「国家」という入れ物よりも「政治」という中身・実質そのものを重視したから、だったのかも、と思えます。
「『名』よりも『実』をとったのだ」by曽我馬子@『日出処の天子』  なんてね。
やあまあ孔明だってそうなんですけど、でも理想の「国」を作ろうとしている時点でどこか仲達とは違うのかも。
今回とうとう仲達も「わたしの行く道」を見出すわけですが、これ4巻で孔明が隴ちゃん人質事件を契機に「自分の信じる道に踏み出す」=「自分の人生を生きる」決意を固めたのと呼応しているんですよね。
この辺がやっぱり「時地」は文官の三国志だなあと思います。だって武人って大抵、主人のため・国のためという信念が当然のように備わっていますから。
やっぱり諏訪作品は一貫して「悩みながら自分の人生を見つけ踏み出していく青年の物語」なのですね。




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