今月の『諸葛孔明 時の地平線』

★『flowers』2004年3月号(2004年1月28日発売)

・例によって曹操の元を抜け出し自宅でくつろいでいた仲達に朝廷から迎えがやってくる。仲達を曹操の長子・曹丕の秘書官に命ずるという通達を荀ケがじきじきに持ってきたのだった。曹操の恐怖政治について、その下での文官のあり方について会話を交わす2人。その頃荊州陣営には蜀からの使者が訪れ、蜀を取るためのひそやかな計画が士元を中心に動き出そうとしていた。

・冒頭から久しぶりに司馬仲達の登場です。のほほんとマイペース、一見ノンシャランとだらしなさそうで実は切れ者というキャラは『玄奘西域記』のプラジュニャーカラを思い出させて実は私の好きなタイプ〜。しかしあんないい家の「ぼっちゃま」なのによくあんなにだらしない格好でいられますねー。お世話係とかいないのか? 衣の下に着ている服がラクダのシャツみたい、といろいろなところで言われていますが、この当時ニットとかカットソーとか、編んで作る服ってあったのかな? 昔は庶民は麻、金持ちは絹、というイメージがあるんですが。ああまた調べてみたいことが出てきてしまった〜。

それと中国人はあまりお風呂に入らないと言いますけど、温泉に入る習慣って当時からあったんでしょうか? 日本に来た中国人は銭湯や温泉で見知らぬ人に裸を見せることにひどくとまどうという話を聞いたことがあるんですけど。仲達も着物を着たまま入ってましたね。でも北京の銭湯を舞台にした「こころの湯」って映画もあったなあ。どうなってるんだ〜?

・久しぶりと言えば荀ケのアップも久しぶりのような気がします。しわが増えてちゃんと年をとってますね。苦労しているのね…。「処断されようと言わねばならぬときは言う」というせりふに彼の人格が感じられますが、やっぱりこれは彼の最期への伏線ということなんですよね。うーん悲しい…。この後の仲達とのやりとりが2人の違いをきわだたせています。性格の違いだけでなく、仲達が新しいタイプの側近であるということも。(もちろん「戦場の経験がない軍師」孔明もそうなわけで。)

・後半は荊州の劉備陣営に話が移ってきますが、前半の展開と合わせて思ったこと。

今までも『時の地平線』は従来のものとは違う新しい三国志と言われてきましたが、この作品は従来の「武将の三国志」ではなくて「文官の三国志」なんですね。極力武力を使わず戦乱を収め国を統一し国政を安定させる、それは果たして可能なのか、という試みがこの作品ではなされているのではないでしょうか。もちろんそれは現代の社会にも通じる問いかけです。

また三国志という物語の解釈としても、実際に戦をするのは武将なのですが、策を立てる・他陣営と同盟を結ぶ・民の行く末を計画する・根回しをして各方面から情報を得る等々の戦のためのお膳立てをするのは全て文官の仕事であるということも描いていると思います。劉備の臣になる前の孔明が新野の民を安全なところへ逃がそうと計画していたり井戸を掘ったりしていたのもそれですよね。もちろんいざ戦になると武将に能力がなければ勝てないのですが、それ以前の文官の仕事(兵糧の手配などは今までも書かれていましたが)は地道で時間もかかるけれど勝敗に大きく左右してくるということを印象付けたということも大きいのではないかと思います。

・何ヶ月か前から描かれてきた孔明と士元の確執にも新たな展開が。

私は以前から「最近の士元の言動---孔明に対抗意識を燃やして自分が表に出ようとする---は納得できない」と思っていましたが、今月号を読んでああやっぱり士元は士元だったのね!と感涙。「おまえには広い土地が必要だよ」というあのせりふは、「汚い仕事は自分がやるからそこで得たものを使っておまえは『優れた人物や高い理念で』理想の政治をやれ」ということなんですよね? というか私はそう解釈しました。

「壊したものを修復してゆくのは いつもぼくらみたいな常識人なんだ」というせりふも「もううんざり」と言っているようで実は「自分は裏方でもいい」という気持ちもあるのかな、と思ったのですがこれは深読みしすぎでしょうか。孔明が「士元まさか…!」と思い至ったのも彼が自分を犠牲にしても孔明に理想の政治をさせようとしている、ということなのかな、というのは士元の最期を知っている読者だからこそ考えつくことかな…。

・今月はとうとう馬超も登場。錦馬超の異名どおりに派手なルックスで期待通りでした。性格的には今の自信家なところが今後の展開でどう変わってくるのか楽しみです。劉備陣営との関わりも多くなってきますしね。張飛との対決はあるのかな?
    

