『蠶叢の仮面』『西王母』(シノワズリ・アドベンチャー)


  紀元前2100年頃、中国四川地方に縦目王・蠶叢が支配する幻の国・華陽国があったという。そこは一年中花が咲き乱れ、国民は皆健康で不老不死の桃源郷と思われていた。
  不老不死の妙薬を入手せよと王に命じられ、江水のほとりにやってきた夏国の技師・無彊は、偶然出会った「驚愕屋」の眉寿と二人、桃源郷を目指して旅に出る。
  中国古代神話をベースに、二人の旅を通じて文明のあり方、幸福の意味をたどるファンタジー・ロード・コミック。


            



  まず第一に印象的だったのは、全編を通じて見られる「軽妙さ」です。この作品の前に『玄奘西域記』『うつほ草紙』と重いテーマの長編連載が続いていたせいか、ここでは作者が肩の力を抜いて存分に楽しみながら描いていることが感じられます。短編読みきり形式の連載という形的な要因もあるでしょう。
  主役の二人はいつもどおり「まじめで誠実な熱血漢」(無彊)と「現実的で皮肉屋の毒舌家」(眉寿)という組み合わせですが、ここに第三の「世をすねたひねくれ者の仙人」(意期)という新しい魅力的なキャラクターが加わることによって、会話のバリエーションが大きく広がっています。特に眉寿VS意期のテンポのいい毒舌の応酬には、思わず笑いがこみあげてくることもしばしば。これまでの作品にも散見された作者のユーモア感覚が堰を切ったようにあふれ出て絶好調、といった感じです。
  
  このように書いていると、軽いノリでさらっと楽しく読めそうな作品、という印象を受けそうですが、そこはさすがに諏訪緑、非常に深く考えさせられる今日的なテーマが含まれています。あえて一言で言ってしまえば、「物質文明の発達はほんとうに人を幸せにするか?」ということでしょうか。

  この夏(2002年)公開された「月のひつじ」という映画があります。1969年、人類初の月面着陸を全世界にTV放映するのに白羽の矢が立ったのは、オーストラリアの片田舎にある巨大なアンテナ。「この町が世界中で有名になる」「科学の偉大な進歩に貢献できる」と大喜びする町民たちですが、中継直前の事故で電波が途切れ、世紀の一大イベントはあわや失敗の危機に---という実話を元にした映画です。
  映画ではこのアクシデントを乗り切るために皆が一生懸命努力し、反発しあっていた職員どうしも協力し心を通わせるようになっていくんですが、私は途中から全く違う視点でこの映画を見ていました。世界初の大イベント、人類の長年の夢が実現、と町じゅうが浮かれ騒ぐ中、ひとり町長の娘だけは苦々しい顔を崩しません。「世界中の人がこの映像を見るんだよ!」と興奮する大人たちに「インドの貧しい子ども達も?」と突っかかる彼女。まるで「この地上に困っている人がたくさんいるのに、のんきに月になんて行ってらんない!」と言いたげに。

  この頃は人類が月に行くこと、イコール科学の進歩はまったく無邪気に「すばらしいこと」と信じていられた幸福な時代だったんですね。ところが今ではそうではない。考えてみれば最新の科学技術、特に宇宙開発が真っ先に生かされる分野は軍事産業です。(もちろん開発に携わる科学者たちは、純粋な知的好奇心から研究をしていたのでしょうが。)
  現在自分の周囲を見渡してみても、「文明が発達すればするほどすばらしい世界になる」とはとても思えません。環境問題、IT関連の犯罪、凶悪犯罪の増加・低年齢化、学歴偏重による教育問題etc・・・。いつから世界はこんなにゆがんでしまったのか? だからといって電気もガスも水道もない生活に今更戻れるわけでもない・・・。
  これらの問題は、何千年もの昔人間が初めて「知識」を持ったとき、既に芽を出していたのかもしれません。もっと早く、もっと強く、もっと便利に、もっと快適に、と追求し続けるのは確かによりよい生活にとって必要なことです。しかし「シノワズリアドベンチャーシリーズ」の最終章『崑崙』における廩君王のつらそうな独白は、私たちの世界について語っているとしか思えないのです。
  自分の考える「よりよい生活」とはどういうものなのか、そのためには何が必要で何が必要でないのか。より多くを得ることよりも大切なのは、不必要なものを見極め、思い切ってそれを捨てることなのかもしれません。


(注)映画「月のひつじ」について。
   原題「THE DISH」。オーストラリア映画。監督・ロブ・シッチ。出演・サム・ニール、ケヴィン・ハリントン、トム・ロング他。配給・日本ヘラルド映画。1時間42分。2002年夏公開。

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