今月の『三蔵法師の大唐見聞録』 2011年


『ホラー&ファンタジー倶楽部』 2011年12月1日配信(第13回)

・感想を2回分も書き逃してしまいました。
年末年始等でばたばたしていたとはいえ申し訳ありません。
内、第11回は短い番外編(というか旅の途中で玄奘が見た夢の話、ハザクもゲスト出演)でした。コミックスになったときにまとめて書けるといいのですが。

・冒頭で紹介される「癡」(ち)の概念、今入力するために調べていたら訓読みは「おろか」なのだそうです。な、なるほど確かに。
「そんなものがあると安心」→「そんなものがほしい」までは納得できるし当然な心の動きですが、そこから「そんなものがあると思いこむ」というのが人間の心の弱いところ。しかも自分で勝手に「ある」と思い込んでいるだけなのだということにはまったく気づいていないのがこの考えの怖いところなのですね。
「あってほしい」「どこかにあるに違いない」と「本当にある」は、よく考えてみたら全然違うのに。
こうしてちゃんと説明されると自明のことのように思えるのに、実際には説明されないとわからないのですね。自戒をこめてそう思います。

・こんないい話だったのに、次のページの円測の「三蔵法師・・・」には思わず吹いてしまった。本人大真面目なところが余計に。
しかも後半のアクションシーンでも律儀に「…」をつけてますね。
円測と玄奘の会話は時々ハザクとのそれを思い出させるけれど(同じ王族出身だし黒髪長髪の外見も)、円測にはハザクのような軽さというか、王子様・若旦那的な雰囲気はないのがこの「・・・」に現れているような。
夢に出てきた正法蔵(懐かしいな!)がきっかけでつい『玄奘西域記』をまた読んでしまいましたが、宗教と政治の問題はこの頃からずっとテーマになっていたんですね。今でも現実の世界でもなかなか答えは出ないと思いますが。
羅刹天女の言う「即天」って政界入りのことだったのか。(って、これ即天武后だったのね。)『玄奘西域記』後半のテーマとここでつながっていたのですね。
最近、オウム真理教に関するニュースがいくつか続いて、もう18年も前の事件なのにちゃんとした検証もできてないし、いわゆるカルト宗教の問題とか、私たちの心の問題についても全然解決してないなあと思ったりもするのですが、確かに各時代の特色もあるのでしょうけど、人間の心って何千年も前から案外変わってないものなんだろうな、と思いました。
でも悪いところも変わらないけど、いいところも変わらない、っていう見方もできるよね。と思ったら少しは救われるか。

・後半、袁天と合流してからは会話と行動に独特のリズムが戻ってきて楽しいです。
やっぱりアレね、玄奘・ハザク・プラジュニャーカラなのね、3人になると。


『ホラー&ファンタジー倶楽部』 2011年9月1日配信(第10回)

・前回はウッチと羅刹天女の会話等で内面的というか宗教とはなにか等を考えさせられる内容でしたが、打って変わってアクション活劇コメディ風味に戻っております。
ムンアが出てくると玄奘との掛け合いでどうしてもそうなってしまうのね〜。
冒頭のロバにやさしいエピソード、玄奘と「深い縁」と言われたときの仏頂面、山道を二人で行く場面の漫才会話などを見るに、前から「この人(2人)誰かに似てるなー」と思ってた謎がとけました。
エーベルバッハ少佐だよ! 「エロイカより愛をこめて」の。黒髪の長髪ってとこも、ってそれは偶然か。
てことは玄奘は伯爵か? それはないか・・・。乱暴ものだしな。「怪我をしていても体力で人に負けたことはない」とか言ってるしね。
ていうか、そこは自慢すべきポイントなのかということは完全にムンアに同意。

・羅刹仙女の介入があったとはいえ、舞台は着々と五台山へ向けて進んでいますね。
金閣・銀閣の2つの勢力、ウッチ、袁天、玄奘、ムンアと役者は同じ場に集結しつつありますが、もうすぐクライマックスになるのかな? できれば麗麗姐さんにも再登場してほしいですが。
そして仙女の「即天する」という言葉の真意はなんでしょうか。
「宗教は道具」ときっぱり言い切る彼女でも、自らの力と超常現象的なことは信じているのか。それともあれは側近に自分が姿を消すことを納得させるための方便なのか。だとしても、姿を消す理由とか目的が明らかではないし。
芭蕉の洞窟で行っていた人々を救う善行と、ウッチと2人だけのときに見せた顔と、今回のラストシーンとがどうもひとつに結びつかないですよ。
彼女の行動原理は次回明らかになるのでしょうか。


