今月の『諸葛孔明 時の地平線』

★『flowers』2003年9月号(7月28日発売)

荊州牧の地位についた劉備に対して、江東の周瑜は劉備と孫権の妹の縁談を罠に使い、劉備を亡き者にする計画を立てていた。周瑜が病没するのを待ってやり過ごそうと考える孔明だが、劉備は江東との関係を損なわぬため、縁談を受ける方向で和平策を進めるよう孔明を説得する。
その頃曹操は「秀才一門・司馬家でもっとも優秀と評判の男」、司馬懿に新たな才を見出し、孫権は忠臣周瑜に江東の運命を託そうとしていた。
いよいよ江東と劉備の和平交渉の日、合肥で劉備を待ち受ける周瑜に危機が迫る。

・今月号一番のトピックは孔明の終生のライバル、司馬懿の登場ですね。今までも士元、華陀と従来の『三国志』のイメージから遠く離れた名キャラクターを生み出してきた「時地」ですが、この司馬懿もまた然り。『三国志』ファンなら「えええ、この人が!?」とびっくりする人物造形です。

どうやら時地版司馬懿は「もうひとりの孔明」的な人物のようです。非常に頭がよく、先も見えるし現状の分析にも優れている。立て板に水の緻密で論理的な改革案は孔明を思い出させます。名門の出でありながら富や地位などに執着せず、地道に着実に地元の発展をめざして自分の才を生かし働いている。自分の策が形になってうまく動いていく、その通りに世の中が改善されていくのを見ることが何よりも楽しい、などなど。

今後この2人がいろいろと策を出し合い、丁々発止と渡り合っていく様子を想像するだけでわくわくします。
  
・もちろん2人には大きな違いがあります。

孔明は両親を殺され、国を追われて苦労の果てに平和な地に流れ着き、幼い頃から弟妹を養ってきました。現在彼が劉備とともに新しい国(体制)を作ろうとしているのは、自分のような体験をもう誰にも繰り返させたくないからで、彼の発想の源はそこにあると思います。しかし自分の体験をもとにした、必要に迫られての発想は現実的ではありますが、視野の狭さにつながるおそれもある。

「時地」においてしばしば孔明は自分の思惑に足を取られそうになります。そのたびに彼を助けてきたのは、「おまえひとりで働いてるみたいな顔するな。もっと周りを信用しろ。信用してそして説明しろよ」(第20場)と孔明を張り倒す子竜や、「頭冷やしたら?」(第7場)と冷静で的確な人物評をする士元、「わたし『孔明さまのお気持ち』をうかがっているのですけど?」(第30場)と発想の転換を促す英たちでした。

孔明の発想はひじょうに優れていますが、ひとりでできることには限りがあります。今月号の劉備との会話にも見られるとおり、彼は周囲の人たちと接触することによって自分の意見をまとめ、反省し、成長していきます。人との葛藤によって見えてくる新しい視野、それが「一歩踏み出すと見えてくる新しい地平線」なのかもしれません。
   
・今回、曹操&司馬懿、劉備&孔明、孫権&周瑜、と三者三様の主従の会話が描かれていますが、臣の性格の違いはそのまま彼らを抱える主君の性格の違いと呼応していて興味深いものがあります。

人間を「資源」と言い切る主君に驚きながらもそれを受け入れ、飄々と冷静に自分の計画を実行していく司馬懿、不本意な点を残しながらも、「兄とも慕い尊敬する」家臣・周瑜に全てを預け、自らは大きな「器」たろうとする孫権、早逝した親友の弟に、自分の命があるうちに天下を取らせようとする周瑜、頭が切れすぎて先が読めるあまりに視野が狭くなりがちな孔明を大局的な見方で救う劉備。

「オレは劉備様でなければダメなんだ」という孔明の言葉はそれぞれの主従にもあてはまるような気がします。

「時地」にはさまざまな魅力的なキャラクターが登場し、その心の深いところで関わっていきます。華陀と孔明、士元と孔明、士元と周瑜、孔明と曹操、曹操と華陀、子竜と孔明、などなどなど。歴史の激動期に世界は音を立てて変わっていきますが、世界を変えるのはなんだか実態のつかめない「歴史」というものだけではなくて、それぞれの人間関係の絡み合いが原動力となって物語が進んでいく、そこにこの作品の面白さがあると思います。


