今月の『諸葛孔明 時の地平線』

★『flowers』2004年9月号(2004年7月28日発売)

・フ城に篭城して劉璋と話し合いで事を解決したい劉備陣営に、使者の張松の首が送り返されてきた。交渉決裂に焦る士元は劉備に無断で法正・李厳に強攻策を提言する。劉備の意向を気にかける2人に「責めは全て自分が負う」と断言する士元の胸中によぎるのは、周瑜から臨終の際に託された言葉だった。
その頃孔明は公安の邸を訪ねてきた馬岱と共に再度馬超を説得に漢中へ向かう。
前回同様、漢民族への恨みを声高に述べる馬超を挑発するかのように言葉を返す子竜。売り言葉に買い言葉の勢いで2人の一騎打ちが始まった。

・先月号のラストを読んで「一気に戦闘シーンに突入?」と思っていたのですが、やはりそうはいきませんでした。
今回は(も?)そこへ至るまでの経過がじっくりと描かれています。

・しかし、劉備は「フ城に籠城して劉璋とは話し合いで解決したい」と言っている、と士元のセリフにありますが、先月号の「蜀を攻めるぞ」「まずはフ城をいただく」という言葉とはちょっと印象が違うような気がします。話し合いで解決するのならこういう言い方はしないのでは?
今月号の劉備の「おふたりに申し上げておきたい」以下のセリフも、先月号のその言葉を思い出すとどうも釈然としません。法正と李厳にはこういうふうに言っておいて、実は士元の策(首を切って云々)が劉備の真意? とも推測できるのですが、それなら士元の回想シーンの意味がないような気がするし。
他の『三国志』ならば劉備が「徳の人」という自分の風評を利用して、表面では人道的なことを言いながら実は裏で画策しているという展開もありそうな気がするんですが、時地の劉備にはそれはなさそうな…。
今後の展開が読めません。うーん。

・ファンのくせに今月号で初めて気がついたのですが、士元の顔を覆う布、いつのまにか寧寧さんお手製の刺繍入りのものではなくて黒一色のものになっていますね。(今頃気づくな!)
いつからだっけ? と焦って見返してみたら、劉備軍の新しい軍師としてお目見えしたとき(第36場)から。
今の黒い布は士元なりの「戦闘服」なんだろうなあ。仕事だから黒無地というわけではなくて、肌触りのいい絹にきれいな花がたくさん刺繍された、寧寧さんの心のこもったあのスカーフを身につけていると非情になれないということなのではないかと。
周瑜臨終の回想シーンを見ていると、彼との「約束」を果たすためには非情にならなければ、と自分で自分に言い聞かせているような気がするのです。
でも本当に「約束」したんでしょうか。実際に「約束」していなくても今際のきわの人間にあれだけ必死に念を押されたらそうせざるを得なくなってしまうのでは。
なんつーかそれ「遺言」通り越して「呪い」ですよ…。

・膠着していた馬超との交渉でしたが、馬岱の荊州訪問、孔明の漢中再訪問、子竜VS馬超の一騎打ち、と大きく事態が動きました。
物事が動き始めるときってこういうものなのかも。
今回のハイライトとなるこの場面ですが、私は「われわれの血の上で 何も知らずに 平穏に暮らしている 漢人たち」という馬超のセリフを読んで、彼の漢人に対する恨みや憤りは「迫害を受けた」ということがもちろん最大の理由なのだけど、恨んでいることを無視されている、知られていないことも大きいのではないかと思いました。
「奴隷狩り、略奪、強姦 あげくに一族はだまされ皆殺し」という目に遭っているのに、そしてそのことを告発し続けているのに、一般の漢人は漢人が羌族にそんな仕打ちをしていることを知りもしない。独立のために戦っているのにそれが認められず「反乱」と片付けられてしまう。(現代と違って情報が一般に行き渡らないということもありますが。)
曹操を倒す、だけではなく、漢人を皆殺しにするという発想はそんなところから出てきたのかも。
突き詰めれば、同じ人間として同じ地平に立っていることを認められていない、大きく声を上げても無視されてしまうという状況とも言えるのではないでしょうか。
それはとても虚しい戦いのような気がします。
だからこそ馬岱は相手(馬超)の立場や考えを慮り、対等に誠実に向き合おうとしている孔明に心を開いたのだと思います。

・孔明はいつも問題が起こるたびに一人で出向いて交渉して解決しようとします。
以前に私は「展開としてマンネリにならないか?」と書いたことがあります。実は「その方法では解決できないこともあるのではないか」とも思っていました。
でも今回の馬超とのやりとりで、彼がそうしなければならない理由がわかったような気がしました。
「漢人」とひとくくりにして、抽象的な存在として見ているときは、憎むことはたやすい。でもたとえば「諸葛孔明」「趙子竜」等、「一人の人間」として向き合ったならちゃんと話ができるかもしれないし信頼できる友になれるかもしれない。
憎むべき「漢人」のなかにたった一人でも信頼できる友がいれば、暴力を使わずに話し合いで解決できる余地も生まれるかもしれない。諸葛孔明のような漢人がいるのだということを知っていれば、漢人の中にもほかにも信頼できる人物がいるのではないかという希望も生まれてくるし、「漢人」と乱暴にひとくくりにすることにも疑問が芽生える。
一見無駄で無謀に見える孔明の行動にはそういう意味もあったのですね。

