【注1】
玄奘の生年は史実では602年とされていますが、この詳細版年表では作品世界の時間を尊重しました。実際には玄奘は602年に生まれ、629年・26歳のときに出国しています。作品では少年時代に出国したことになっているのと、サマルカンド国到着時点で「貞冠4年(630年)」の記述があるため、出国629年は史実どおりとして考えました。
生年614年については「ブッダガヤーの巻」で「玄奘が生まれるとき母が見た夢の中で、深沙神が『18年後に食らうのはおまえのもうひとりの息子だ』と言った」という記述から、このとき玄奘は18歳と判断しました。そして次の「ナーランダーの巻」で唐を発って3年後に到着したとのことなので、この時629プラス3で632年、そこから18年ひいて614年としています。
【注2】
この「クンドゥスの巻」で「先月亡くなった王妃(ハッディの義母)」と会話に出てくる女性は高昌国王・麹文泰の妹だそうです。
【注3】【注4】
この2つの年代が一番悩んだところです。
まずナーランダー大学から南天竺への旅に出た年ですが、私が読んだ2冊の本では「大学で5年学んだ後出発した」となっています。ナーランダー到着の年632年プラス5年で637年ということになります。しかし『玄奘西域記』の「マガダ国の巻」では「貞観9年(635年)」と書いてあるのです。到着してから3年しかたっていない・・・。でも作品では「4年勉強した」とも書いてある。
どうしようかと思ったのですが、結局作品中にはっきり書いてある年代を優先することにして、南天竺への出発は635年、その3年前に突厥崩壊としました。
【注5】
カノージュ城論戦大会は資料によると641年となっています。が、作品中でハッディがハザクに「5年前の突厥崩壊後」と言っているので、633年プラス5年で638年としました。
【注6】
唐の蘇定方により西突厥が滅ぼされています。ということは多分ハザクの没年ではないかと・・・。再起を期して王と少数の側近だけが落ち延びたという可能性もありますが、ハザクの性格からして「部下や民が戦って死んでいったのに自分だけおめおめと逃げられるか」と言うのでは。この約100年後、744年に突厥は完全に滅亡したそうです。合掌。
【注7】
注1にも関連しますが、この没年は史実を採用しました。年表では50歳としていますが、本当は62歳で亡くなっています。