『霊鳥』シリーズ感想


『曲がり壁の王宮』 (『凛花』第13号 2011年6月14日発売)
『砂漠の花の物語』 (『凛花』第14号 2011年10月14日発売)

・オンタイムでの更新ができなかったので、2本まとめての感想です。
この2本は続いている話だし、い、いいよね〜。

・旧約聖書・ペルシャ神話のシリーズも、これで終了。ザールの冒険もめでたく大団円となりました。
3千年ぶりに復活して世界を滅ぼすという魔王を阻止するために、天界の使者アザレア、死者の魂を運ぶ白馬ダーリとともに旅に出たザール。
通常の神話ならばこの世のものならぬ相棒たちの力を借りて魔王を退治、地には平和が戻ってめでたしめでたし、となるところですが、そこは諏訪さんの漫画ですからそう単純にはいきません。
この世の終わりと言うけれど、「いつの世もくり返し世の中は乱れていた 今まさに終末ではないかと思うほどに」。もちろんこれはさまざまな問題が山積みの現代に通じるせりふなのだと思います。
そしてサームはそれに続けて、そんなとき「私は戦った それだけだ」と。
後編を読んで改めて思ったのですが、「いま、ここではない」どこか遠くからヒーローが現れて、私たちの苦難をすっぱりときれいに解決してくれる、などということはない、のですよね。
確かにザールは霊鳥に育てられた特別な存在ですが、人と交わり、親と和解し、愛する女性も大切に思う家族もいる、人の世の人間なんです。後編で魔王に「人の行いこそが魔である」「人の終末は人が自ら招く」といわれ、人ではない(超越した)存在にしてやろうかと誘惑されてもザールが応じなかったのは、人の世のことは人である自分(たち)が解決しないといけない、なんの苦労もなくどこか遠く上のほうにいる高位の存在に自分たちの問題を解決してもらってそれでよし、とするのは間違っている、という意識があったのではないかと思います。
話は現実に戻りますが、最近世界各地で民主化・格差の改善を求めるデモや活動が頻繁に起こっているのも、自分たちの問題は少しずつでも、できるところからでも、自分たちでなんとかしよう、ということの顕れなのではないでしょうか。
ラストでザールは霊鳥に育てられたことも、冥界での冒険やアザレア、ダーリらとのこともすべて忘れてしまいますが、ルーダーベ姫に「忘れても思い出せばいい」と言わせる展開は心にしみます。
大事な人がいたこと、大切な経験をしたことを忘れても、それがあったという事実は消えない。そのことが自分にもたらした影響も、覚えてなくてもちゃんと残っているし、必要ならまた作り出せばいいのです。たとえなくしたものでも、本気で願えばまた見つけられる、手に入れることができる、と言ってくれているような気がするのです。



『白い馬』 (『凛花』第9号 2010年1月14日発売)

・白い馬と言えばすぐに思い浮かんだのがモンゴル民話『スーホの白い馬』。うちにも昔絵本があったはずなんですが、すぐには出てこなかったのでネットであらすじを検索してみました。便利な時代だ。
そういえば昔のフランス映画にもありましたね、「白い馬」。最近同じ監督の「赤い風船」とセットでリバイバル上映されたので見た方もいらっしゃるかも。(私は例によって寝坊して見に行けませんでしたさ…)
で、この2つの作品、どちらも共通したテーマは少年と白馬の友情物語なのでした。そういえば昔の花郁悠紀子さんの作品にも同じモチーフのものがありましたね。あれは黒い馬だったか。
白い馬と言えば孤独な少年との友情と相場は決まっているのか? まあ現実的に考えれば、元ネタはたぶんモンゴル民話で、ほかはそのバリエーション、オマージュなんだと思いますが。