・最後にひとつだけ。
今月号、と言うか最近、諏訪さんの時間がせっぱつまっているのか、描き文字が単調のような気がしてちょっと残念です。
諏訪さんの絵はかなりあっさりしているので、少年漫画のように一つの字が太さ1cm・サイズ5cm角で「ゴゴゴ…」「ズガーン!」だけで1ページ埋まっているようなものを期待しているわけではないのですが(ありえない)、漫画では擬音の描き文字も絵の一部、大事な表現手段なので、たとえば孔明と馬岱が水をかける「ばしゃーん」という文字だけでももう少し派手に描いてあったらな〜、という気がしました。
きっとネームとメインの作画に時間をかけていらっしゃるのだと思いますが…。



★『flowers』2004年8月号(2004年6月28日発売)

・曹操の配下となった司馬懿に遠征中の荀ケから書簡が届く。そこには互いの理想が相容れずついに曹操と決裂に至った経過と、これまで曹操に加担してきた責任を取って自害する覚悟であることが書かれていた。荀ケに「曹操のふところにあって おまえのなすべき道を見出してほしい」と今後のことを託され、司馬懿は自らの将来・役割について考え始める。
蜀に滞在する劉備たちはクーデター計画に加担していたと誤解され危地に陥るが、遠く離れた孔明にはなすすべもない。
事態の責任を負うべく士元と法正は自らの首を劉璋に差し出すよう劉備に進言するが…。

・いやー今月号は読み応えがありました!
予告もなしにいきなり巻頭だし(前回もそうだったっけ)、カラーページに司馬懿がばーんと登場してるし(今後の重要性を示唆しているのか?)
以前この欄で「主人公が動くと物語が動き出す」と書いたことがありますが、今回孔明はほとんど出番がないのにこの緊張感、躍動感はどういうこと? 
最近ちょっと登場人物が増えたり政治的なバランスのエピソードが多かったりして三国志を知らない人には話が見えにくくなっているキライがあるかなあと思っていたのですが、その少しずつ積み上げてきた地味な展開があったればこそ今月号の「いよいよ話が大きく動き出してきた!」というわくわく感もあるわけで。
正直この数ヶ月はわりと冷静に「ふむふむ、こうなってるわけね」と読んでいたのですが、今月号は久々に「うわー、次はどうなるねん! は、早く続きをー!!」と思ってしまいました。

・前半の荀ケ、孔明も年取ったら外見的にはこんな感じになるのかなー、という気がしました。なんかシワがリアルで。互いの信念が一致した主君に仕えているところは荀ケとは全く状況が違いますが、劉備死後の孔明はなにかと苦労が多そうだし…。

・互いに利用しあった関係だった、という曹操のせりふ、後半の劉備と士元の会話と呼応していると同時に、孔明と周瑜の最後の会話も思い出させます。
あのときは周瑜が「そなたはわたしの兵力を頼み わたしはそなたの才智を利用した」と言っていますがこれは言葉どおりの意味ではなくて、だからわたしのやりかたに同意できなくても、このまま決裂することになっても気に病むことはない、おまえはおまえの信じる道をゆけという真意があった。
実際にはちゃんと信頼があったからこそ「利用しあった関係」という言葉が出てきたのでしょう。

・そしてこれまで大局的な展望は特に持たず、ただただ仕事がおもしろいからと才智を発揮してきた司馬懿が、荀ケの書簡を読んで自分の役割、自分の「信じる道」を模索し始める。
全く世の中というものはどこかでつながっているのだな、と思います。それは空間的なものだけではなく、時間的なものもある。過去から未来へと想いを受け継いでいくことによって世界は成り立っていくのだ、ということも。これは『ヒカルの碁』の読みすぎでしょうかね(笑)

・今回、話のちょうど中心に差し込まれた感のある主人公・孔明のエピソード、短くて孔明自身の動きもあまりありませんが、ここでも単身劉備たちの救出に乗り込もうとするのを、子竜に「自分の役割」を気づかされ一旦荊州へ撤退するシーンがあったり。
いやはや本当に今回の構成はよくできているなあ、と感心しました。

・そして後半、最近あまり劉備というキャラクターの魅力が見えてこないというか、物足りない回が多かったのですが、今回は久々に彼の信念や器の大きさがしっかり描かれていて、孔明の知己・主君としての面目躍如といったところでしょうか。
P48の最後のコマ、この表情いいですよねー。劉備の魅力がすべて詰まっているような気が。共都姐さんが惚れ込んだのも頷けます。