★『flowers』2004年2月号(2003年12月26日発売)

・反乱を起こした支シュウのもとへ極秘で交渉に行こうとしていた孔明と子竜。そこへ「江東の姫と女ひとり(共都)を預かった」との文が届き、2人と朱津は彼女たちを救出に少数の兵を連れて交州へ向かう。しかし交渉は難航し、姫の安否も確認できずあせる孔明たち。そこへ現れたのは孔明に反発を続ける馬謖だった。

・今月号の舞台は交州、現在の雲南地方ですね。「越」は現代の中国語でも「ベトナム」をさす言葉なので、ここはベトナムとの国境付近ではないかと思われます。今回ストーリーは諏訪さんのオリジナルだし、トロピカルな風景や現地の人々の風俗は『蠶叢の仮面』『西王母』を思い出させるしで、『時の地平線』シノワズリ編といった趣がありました。想像ですが諏訪さんは中国の中でも雲南地方がお好きなのではないでしょうか。シノワズリシリーズもそうですが、なんだかとても楽しそうに描いていらっしゃるなあという感じがします。おじさん(支シュウ)やじーさん(師公さまってばーさん?)もすごく味があって感じが出てますよね。若い美形もいいですが(笑)。

シノワズリだと思って読んだせいか、孔明=無彊、馬謖=意期に見えてしかたありませんでした。ってことは子竜=眉寿? そりゃないか。

・今回の山場の一つは監禁された孔明と馬謖との会話です。今まで孔明は自分の主張を「武力を用いて戦え」という声に対して「否」と言うことで述べてきましたが、今回は違う方向からその考え方を問われています。「同じ内容を・・・ただ話すだけですか? (略)けっこう無策なんですね」という馬謖に対して「武力を使わず信頼関係を回復するのに 話し合うしかないのなら それなら現実的に地道に行動するしかない」と答えています。この言葉、「戦国物としての『三国志』」に慣れ、作品にそれを期待していると「いつまで同じこと言ってるんだ!」とまどろっこしく聞こえるせりふかもしれませんが、物語を一旦離れて自分の世界に引き付けて考えてみると、すごく大人の態度だなーと思いました。

「武力」と言えば聞こえはいいかもしれないけれど、それって突き詰めて言えば「暴力」ですよね。戦争は大掛かりな暴力です。話し合いや経済制裁等で解決できなかったから武力に訴えるざるをえないということは、日常生活で言うと、自分の思い通りにならないから暴力をふるう、ということなんですよね。それは子どもの世界では許されても(本当はダメですが)大人の世界では決してあってはならないことです。というかそれをやったら犯罪だし。もちろん物語の中だからこそ暴力が許される、時と場合によっては肯定される、ということもありますが、諏訪さんはやっぱり読者に楽しんでもらいながらもいろんな問題を、たとえそれが大きすぎて手におえないようなものであっても、自分の身になって考えてもらいたいと思っているのではないかなあ、という気がしました。

・そしてもうひとつの山は朱津の前髪の理由と、朱津と毫の行く末ですね。

彼が片目を隠しているのはてっきり幼い頃毫をかばって怪我を…なんてお決まりな予想をしていました。いやーベタすぎますよね〜。でも今となっては2人の関係で読者にそれらしき想像(妄想?)をさせておいて実は…という諏訪さんの伏線だったのかしら、と思います。だってあのコマではかなり驚きましたよ私は。まさかそんな理由だったなんて思いもしませんでしたから。誰か想像ついてた、って方いらっしゃいますか〜?

毫と朱津、どうなることかと思わせながらもハッピーエンド。ほのぼのと微笑ましいいいシーンでした。先月号までは毫が劉備と結婚したという史実と物語をどう符合させるのかなと思っていましたが、「江東の姫が劉備と婚約して劉備のもとへ来る」という部分だけを生かしてあとは大胆に脚色してしまったということですね。赤壁では随所に新解釈やオリジナルのエピソードを入れながら要所要所はぴたっと史実(と演義)に合わせるということをしていたので、今回も最終的には劉備と結婚するというところへ持っていくものと思っていました。

・7巻を読んでいて改めて気付いたのですが、第34場のラストで孔明の船に乗り込んだ毫が「わたしは『夫』となる方の先祖の墓参りに行くだけです!!」と叫んでいます。雑誌掲載時は何も考えずに読んでいたけれど、今になってみると「夫となる人」すなわち朱津は「越の民の勇者の証」である龍文の刺青をしている、つまり漢人だけど越の民として認められているわけですよね。そして特殊な事情があったとは言え毫は自ら進んで越に来ている。そして血のつながりはないけれど朱津の先祖にあたる人たちの墓参りにもこれからきっと行くでしょう。彼と共にこの地に留まろうとしているのですから。

あのせりふ、こういうことだったんですか? 諏訪さんはここまで計算してあのせりふを書かれたんでしょうか? 