・というわけでこの物語も少年と馬の友情+ヘブライ&ペルシア神話、ということになるのかな。
ただ、ベースは同じでも、いろんなところに諏訪さんならではのアレンジがありますが。
まず、ご本人も公式サイトで書いておられたように、クーリちゃんの介護をしていた時期に描かれたものなので、馬(シロ)が犬みたいになってしまった、ということ。顔や姿形だけでなく、ダニエルにじゃれかかるようすなんかもその雰囲気がありますね。
ただ見た目的には、サラブレッド(競走馬)ではない農耕馬や国産の馬(て言い方変だけど)はこれくらいがっしりしてずんぐりしてる、その代わり丈夫で力強いものなんではないかなあと思います。ポニーとかもそうだよね。そもそもレースさせるより農作業や運搬をさせるための動物だしね。(しかし「だばだばだば〜」には笑った)

・ストーリー自体は一応「おとぎ話」的な雰囲気なんですが、一番印象に残ったのは、クライマックスの「君は『世界』に行くんだから」というせりふでした。
「世界」って、外の広い見知らぬ世界にザールのように旅に出る、という意味なんだと思うんだけど、でもダニエルがいたあの人里離れた家もほんとは「世界」の一部なんだよね。『はちみつとクローバー』でも「自分のアパートのドアが実はどこでもドアだったんだ」というくだりがありましたが、ほんとは行こうと思えばどこにでも行ける、気持ちの持ち方の問題なんだよ、という。
もちろんこの時代の貧しい農民にとっての制約とか不自由さはあるんですが、今回はダニエルだけの話ではなくて、シロのほうがそうだったのかな、と。心がぽっきり折れてしまうとどこにも行けなくなる、目の前には広い世界があって本当はどこにだって行けるのに、みたいな。うまく言えませんが。

・ラストは毎回おなじみの「このお話には続きがあるのですが それはまた機会があったらお話しします」で、でも今回が一番いわゆる「引きが強い」ような気がしますね。明らかに次は「魔王から世界を救う」だもんね。
続きがまた読めればいいのですが。とりあえず次号は犬エッセイだそうですし。
『凛花』は年3回発行なので気長に待つことにします。


『夏至の花』 (『凛花』第8号 2009年9月14日発売)

・この話は諏訪さんオリジナル? オリジナルですよね!
今までのように「元ネタは旧約聖書?」と思ってぐぐってみたけど思い当たるエピソードが全くヒットせず、あれー? と思って気がつきました。
旧約聖書(ユダヤ民族の神話)の登場人物・アザレアとペルシア神話のザールが出会って同じ困難に立ち向かう、って話なんだから、ふたつの神話がミックスされてるわけで、これは諏訪さんのアレンジ、ってことでOK?
あ、ちなみにバクーは現在ではアゼルバイジャン共和国の首都。「バクーの火」こと油田は今も現役でカスピ海の中にあるそうです。

・さてさて。
久しぶりにザール登場。もう出番はないかと思っていただけに嬉しい驚きでした。
ぼんぼん育ちで(いや苦労もしたけど基本的にはバリ・シリに蝶よ花よと育てられたからw)おっとりした素直な性格は、真面目一辺倒のアザレアとの対比でより際立ってます。さすがはへなちょこアイドルだ。
アザレアのキャラがもうひとつ立ってないと思っていましたが、こうしてみると「真面目一直線」というのがあるかもね。でも今までの諏訪さんの主役キャラのように思いつめて爆発したりすることもないので、やっぱりちょっと物足りないものはあるのでした←贅沢
今回のメインテーマも「信じること」なのですが、それをアザレアではなくザールに表現させたことに意味があったのだろうなあと思います。
「おのれを信じる」「そなたを育てたものたちを信じる」だけでなく、出会ったばかりの見知らぬ者である自分になんの見返りも求めず薬(生命樹の実=命の水)をくれた名もない花(アザレアという姿をした「人間の心・良心」)を信じること。
「人間」が「人間」(実は天使だったわけですが、ザールはアザレアも自分と同じ人間だと思っているので)を打算や先入観ぬきで信じること。
ヘブライでもペルシアでも同じ時期に「魔王」が出現することの不思議をアザレアが考えている場面がありますが、現代でも古代でも、文明がある程度発達していろいろな問題を抱えるようになる時期はある程度共通しているのだと思います。
だからこそ、見知らぬ異国の、違う文化で育った者同士、敵対することなく信頼関係を築いて力を合わせて事に当たらなければ問題は解決しないよ、という、これはやっぱり現代の私たちに向けての話になるのかな。