★『flowers』2003年8月号(6月28日発売)

赤壁の戦い後、劉備軍は荊州南部4郡の平定にのりだしていたが、4郡のひとつ・桂陽に派遣されていた子竜は太守・趙範との和平交渉に思いがけずてこずっていた。そこへ手助けに訪れた孔明はある人物の協力を得て策を授ける。子竜にとっては不本意な策だったが和平は無事成立した。
そして重い病に冒された荊州牧・劉gは牧の地位を自ら劉備に譲り渡そうと計画していた。それを知った周瑜は…。

・前半、子竜のエピソードでは久々に共都姐さんが登場。私今まで気付かなかったんですが、この姉弟ってすごく外見が似てますよね。お姉さん武術で鍛えて体格いいし、子竜が女装してあの役をやってもよかったのでは?(そこの人、喜ばないように!)

・まあ冗談はさておき、現代の目で見たら子竜が「交渉に女人を用いるなどオレは好かん!」と言うのは不自然ではありませんが、当時の社会状況を考えるとやっぱりすごく変わり者と思われてもおかしくなかったんでしょうね。お姉さんがとんちんかんな返答をするくらいに。

「人を好色漢みたいに…」と言うけれど、当時身分があってあれくらいの年(孔明と同年という設定だから29歳、しかし趙範も同年ってホント? 老けすぎてませんか?)なら何人も妻がいるのは当たり前だったんでしょう。劉備にも2人奥さんいましたし。

でもあえて子竜をそういう性格に設定したのは、現代の視点で見て違和感がないようにとか読者が子竜に対して嫌悪感を持たないようにとかじゃなくて、女性の社会的地位に対する諏訪さんのメッセージもあるんじゃないかなと思います。現在でもやっぱり女性にとって不利な状況って多いですから。

しかし「兄弟の姉ならオレの姉でもある…」のせりふの直後に共都姐さんが登場するあたり、諏訪さんのユーモアが感じられますね。

・ちょっと話がそれますが、最近格闘技漫画をよく読んでいて思ったんですが、強くなるって大変なことなんですよね。持って生まれた才能も必要だし、地道できついトレーニングを毎日欠かさず長期間続けることができなければならない。合気道のように相手が攻めてくる力を利用して投げる、というのもあるけれど、最低限の筋力というのは絶対に必要ですから。パワーは必要最低限あればいいと言っても、あればあるほどいいことには変わりがない。

漫画や映画などでは「きゃしゃな女性だが拳法や剣の達人で並みの男(格闘技経験者含む)より断然強い」という設定がよくありますが、筋肉なんて全然ついてなかったりしてやっぱりなんだかなあ、と思うこともあります。特に剣なんて長時間持って振り回すだけでかなり体力いりますし。(『風光る』でもこのへんのことを考慮していましたね。)

前置きが長くなりましたが、共都姐さんって弟と一緒に放浪しているときに「力がなきゃダメだ!」と死に物ぐるいでがんばったんだろうなあ、と。子竜と並んでるところ見てもかなり背が高くて体格いいし、二の腕太いし、胸もかなり筋肉があるんだろうな、って感じがします。

発想も子竜や孔明よりずっと男っぽいですよね。(というか、男は生まれた時点ですでに男なんだから、わざわざ「男らしく」なんてがんばらなくてもいいのよね。女だからこそ「男っぽい発想」が必要なのかもしれません。)

・前半のエピソードは『三国志』本筋とはあまり関係ないと思うんですが、ちょっと考えさせられることが多かったので長々と書いてみました。

・さて本筋(笑)、荊州取りですが。

原作では劉備陣営が「江東軍の力が弱っているうちにこれ幸い」とばかりに速攻で荊州を取ってしまうんですね。もちろんその先には益州→天下統一も視野に入っているわけで。

しかしそれでは『時の地平線』にはならないなあ、と思っていたらあちらから申し出てくるという展開だったとは。しかもそのせいで、できればことを構えたくない周瑜・孫権とも否応なしに戦わざるをえなくなってしまいました。

なるほど〜、歴史っていろんな解釈ができるものだなあ、と改めて感心。以前『火怨』(高橋克彦)を読んだときも思ったのですが、年表だとたった1行ですんでしまう事件がこういうことだった、こういうことでもありえたのだなあ、と感じるのが歴史物を読む楽しみの一つですね。