・最後に一言。共都姐さんやっぱり男前〜。でも以前に比べてオバサン度がUPしてるような気もなきにしもあらず。孔明と子竜がこそこそと遠ざかっていったのも気付かないで話し続けているところとか(笑)。

★『flowers』2004年1月号(2003年11月28日発売)

・第二の軍師として正式に劉備軍に加わった士元は蜀取りについて孔明と真っ向から対立する策を提示する。数年前からの根回しや呉とのつながりを背景に弁舌巧みに蜀攻略を勧める士元。孔明は反論するが、劉備以下の家臣は2人の会話に隠された葛藤を察することができない。
荊州に留まり続ける孫権の妹・毫は毎日共都を相手に剣の練習に余念がない。彼女の「腕を上げる目的」は護衛の朱津に関わることだった。
そんなある日、交州の蛮・士シュウと孫権の確執に巻き込まれた毫と共都の身辺に危機が迫る。

・今回は士元クローズアップの巻でした。

私は士元ファンなんですけど、最近の姿には正直うーん、なものがあります。彼には脇役ならではのポジションが似合っていると思うんだけどなあ。本来は十分な実力があるのに(←ここがポイント)あえて表に出ることなく常に一歩引いた立場から時々寸鉄人をさすコメントをばしっと挟む、みたいな。どんな事態にも慌てず騒がず感情的にならず自分の道(スタイル)を貫いてるというか。

最近の士元はどうも孔明に対する対抗心と焦りが顕著な気がします。物語の最初の方で「やつとぼくは同じ舟に乗っていない」というモノローグがありましたが、それがどうも違いを意識するあまり「違う方法で同じ目的にアプローチする」という視点を見失っているように思います。(いや、彼の中では今でも平和な世界を目指す、という目的はちゃんとあるのでしょうが。「目的は手段を正当化する」という考え方を認めるか否か、ってところで2人は食い違っているんですよね。そしてその違いは非常に大きい。)

今月号で「交州ではまた『蛮』の士シュウが反乱を起こしているそうじゃないか」と言っていますが、私にはこの発言はショックでした。士元にとって孔明とのあの旅は何だったの? 彼には孟獲との出会いや西南夷での出来事はなんの影響もなかったのでしょうか。

最近はあまり士元の内面が描かれることがないので想像するしかありませんが、孔明が人との出会いや経験を通じて少しずつ変わっているのに対して(と言っても結構ガンコですけどね、またなんでも一人でやろうとしているし)、士元はほとんど変わっていない、豪族の出身であるというバックボーンが良くも悪くも彼の性格や行動を決定していて、そこから逃れられないでいるような気がします。

あんなにも強く周瑜の遺志を継ごうとしているのも、2巻で初めて周瑜に会ったときの興奮状態を思い出してみると、そもそも最初から士元は周瑜にかなり傾倒していたんですよね。でも周瑜が最後まで真に側近として欲しがったのは自分じゃなくて孔明だった、というのがあのライバル意識につながっているのかも。
今回の登場シーンの最後で、「いろいろな手を使って ---必ず」のコマに小さく張飛が登場していますが、これも何か士元がこれから打つ手の伏線なんでしょうか。

・後半は以前から話題の毫の思い人が明らかに。まあ妥当な線でしょうな。やはり当て馬だったか、子竜よ…。

確かに彼女、年の割には子どもっぽいかもしれませんが、常に誰かに守られて世間や同世代の友人から遠ざけられている深窓の姫としての立場を考えるとまああんなものかも。告白したけどいやな顔をされた、というのは毫自身が個人的にどうこうというより、姫と護衛(しかも人質)という立場の違いによるところが大きいのでしょうね。で、彼女はそこをわかってないと。やっぱり子ども? でも今考えてみると、毫が政略結婚について孫権に意見したのは、自分のことだけじゃなくて朱津の立場についていつも考えていたからという理由もあったんでしょう。

今回の救出劇で毫の人質でも妻でもないという中途半端な立場や毫と朱津の関係など事態に変化がありそうな予感がしますが、今後彼女の行く末が史実とどう重なっていくのかを考えるとなかなか展開が読めません。もうこの件に関しては頭からっぽにして諏訪さんのお手並拝見ということにします〜。


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