今月の『三蔵法師の大唐見聞録』 2012年
『ホラー&ファンタジー倶楽部』 2012年5月2日配信(第18回)最終回 ・またしても感想が1回空いてしまいました…。旅行したりいろいろしていたせいとは言え申し訳ない…。 ・さてさて、2010年から足掛け3年に渡って連載してきた本編もいよいよ大団円です。 前回、クライマックスで袁天が仙人になってしまったのは、「あー、そう来たか!」と驚きでした。 確かに彼も仙人になる条件を満たしていたもんね。だけど、ウッチを思うためとは言ってもあまりに即物的というか現世の習慣、悪く言ってしまえば現実的な俗な心理に染まっているところもかなり見受けられたので、まさかこういう展開になるとは思ってませんでしたよ。 実は、ひょっとしたら安期生が出て来るんではないかと思っていたんですよね。諏訪作品で仙人と言えばこの人、ですから。 でも、大方の期待に反して、『玄奘西域記』のメインキャラ(ハザクとか)も、読者サービス程度にちょこっとしか(玄奘の夢で)出ませんでしたし、続編と言っても以前のキャラに頼ることは避けていたのかな。 個人的にはプラジュニャーカラのその後とか見てみたいですが。 長捷さんは折に触れて現れたけど、あれも不思議な現象というよりも、玄奘の無意識がああいう形で現れて彼を導いたのかもしれないなあ、と、連載が終わった今では思えてきました。 もちろん、本当に兄さんがいた、というのもありだよね。それでもいいと思います。読む人の解釈で。 ・一応前回で玄奘の経典奪還のミッションは終了、この回はエピローグ的な位置づけになるのかな。 行きに17回分費やして、帰りは1回、というのも、使命を果たしたからには内容的にはほとんど終わってるという作品構成はもちろんのこと、実際の旅行などでも、初めて行くところって行きより帰りのほうが早く感じますよね。そういう感覚もあるのかなあと思ったり。 そして今回一番印象に残ったのは、円測の「捨てなければ手に入らず 死ななければ生きられぬ」というくだりでした。 だいぶ前におお振りの感想でも書いたのですが、内田樹さんの『私の身体は頭がいい』(文春文庫)に、「人間は自分の望むものを他人に与えることによってしか手に入れることができない」(中略)「自分の荷物の重みは、その人が『他人の荷物を代わって担ぐ』という決断をした瞬間に消えるのである」という文章があるのですね。それをまた思い出しました。 内田先生によると、これはレヴィ・ストロースからの引用だそうですが、フランス現代思想と仏教思想が、(多分)違う道筋を通ってこんなところで結びついていることがなんだか驚きです。 人間の真理とは洋の東西や時代を問わず普遍的なものである、と言ってしまえばそうなんですが、でも、まったく違う立場の人が時代も場所も越えて同じところに到達する、ってなんだかいいなあ、と思ってしまったのでした。 ・これで『三蔵法師の大唐見聞録』は一旦終了ですが、そのまた続編の長安編も諏訪さんの中には構想があるそうですので、1日も早く読みたいです。 できれば次回はハザクやプー、安期生、麗麗姐さん等、オールスターキャストで派手に、と希望。1話完結のミステリー形式とかだと楽しそうだな〜。 |
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『ホラー&ファンタジー倶楽部』 2012年2月2日配信(第15回) 『ホラー&ファンタジー倶楽部』 2012年3月1日配信(第16回) ・感想を書くのが遅くなったので2回分まとめて書きます。 内容的にもこの2回はかなりつながっていると思うので(遅れたことの言い訳にすぎませんが・・・)。 ・武媚と円測の玄奘についての会話を読んで、言われてみればそのとおりだよなあ、と今更ながら思ってしまいました。 「才も徳もたいしてない 経典を天竺から持ち帰っただけの男」というくだりですね。 現実の玄奘はきっと才も徳もあり、行動力にある優れた高僧だったのでしょうけど、諏訪作品においては確かに頭はいいけれど高僧というわけでもなく、語学力と体力がとりえの、素直でまっすぐな普通の青年なんですよね。今までそんなふうに考えたことがなかったのですが、確かに端から見れば「え、この人があの・・・?」な感じで、武媚が疑問に思うのもうなずけます。 読者が親近感を持てるように、という意図もあるのでしょうが、普通の人が普通に一生懸命、誰かのために自分にできることを精一杯やる、ということも、偉大な人が人類の進歩のために偉業を成し遂げるのと同じくらい、いやそれ以上に大事なのだ、ということなのではないでしょうか。 『玄奘西域記』でも、玄奘が取経僧の役割を悟るシーンで、「尊いのは経典ではない そこに書かれている言葉が尊いのでもない 言葉が伝えようとしているもの それが尊いのではないか」「(略)取経僧は人の心の尊さを守るため この世にあるのじゃないか」というモノローグがあります。 