『ホラー&ファンタジー倶楽部』 2011年8月4日配信(第9回)

・なんだかこの感じ、何かを思い出す〜、とずっと思っていたんですが、この連載ってNHKで昔やってた連続人形劇みたいじゃない?
「新・八犬伝」とか「三国志」みたいな。
小学生の頃毎日わくわく楽しみにして見てたなー、と懐かしくなりました。
最近でも三谷幸喜さんの脚本、演出で「三銃士」をやってましたが、さすがに大人になった今では毎日見ることもかなわず、かといって録画してまとめて見るほどまめでもなく、結局1回も見れませんでしたが・・・。
今にして思えば辻村ジュサブローさんの人形を始めとして、子ども向けとは思えないような一流のスタッフが集まって作っていたらしいのですが、以前坂田靖子さんが書いてたのだけど、本当にいい子供向けのコンテンツは驚くくらい質の高い内容である、ということで(子供向けのドラマにシェイクスピアとかの引用がばんばん入ってる、とか)、この「大唐見聞録」もそういうものになるといいなあ、と思うのでした。
これが子供向けかどうかは別として。

・さて、今回のテーマは「新興宗教」です。
村人たちに、これが仏教や道教と同じ「宗教」と呼べるものという意識があるかはあやしいですが、現世の利益を満たし、即物的な願いをかなえる力のあるカリスマ的なリーダーが人間以上のものとして崇拝され信心されているという構図は、新興宗教を意識して描かれたものだと思っていいでしょう。
昔から、今よりもたぶん素朴なかたちではあったのでしょうが、こういう集団はたくさんあったのでしょうね。三国志の「黄巾の乱」だってそうだし。
作中でも羅刹仙女(もともとの西遊記では羅刹女として登場しますが)本人も、自分のやっていることは宗教ではなく、世の中を動かすための道具である、と言い切っていますが、彼女の本当の目的は?
ウッチを手に入れて、現世での天と地、月と太陽が揃えば世界を手にできると思っているのか?
だからといって世界征服とかではなくて、自分の思う理想の世界を作ろうとしているだけなのか?
でも一人の人間が独断で作る世界は、たとえどんなに理想的に見えても、大きな落とし穴があると思う。だって人間はそんなにいつも100%良心的で気高くいられるわけじゃないからな・・・。共産主義、社会主義の陥った罠はそこだよね。彼らは人間の良心を過信しすぎた。


『ホラー&ファンタジー倶楽部』 2011年7月7日配信(第8回)

・やっぱりコメディでしたな。
「金がたまらない手相ですねえ」って誰がボケろと言った、袁天。
というのは冗談としても、この作品で諏訪さんが今までとはアプローチの方法を大きく変えていることは明らかだと思われます。
まず、「コメディ」「アクション」という印象からもわかるように、全体に肩の力を抜いてリラックスした話になっていること。
これはちょっととぼけた味のナレーションにも表れてますね。
それから、女性陣のキャラが立っている。麗麗姐さんや今回の吉祥果飯店の女主人のように、自立していて自己主張のはっきりした印象的な女性がすでに2人も出ている。今後も結構女性的視点は重要になってくるし、魅力的な女性キャラもどんどん出てくるんではないでしょうか。
今までだって、『時の地平線』も女性視点の三国志ではあったのですが、それがより明確に作品中で打ち出されているように思います。
「男はすぐそれだ」って、こんなに直接的なせりふは今まであまりなかったような。
どうしてこういう描き方をしてるのか考えてみたんですが、やっぱり長年描いてこられた小学館の『プチフラワー』『flowers』というホームグラウンドから出て、しかもwebという新しいメディアだということが大きな理由なのでは。
小学館では、諏訪さんは長い間レギュラーでずっと描いてましたし、編集部にも読者にも「諏訪さんはこういう漫画家」という固定イメージがあったと思うんですね。でも今回環境が変わったことで、諏訪さんを知らない人、無料だからと気軽になんとなく読みにきた人にも、親しみやすく興味をもってもらえるように、コメディ部分多め、毎回必ずアクション等の見せ場有り、な作りにしてるのでは。