・この後ザールが生きながら冥界へ行って魔王(ルシフェル)と対決するエピソードが続きそうな感じなのですが、それはもともとのペルシア神話にもあるのかしら? また書店等で関連本を探してみなくては。
しかし凛花の次号予告に諏訪さんのお名前がないわけで・・・。続きをどこかで必ず読めることを祈ります。


『ラファエルの理由』 (『凛花』第7号 2009年5月14日発売)

・このエピソードは旧約聖書の「トビア記」に基づくもののようです。ネット検索してみたら、この題材はオペラになっていたり、宗教画の題材になっていたりして西欧世界ではきっと有名な話なのですね。
レンブラントが描いた絵がルーブル美術館にあるらしいんですが、3回も行ったのに見たことをすっかり忘れていた・・・。いやいつも全館くまなく見てるわけでもないし、全収蔵品がいつも展示されてるわけでもないからさ〜見たとは限んないしー、とへらへらしてみたものの、予備知識がないとなかなか印象に残らないもんだな、と。
無駄な知識なんてないってことか。

・今回の話については、「信じること」がキーワードになっているように思えました。
自分達への信仰のない土地では天使は力も発揮できず存在すら消滅してしまうということ、トビアがアザレアの言葉を信じてサラを助けるため遠いエクバタナへ旅したこと、ルシフェルがアザレアを信じられなくて生命樹の実をすり替え、そのためにアザレアが窮地に陥ったこと、などなど。
信じる者は救われる、ではないけど、誰かに信じていてもらわないと生きていられない、とまでは言わなくても、生きるうえでそういう存在がいてくれるのは大きな支えになるものだ、ということの端的な表現なのではないかと思います。

・ちょっと残念なのは、ページ数の関係もあるのかもしれないけど、登場人物がわりと葛藤することなしに話がすらーっと進んでしまうこと。
天界の住人だから普通の人間とは違う意識の持ち主なのかも、というのもありますが、でも、アザレアとバリエルが縄張り争いをする場面なんかは結構人間くさいですし、まあ天使や霊鳥といえど人間が考え出した存在なのだから当然という気もしますが、うーん、なんて言うんだろう、このシリーズの話が何回も進んでいるのに、アザレアのキャラクターが今ひとつはっきり見えてこないのね。他のキャラ(シリエル、バリエルとか、アザレアと関わりあうヨナやトビア)は「こういう人」という個性が結構わかるんですけど・・・。
そこがちょっとだけもどかしい印象を与えるのかもしれないな、と思ったり。
仮にアザレアが狂言回し的な存在だとしても、もう少し自己主張してもいいんではないかと思いますよ。彼の感情の爆発や逡巡がないので、読んでてぐっとひっかかるというか思わずページをめくる手が止まってしまう、という場面がないのが物足りないところではあります。


『ヨナの受難』 (『凛花』第6号 2009年1月14日発売)

・神話シリーズ、今回はヘブライ神話より。
でもこの話って旧約聖書だよね? あれって神話なの?
と思ってちょっとぐぐってみましたら、旧約聖書って新約聖書に対する呼び方で、(一般にイメージされる)聖書というよりもユダヤ人・イスラエル民族の神話や歴史・詩歌等の集大成的な文書だそうですね(すごい乱暴なまとめ方・・・)。
しかし世の中には知らないことがたくさんあるものであることよ。とか自分の無知に感じ入っててどうする。

