風俗博物館に行ってきた


  京都・西本願寺のすぐ近くにある「風俗博物館」は、井筒法衣店の自社ビル5階にある私立博物館です。
  1フロアのみの小さな博物館ですが、平安時代の宮廷や貴族の館を再現した模型(中ではちゃんと『源氏物語』の登場人物がいろいろな場面を演じています)がフロア全体に展示され、当時の楽器や調度品の実物もガラスケースに納められていて、小さいながらも見ごたえ十分。
  しかも別室には平安時代の衣装を着て記念撮影のできるコーナーもあり、なかなか楽しめる博物館なのです。(博物館の様子はこちらです。)

  今回こちらを訪れた最大の目的は、平安時代の衣装を確認すること。
  『うつほ草紙』を読んで疑問を持った方も多いと思うのですが、貴宮と細緒は私たちが「平安時代」と聞いてすぐに連想するような衣装を着ていますが、一の宮だけは奈良時代のものに近い衣装を着ているのです。これはどうして?
  ということで服飾史に関する本をチェックしてみましたら、『うつほ草紙』の舞台となった9世紀中頃(平安時代初期)は文化全般が唐風から国風へと移行していった時期であり、服装に関してもまた然り。故に一の宮が奈良時代風の衣装を着ていても不自然ではないようです。遣唐使が正式に廃止される9世紀末までは、社会全般に渡って中国の影響が大きかったのではないでしょうか。六歌仙の一人として名高い小野小町も実際には一の宮のような服を着ていたそうですよ。(小野小町は生没年不詳ですが、800年代初に生まれ、900年代初めに亡くなったそうです。小野小町の衣装は京都の時代祭で見ることができます。写真はこちら。)
  
  そういう時代背景があるので、多分諏訪さんはおしとやかな貴宮と細緒には動きにくい十二単ふうの衣装を着せ、反対に活発で行動的な一の宮には動きやすい奈良時代風の衣装を着せたのでしょう。ひょっとしたら、内裏で正室にいじめられている彼女の立場を表すために、最新流行の衣装ではなく時代遅れの衣装を着せた、という見方もできるかもしれません。
  (余談・絵巻物などで十二単を着たお姫様がうつぶせになっている絵をよく見ますが、あれは本当に動くのもままならないからなのだそうです。着物は重いし、髪は長いし、今と比べて栄養状態は悪いし、さらに貴婦人は滅多に外出できなかったため、歩くのに慣れていない。それでよちよちとしか歩けなかった、という話を聞いたことがあります。)

  風俗博物館のサイトには縄文時代からの衣装の写真があったので、実物を見るのを楽しみにしていたんですが、実際に展示されていたのは平安時代の男性の衣装と十二単ふうの衣装だけでした。きっとスペースの都合などで普段は展示していないのですね。残念。

  細緒、貴宮、一の宮が着ていたと思われる衣装の写真は、こちらです。


[追記] 
  先日、『うつほ草紙』文庫1巻の解説を書かれた上原先生からメールをいただきました。
  それによると、奈良時代から平安時代にかけての衣装の変遷は、資料がほとんどないため正確なところはわからないそうなのですが、少なくとも『うつほ草紙』の時代には、奈良時代調の衣装は全く見られないくらい平安時代調に変化していたため、もしもその時代に一の宮のような衣装を着ている人がいたら、「流行遅れ」くらいではすまないほど前時代的なものだったようです。今で言うなら「芸者さんでもなんでもない普通の人が、お正月でもないのに日本髪を結って着物を着ている」くらいの感じでしょうか。
  それならばどうして一の宮は奈良時代風の衣装を着ていたのか?
  それは彼女があの服を「自ら選んだ」からではないでしょうか。「私はこんな複雑で重くて、ろくに歩けもしない服は着たくない!」と。一の宮ならそのように自分の意見をはっきり言って、その通りに行動するということができそうです。『堤中納言物語』の『虫愛づる姫君』のように。
                                      (2003,4,21追記)

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