・今回カラー表紙にも登場の美周郎ですが、作中ではなんか死相が見えてきてる…。もちろん病気が原因なんですが、怒りや焦り、憎しみといった負の感情がそれを呼び寄せたのかも、と思ってしまいました。

★『flowers』2003年7月号(5月28日発売)

長江での大戦から半年。曹操の敗走により長江沿岸には束の間の平和が訪れていた。
しかし赤壁での慰霊祭に出席した孔明は、蜀への侵攻を巡って周瑜と意見の対立を見る。2人の間に静かに決裂の予感がしのびよっていた。
一方孔明は婚約破棄を願うため公安の黄家を訪れるが…。

・この1年、物語がダイナミックに動き続けていましたが、今回は小休止といった趣がありました。新章へ向けてのプロローグ、これから更なる段階へ物語がゆっくりと始動していく予感がします。

・士元ファンにとっては冒頭の張飛との酒盛りについ笑いがこぼれ、次なる寧寧との会話にびっくり。やっぱりぼっちゃまは手が早い!? 以前にも周囲に美女たちをはべらせて美食と酒に耽るシーンがありましたが、不特定多数が相手だとそんなに印象が強くないのに、特定の女性相手だとひどく印象に残りますね。

彼は命がけで助けてくれた寧寧に本当に惚れているのか、それとも身についたリップサービスが無意識に出ているだけなのか? 気になります〜。(余談ですが、一生懸命刺繍をした寧寧には申し訳ないですが、刺繍したら布の手触りがでこぼこになるから火傷の後の傷にはよくないのではないでしょうか…?)

・今回のなごみ要素は2人の女性キャラに負うところが大きいようです。

後半はほとんど英さんが話を引っぱっていますね。孔明と英さんのやりとりを読んで、「ああ、少女漫画だなあ〜」と嬉しくなりました。良質の少女漫画のエッセンスを感じます。

諏訪さんの漫画には最近の漫画では失われた表現がちゃんと生きています(人物のバックに花とか)。それを古いというのは簡単ですが、新しい表現もみんながやると全然新しくないんですよね。花にしても、諏訪さんは「流行だから」ではなく「好きだから・美しいと思うから」描いていて、それがこちらをとても安心させるんです。

英さんとの会話を読んで、「孔明って思い込みが強いんだな」と今さらながら気付きました。「勝手な方ですよね、孔明さまって…」と英さんは言いますが、彼は頭がよくていろんなことが見えてしまうから、「こうでなくてはならない」という考えに捕らわれて身動きがとれなくなってしまうんですね。そこを「こうしなければならない」よりも「こうしたい」と考えて行動するほうがいいときもあるのでは、と思考の壁に風穴をあけるのが英さんの役割なんだと思います。

・慰霊祭での孔明の独白が印象的です。

これまでに何度も彼が自問自答してきた問題ですが、何十万という兵士を殺してしまった後でも彼は同じ悩みを持ち続けています。いつまで悩んでいるんだ、もう乗りかかった船ではないか、という意見もあることでしょう。しかし実は1800年たった今でも私たちはこの問題について悩み続けているのです。9・11のときも、先日のイラク戦争のときも。

以前私は『諸葛孔明 時の地平線』の作品紹介で「今後この作品がどう展開していくのか、物語としての興味に留まらず、この「問い」に対するなんらかの「答え」となる可能性としても見守っていきたいと思います。」と書きました。しかし最近では「答え」は出ないのではないかと思っています。一人一人が自覚を持って、答えが出なくても問いかけていく、真摯に考え続けていく、その考えをもとに行動していく、そこにこの作品の意味があるのではないかと。

・ラストに「今お茶をお持ちしますから」というせりふがあって、「やっぱりお茶を飲んでいたのね!」と嬉しくなりました。作品紹介番外編の「TEA FOR TWO 〜 2人でお茶を」で(作中にお茶という単語はなかったのですが)彼らはお茶を飲んでいたに違いない、と推測していましたので。

黄家はお金持ちで名家なのでちゃんとお茶が常備されていたのですね。茶器が見えなかったのがちょっと残念です。きっと素敵なものを使っていたのに違いありません。


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