・で、今回一番印象に残ったせりふは、玄奘の「そんな呪文はありませんよ」でした。
「そんな」に限らず、「それを唱えるだけで苦労もしないで何かが手に入ったり問題が解決したりするような、便利で安易な方法なんてこの世には存在しません」ということなんですね。
ムンアが女主人に剣を向けたとき、彼女はきっぱりと「なんでも剣を振るえば解決すると思いやがって」と「安易な方法」を拒否した。
剣だけではなくて袁天が示したお金もまた「呪文」なんだろうと思います。それさえあれば何だってできる、みたいな。
でも「(物理的な)力」と、その「力」が強力・有効であるという思い込み(知らず知らずのうちに心に染み付いた常識)で世の中を動かしていくのはそろそろ限界にきているのではありませんか、という諏訪さんのメッセージを勝手に読み取ってしまった私でした。


『ホラー&ファンタジー倶楽部』 2011年6月2日配信(第7回)

・なんつーか、薄々思っていたのだけど、ひょっとしてこの作品ってコメディ?
『玄奘西域記』の続編ということで、最初はあの生硬で真面目な雰囲気を予想していたのですが、毎回アクションはあるわ、ボケとツッコミ(?)的なくすぐりは効いてるわでほとんどエンターテインメント的に楽しんでおります。
でもそのうち『玄奘西域記』のようにシリアスな展開になっていくんだろうなあと思っていたのですが、この回冒頭の3人の会話のシーンを読んで、これは今までの私の認識が間違っていたのではなかろうか、と。
もちろん『西域記』にだって笑いもあったし、この『大唐見聞録』にも玄奘が「人を助けるためとは言え暴力をふるってもいいのか?(しかも自分は僧なのに)」と悩むシーンもあるんですが、だからといってすぐに自分の内面世界に深くもぐってしまわないで、とにかくどんどん変化していく状況に精一杯対応していかざるをえないんですね。
つまりは、『西域記』では悩める青少年だった玄奘も、そしてたぶん描いている諏訪さん自身も、大人になったんだなあ、と思うのです。
悩んでたってご飯は食べられないもんね。
もちろん世の中の、また自分自身の「それはおかしいんじゃない?」という気持ちや現象に目をつぶってただ日々の生活をすごしていくことがいいとかしょうがないとかいうわけでは全然ないんですが。
私が好きな沢村貞子さんのエッセイで、沢村さんが子どもの頃お母さんに「女の子は泣いちゃいけないよ」と言われて理由を聞いたら「泣いてたらご飯のしたくができないからさ」と返ってきたそうで、なんだかそれに近いものがあるんじゃないかなと思うんですよ。
何があっても生きていかなければならない、生活しなければならない、地に足をつけて日々の生活を送っていく大切さ、みたいな。

・まあ↑の件は直接の内容とは全然関係ないんですが、今回の配信を読んで一番に思ったことなので最初に書いてみました。

・この話ではやっと玄奘が「三蔵法師」になってお供を連れて旅をするのかなあと思ってたんですが、やっぱり本人は孫悟空で、袁天・ムンアが沙悟浄・八戒で、ウッチが三蔵法師の役割なんですね。さすが永遠の迷える青年。
と思ったら深刻に悩む役割は今回ムンアのほうが担っているようだし、ウッチはさらわれちゃうし、袁天には怒鳴られっぱなしだし、キレイな女性にはまんまとだまされちゃうし、全くもっていいところなし。
頑張れ玄奘!

・最後にひとつ。
ムンアが「生きるか死ぬかの現場に経典などなんの役にもたたない」と言っていますが、これはもう大昔から繰り返されてきた問いでありまして(「飢えた子どもの前で哲学は何の役に立つか」とかね)、理想主義とかきれいごととか言われても、「そういう状況を作らないためにこそ経典(哲学でも文学でも)はあるのだ」ということなんだと思うのです。
宗教も文学も芸術も学問も、問題を即物的に解決するための手段にはもとよりなりようがないんです。だからといって無駄なものでは決してないんですよ。