・ヨナのキャラクターデザインは時地仲達をホーフツとさせるものがあって妙に懐かしさを覚えました。でも中身は食えない仲達とは全然ちがって、歌と動物が好きな貧しく素朴な青年。
彼がある晩天使からある預言を授けられたことから物語は始まります。
予言じゃなくて預言というのがポイントなのね。予言者は自分の責任というか主体性において言葉を発する(たとえトランス状態になってたり、神(超越的な存在)と通じてたり、という事情があるにせよ)ものですが、預言は、自分の意志など関係ない、まさに天から突然降ってきた「預かり物」の言葉で、でもそれがたくさんの人間の運命を変える一大事だったりする。だけど自分でつかみとったものではなく、ひょいっと手渡されたものだから、その重みに耐えられなかったり持て余したりするのも当然のことで。
そう考えてみると、預言って天災とかに近いものなのかもしれませんね。だから預言者は器でいいんです。一般的にはもっと巫女とか、カリスマ的なイメージがあったりしますが。ヨナが作中で「なんでオレなんかにそんなおっそろしい役目を・・・」と言ってるのは、ひとつにはそれもあるのだと思います。
もちろん物語としては、ヨナの歌の才能が主な理由なんですけど、私には「普通だから」「どこにでもいる平凡な人間だから」つまりは「私たち読者と同じだから」という意図も諏訪さんにはあったんではないのかな、と思えました。どこにでもいる平凡な人間でも、誰かの心に「やすらぎ」という花を咲かせることができるんだよ、と。

・それと相反するようでもありますが、同時に、彼の歌が人の心を動かし、王様に国の行く末を真剣に考えさせ、結局は神様の予言さえ変えてしまった、ということが、音楽やひいては芸術というものの持つ力・可能性についても示唆しているように感じます。
芸術(花・アザレアの「やすらぎ」)は、天使長が言うように「誰の目にも見えない」「誰にもわからない」(数値で表すことはできない)ため、「仕事とは認めておらん」(実際的な利益はない)と思われがちですが、本当にそうなのか、と。
「この世の中で 花にさしたる意味がないにせよ」、花がない世の中なんてあまり考えたくないですから。


『霊鳥は大いそがし』後編 (『凛花』第5号 2008年10月14日発売)

・今回の第一印象、絵がきれい!
線が細めできれいに揃っているというのもあるかもしれませんが(そういえばケント紙を変えたとブログに書かれていました)、とにかく丁寧に描き込まれている、という感じです。
絵の変化と言えばそれまでなんだけど、一時期(シノワズリの頃とか)に比べて、物理的な線の細さだけでなく、キャラクターも繊細というか線が細くなったような気も。バリエルのようなふてぶてしい系のキャラももうひとつ地べたに足がついてないというイメージが。っても霊鳥なんだから当然か。
正直言うと、個人的に絵としてはシノワズリから時地初期の頃が一番好きなんですよね。泥臭さというか、現実に足しっかりつけてる感があって。
多分私が年をとったせいだとは思うんですが。若い頃なら今のきれい系の絵のほうが好きだったかもしれません。あ、でも、吉田秋生さんも『河よりも長くゆるやかに』の頃の絵が一番好きだったな〜。
まあ個人的な好みはさておき、今回ページ数が多いのに最初から最後まで絵が端正でちゃんと描き込まれてて乱れがないのは嬉しかったです。2ページ目の舞い降りるシリエルとバリエルの絵が好き。この見開き2ページ、すごくきれいな画面構成になってると思う。見開きとコマ割の見せ方が上手いです。1コマめの2羽の霊鳥が2ページをまたいだ上のほうを半円を描いてすーっと回ってきて2ページ目の大ゴマでふわっと人間の姿になる、その読者の視線の動きと並行して1ページ目ではちゃんと話が進んでいるのね。
こういうコマ割って漫画を読みなれていないと作者の意図したように読めないかもしれないけど、逆に漫画読みにとっては嬉しい構図です。漫画の醍醐味のひとつ、って気がしますよ。

