『玄奘西域記』

『西遊記』でおなじみの高僧・三蔵法師のモデルとなった玄奘は、実は天竺への取経の旅を志す兄・高捷の通訳兼護衛にすぎなかった。語学は堪能、武芸に優れてもいたが、一本気で未熟、徳の高い僧である兄の「オマケ」でしかなかった彼は、旅を通じて友と出会い、師を得て、宗教の意味、取経の意味、信じること、生きることの意味を学んで成長していく。


             



  「諏訪緑さんの作品を読んでみたいけれど、どれから読んだらいい?」「『諸葛孔明 時の地平線』で初めて諏訪緑さんを知った。他の作品も読んでみたいのだけど。」という方がいらしたら、迷わずこの作品をおすすめします。通常私は初めての作家・漫画家・ミュージシャンに接するときは、まず最新作から読む(聴く)ことにしています。その人の力量や志向性を知るためには、それが一番早いと思うからです。が、諏訪さんに限っては絶対に『玄奘西域記』です。この作品は、彼女が大きな転換を遂げた記念碑とも言えるものだからです。(今にして思えば不思議ですが、「諏訪緑さんを読んでみよう」と思いたったとき、最初に手が伸びたのはこの作品でした。最新作から読む、をモットーにしているにもかかわらず。)

  この作品を読みはじめたとき、正直に言って「うーん、悪くないけど・・・」と思いました。「好きなタイプの絵だけど地味でインパクトがないし、着想や題材は評価するけどもうひとつなにか足りないような・・・」と。でも中盤あたりからそんなことは考えられなくなっていきました。まるで本の中からぐいっと出てきた見えない手に心臓をつかまれ、物語のうねりの中にほうりこまれて流されていくような感覚にとらえられてしまったのです。
  
  作品の中で玄奘はどんどん成長していきます。それはまるで諏訪さんの作家としての成長を体現しているかのようです。まず目につくところでいえば、絵が驚くべき勢いでうまくなっていきます。3年以上も同じ作品を描いていればうまくなるのはあたりまえ、かもしれません。が、構図や効果、人物の表情・動き、物の質感といった具体的な部分だけではなく、線1本1本の表現力が段違いに豊かになっています。ストーリーの内容も、話が進むにつれてより広くかつ深く掘り下げられていきます。なによりも読み手をつかんで離さない勢いが全体から感じられます。「若さ」と言い換えてもいいかもしれません。確かに『諸葛孔明 時の地平線』のほうが絵も演出も洗練されて「堂々の代表作」という感がありますが、もし現在の諏訪さんが『玄奘西域記』を描いたとしても、いい作品ができることはまちがいないにせよ、きっと全く違う作品になってしまうと思います。
  聞くところによると、諏訪さんはこの作品を描くまであまり仕事がなく(デビュー以来7年間に読みきりの短編を12本しか描いていません)、その間は図書館とデッサン教室に通っていたそうです。そうして構想を練り技術を学びながら、いわばより高く跳ぶために低く低く身を沈めて力をためていた彼女が、とうとう時を得て驚くべき高みに、今までとはまったく違う次元に軽々と跳んでいってしまった。この作品についてはそういう印象があるのです。

  この作品を読んでから、私は特に理由があるわけではないけれど、仏壇やお地蔵さま、神社仏閣などに向かって自然に手を合わせて頭を下げるようになりました。古い言い伝えや慣習を「迷信だ、非合理的だ」と切り捨てる前に、長い間人々が伝え受けついできたということの価値を感じ取ろうと思うようになりました。
  変わったのは諏訪さんだけではなかったようです。彼女の「変わっていく」エネルギーが読者も変えていくのだと思います。
  

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