★『flowers』2004年7月号(2004年5月28日発売)

・劉備陣営では馬超と同盟を結ぶことが決定、無事に会見できるかという不安が残るまま孔明は子竜とともに単独で交渉へと赴く。
そこへ今まで孔明に反発を続けてきた馬謖が羌族の端公(宗教的指導者)を伴って追いついてきた。「軍師どののためではなく、国の安定には馬超が必要だと思うから」と説明する馬謖。
1回目の会見では成果を挙げることはできなかったが、馬超は孔明の説得に心を動かされたところがある様子だった。
しかしその頃、蜀では益州牧・劉璋にクーデターの計画が漏れ、劉備たちに危険が迫っていた。

・先月号から約1年たっています。
冒頭、軍議のシーン、関羽が馬超との同盟のメリットを語っていますが、これはひょっとして軍師孔明の根回しの賜物でしょうか?
根回しって日本的習慣と言われていますが、このタイミングといい、張飛の気性を考えた内容といい、「こういう展開になったらお願いします」と事前に頼まれていたような雰囲気が。
画面には全然描かれていないけれど、「まあ孔明大人になったわね〜」と勝手に納得してしまいました。
張飛のせりふによると、2人の一騎打ちが描かれるのかもしれません。楽しみです。

・孔明が単身馬超に会いに行こうとするシーン、船を操ってさりげなく登場の関平は関羽の長男ですね。なんだか孫悟空みたいでかわいい。
おしのびで出かけようとしているのに関羽の息子が同行するということは、やはり軍議での発言といい、関羽と孔明はかなり通じているものがあるのかな、と思ってみたり。
でももしそうなら子竜は不機嫌になってしまうかも〜。関羽には単独で出かけると伝えているのになんでオレには…とか(笑)。

・家族が殺された夢を馬超が見ているシーン、彼と孔明が実はひじょうによく似た体験をしながら全く対照的な道をたどっていることに気付かされます。
孔明は自分と家族が暴力にさらされた結果、絶対に暴力を否定する方向に進んだのに対し、馬謖は受けた暴力はそれ相応の暴力で返すという、曹操と同じ道を選んだ。
でも馬超のみが責められるべきではなく、それは選びやすい道、多くの人が選ぶ道であるのでしょう。憎しみの連鎖ということですが。
本当に孔明は狭く険しい道を歩いているのだなあと思います。『三国志』の結末を知っていると、彼がこの道をどこまで歩きとおせるのか不安になってきますが、それが「時地」という物語のキーになるのかな、という気がします。

・P334の2コマめ、とても小さい絵だけど劉備に会った孔明と子竜の表情が本当に嬉しそうでかわいい! 曹操や孫権の陣営ではこんなことはないのでは。さらに続く2コマの孔明と子竜の表情の差もつい笑いがこみあげてしまいます。
今月のなごみ度No.2。
No.1はどこかというと、馬超を取り巻くきれいどころのおねーさんの「あらバタちゃんv」でした。なんか「パタリロ!」みたいで好き。

・馬超との会見シーン、いくらおしのびで来たとは言え、その服装&髪型はちょっと礼儀としてどうなんでしょうと思ってみたり。馬超は漢人を嫌っているから漢人の正装よりましなのかもしれないけど、気持ちの問題ってものもあるしなあ。
単に服を運ぶ余裕がなかっただけ?
「漢人と羌人をどこで分けるのか」という問いに「婚姻」という要素を持ち出したのは、馬超にも漢人の血が流れているのだと言いたかったのですよね。その後に続く「ご都合主義」というのは「涼州を奪還するのに力を貸すならオレも力を貸してやろう」という考え方のことでしょうか。それよりももっと大局的な視点を持ってほしい、というのが孔明の発言の意図なのかな。

・諏訪さんの作品全てに通じるテーマとして「暴力(物理的なものも精神的なものも)の否定」がありますが、そのせいか諏訪さんが描かれる武器にはもうひとつ迫力がないような気がしてちょっと残念なところもあります。
今回だと馬超が会見の途中ですらりと抜き放つ剣とそれを受ける子竜の剣。なんだかこれで斬られても死なないような気さえしてしまって。(すみません)
私なんかは美術館で日本刀を見て、そのあまりの美しさと迫力に「いやー、こんなの持ってたら人を斬ってみたいと思って辻斬りとかしちゃう気持ちもわからんでも…」などと思ってしまう罰当たりなヤツなので、できれば武器というものが持つ禍々しいまでの魅力と、だからこそそれに吸いこまれてしまうことの危険まで感じさせてくれるような描き方だと嬉しいなあ、と。
きっと諏訪さんは「武器=暴力を魅力的に描く」ことを意識的に避けていらっしゃるのだと思いますが。



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