・ストーリー的には、このシリーズは神話が元ということもあってか、わりと葛藤が少なくさくさく進んでいくみたいで、ちょっと物足りないのも事実かなー。
神話ってあまり心理描写とかないですもんね。淡々と事実関係の描写があるのみで。事実ってもかなり荒唐無稽だし。
諏訪さんの得意な「悩める青年」を描くにはちょっと題材が不足しているのかも。楽しく読めるのは確かなんですが。
今回も碑文の解釈とか、深く納得できるエピソードもあるのですが、主人公の苦悩の末に導き出された答えではないだけに、すいすいと読み飛ばしてしまいがちになってしまいそう。
や、批判してるわけではないんですよー。このシリーズ自体はかわいくて好きだし。でも長年時地を読んできて、あの、どうにもならないところをどうすればいいんだ!的な葛藤とそこからなんとか道を見つけ出して歩いていくしかない、みたいな重さに慣れてしまったのか、霊鳥シリーズみたいにすらっと読めてしまうと、「あれ、もう終わっちゃった・・・?」みたいになっちゃってさー。ちょっと欲求不満感が。
まあこのあたりのことは「ひすいの国」のほうに期待することにします。次は1月だよね? 楽しみだー。

・あ、欄外(?)の小ネタは相変わらずツボでした。姫からの差し入れの丸薬(1粒で3日分の栄養って忍者漫画か?)を「なんだろこれ おいしいのかな」とながめるザールがかわいい。ちょっと三橋(おお振りの)みたいだと思ったり。しかし先生、禁止薬物という概念がなければドーピングもありませんよ〜!


『霊鳥は大いそがし』前編 (『凛花』第4号 2008年6月14日発売)

・柱の「このお話は・・・」(今までのあらすじ)を読んでちょっと笑ってしまいました。
「霊鳥スィームルグに拾われ、ふたりの息子に育てられたザールは、カーブルの王女ルーダーベと出会い婚約する」って、そりゃ確かにそうだけど、簡単すぎ!
いやまあ前回は30ページしかなかったし、いわばイントロダクション的な回でしたもんね。正直、私も最初読んだとき「えーこれだけ?」て思ったもの。ちゃんとシリーズ化されてよかったです。
こういう風にザールの話としてシリーズになるのか、それとも「いろんなペルシャ神話の漫画化」としてシリーズになるのかどちらかだろうと思っていましたが、諏訪さんは基本長編作家なのでこちらのほうがいいですね。

・前回のおとぎ話的なストーリーから比べて、今回は一転、ストーリーが現実的に進んでいきます。霊鳥の巣の修復エピソードという神話(ファンタジー)を絡めつつ、ザールとルーダーベの婚約に対する周辺諸国の反応などはあーなるほど、という感じなのですが、でも「このたんび絵で」その誤解を解こうとするのはまちがってるよ王様! 姫のツッコミが絶妙。
ツッコミと言えば、今回も手書き文字が冴えてますね。女官に囲まれてアイドル状態のザールがいいです。「ペルシアおみやげおねがいしまーす」って、上司の出張を見送るOLか! へなちょこでもアイドルらしい、ってあるけど、へなちょこだからこそアイドルなのだと思われ。
しかしこの食事シーン、おいしそうです。東京のペルシャ料理店で取材した、と以前日記に書かれていましたが、その成果があったのでしょうか。どんな料理を食べているのか気になる。
ちょっと検索してみたところによると、お肉は羊、野菜やスパイス、ヨーグルトなどを使った全体的にヘルシーな料理、という感じですね。ケバブが代表的なメニューみたい。トルコ料理にも似てるのかな? 大阪にもペルシャ料理店はあるようなので一度行ってみたいです。