玄奘の心にある、自分が特別に偉い高僧なのではなく、どちらかというと自分も普通の人間で、自分が偉大な業績をあげることよりも、人の心の優しさ・尊さを守り伝えていくことこそが僧としての自分のなすべき仕事ではないのか、という思いを改めて思い出させてくれるエピソードでした。 玄奘と実際に行動をともにしたことのない武媚にはそれがわからないのですね。若い娘が高い塀をめぐらせた中にばかりいて、人や世界と真剣に向き合おうとしない(円測のせりふを借りれば)のが健康的なことではない、ということなのだろうと思います。 ・そして第16回を読むと、徳って果たして何だろうと思わされます。 ウッチが賢く優しく、普通の子どもとはどこかちがうのは確かですが、その行動の元にあったのは、自分のせいで亡くなった乳母を思い続けるという、ある意味誰にでも持ちうる心であったこと、でも誰にでもできるようでいて実際はとても難しいのかもしれません。 普通の人が普通に誰かを思いやる、そんな簡単そうなことが実は一番大事で難しい、のかな。 玄奘が、ウッチが兄の生まれ変わりではない、誰も誰かの代わりになんてできないと悟るシーンも印象的でした。 普通だけど誰もが誰かにとってのたったひとりの特別な存在であれれば、そのことにみんなが自覚的でいられたらいいのにね、と思った回でした。 |
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『ホラー&ファンタジー倶楽部』 2012年1月5日配信(第14回) ・ベタな展開で牢を脱出した3人はウッチを救出すべく五台山へと向かいます。 なんだかんだあったけど、やっぱり旅の目的地は最初から不思議な力に導かれて決まっていたのですね。 というとなんかオカルトぽいけど、どうやってもそうなってしまう的な流れって、それが必要なときにはある、って感じでしょうか。 私は昨今流行のパワースポットとかパワーストーンとかには懐疑的な人間ですが、そういう不可避の運命的な流れみたいなものは、それを正確に感じることができる人がそのときしかないというタイミングでつかまえることができるなら、ちゃんと存在するものだと思っています。 でも、パワスポとかが流行るのって、何か必然的な社会や時代の背景みたいなものはあるんでしょうね。不安な時代、絆がない時代に宗教がもてはやされる、みたいな描写は『玄奘西域記』にもありました。 そもそも、昨年の漢字が「絆」だったこと、やたらとその字が新聞等に取り上げられていたのも、実際の世の中に「絆」があまりないからなのでしょうし。 あると当たり前だったり時にはうざかったりと思えるけど、なくなってみて初めてその大事さに気づくような。 ・閑話休題。 マラリアってそんなに時間がたってから再発するんだ、とwikiってみました。 確かに、数年間潜伏する場合がある、と書かれていました。知らなかった。しかも現在でも予防薬はないとか。 特効薬のキニーネ、『玄奘西域記』で玄奘がシギリアさんに譲った薬ですね。続編なのだから当然ですが、『大唐見聞録』には『西域記』との合致や共通点が多く見受けられ、ついつい『西域記』 を読み返してしまいます。 あのときは玄奘が持っていた貴重な薬を人に譲ることによって取経僧としての自覚・使命に目覚めるという展開でしたが(全編通じて1,2を争う私の好きな回でした。実は今でも玄奘のモノローグを暗誦できるw)、今回は立場が逆になって薬を譲ってもらうことに。のちの武媚の性格や行動を考えると不安になるものが…。 ・そして後半、ウッチパパ・尉遅敬徳登場。味のある中年・老人ならおまかせ、の諏訪さんの面目躍如といったキャラ造作に大満足です。 経典についての2人の会話は、現代の私たちにも通じる、知識や教養といったものはそれ自体が目的なのではないのだということを考えさせられます。 私は本が好きで子どもの頃からたくさん読んでいますが、人が言うほど読書っていいこと(ばかり)ではないんじゃないかな、と思っています。だって読書はものすごく簡単に現実逃避の手段になるもの。しかも「本読んでエライ、頭がいい」とか世間も誤解してくれるし。実際には社会不適応のせいってことも結構あるんですけど。 で、今回の玄奘の「経典は手がかりとか手助けでしかなく」という言葉に深くうなずいてしまったのでした。悩んで考えて行動するのは自分しかいないのだよ、と。 そして、それはひとりでやるものではないのだ、人と人とのつながりの中でなされるものなんですよ、というのがこの後の「そういったものは必ず人を通してしか現れない」ということなんだろう、と。 私は『おおきく振りかぶって』の感想サイトもやってるんですが、そっちでも「人によって負わされた傷は、結局人によってしか癒されない」と書いたことがあります。 それと同じことなんだろうなと思います。 |