・さて、ペルシャの英雄・サームの登場で、この話の焦点がだいぶ見えてきたようです。
奇しくも「ひすいの国」でも、父と息子の関係がクローズアップされていたけれど、こちらでもそれが重要なテーマになりそうな。
母と子、とはまた違うのよね。母と子は、お腹から生まれるという直接的なつながりがあるせいか(実際胎児の頃はへその緒でつながってるし)、愛憎どちらにおいてももっと遠慮がないというか身も蓋もない的なイメージがあるのですが、父と子ってどうしてもワンクッションあるような。
ルーダーベ姫とカーブル王にしても、尊敬と愛情に結ばれたいい親子だと思うのですが、どこかお互いに礼をもって接してるようなところがあると感じます。まあ、王家という特殊な事情はあるのでしょうが。
下世話な話かもしれないけど、父親って、子どもが本当に自分の子かどうかって、突き詰めるとDNA鑑定でもしないかぎりわからないんですよね。その辺がこの距離感というか、物語の中心になりうる要素をかもしだしているのかもしれません。

・しかしこの続きは10月か・・・。「ひすいの国」はさらにその次、となると2月か・・・。
どちらかだけでもいいから本誌「flowers」に復帰してくれないかなあ。それか、せめて「凛花」を隔月にしてほしいよ全く。


『霊鳥のお気に入り』 (『凛花』第2号 2007年10月14日発売)

・「時地」終了以来、久しぶりの短編です。

・一読してまず思ったのが「うわー、可愛らしい話だなあ!」ということ。「時地」は、特に終盤、かなりシリアスで重いテーマだったことと、ページ数の関係か展開が急だったこともあって、ちょっとはらはらしながら読んでいたところもあったのですが、今回はその反動もあるのか、諏訪さんご本人がひじょうにリラックスして楽しみながら描いているなあ、という印象を受けました。
元ネタが神話(ペルシャ)なせいもあってか、ストーリー自体はシンプルで自由奔放(荒唐無稽とも言う←けなしてるわけではありません、そういうものだよね神話って。でもその中からいろんな歴史的な解釈ができるのが面白いのです)。でもその分行間に諏訪さんの遊び心というかコメディセンスがふんだんに織り込まれて、とても楽しく読めました。
手書きの細かいツッコミがいいですね。時地時代から楽しみでしたが、今回はホントにノリノリで書いてるという感じがします。
どれも面白いけど、一番好きなのは「116さい 初恋もまだ」かな。
その直後の「古今東西 恋というのはケイハクに始まるのが一般的らしいぞ」も笑えましたが。
あ、でも、笑えるシーンばかりではなくて、「虹をわたる」話のところではちょっと読む手を止めてじーんとしてしまいました。ひとつの話に必ず1回はそういう諏訪さんならではの解釈が読めて嬉しいです。

・キャラクターも皆かわいい。
シリエル、バリエル、ザールのキャラ造形は典型的なれど(だからこそ?)魅力的で安心して読めるし、ルーダーベ姫も素朴でいいです。案外本物のお姫様ってこういう感じかもね。日本の皇族の方(サーヤとか)もそうだし。
姫のお付の美女軍団(女官たち)がお気に入り〜。諏訪さん、こういう美女軍団描くの実は結構お好きでしょ! 「時地」でも、馬超が美女たちに囲まれて鼻の下伸ばしてるシーンとかえらく楽しそうというか、美女に気合が入ってたような気がします。

・今回はいわば導入編のためか、ストーリーもあっさりしていて、設定の説明に終わってしまったような感もあります。
この神話自体はもっと長い話のようなので、次回からの展開に期待。
参考文献は一応ネット等で当たりをつけているところなので、お給料をもらったら書店に行ってみます。
そういえば以前新聞のコラムで、イラン問題を扱うとき、つい現代の感覚でイスラムの国を相手にしていると思いがちだけど、実はイランは元々ペルシャ文化の国なので、そこを勘違いするとちゃんとした理解ができない、というような話を読んだことがあります。
なるほどね〜、とそのときは読み流していましたが、こういう神話等を見ると確かにメンタリティとか全然違うのかもしれないな、と思えました。




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