喫煙者(スモーカー)を狩れ!

  最近東京都千代田区や飛騨白川郷など、歩き煙草や吸殻のポイ捨てに罰金をとる条例をニュースや新聞で見かけます。禁煙運動が盛んなニューヨークではシガーバーですら全席禁煙になりそうな動きがあるとか。

  さて諏訪作品でスモーカーと言えば『うつほ草紙』のナジャ船長と『玄奘西域記』のプラジュニャーカラ。2人とも煙草を吸う姿がサマになっていますね。ナジャ船長は病弱な仲忠の母と同席するときは吸いかけた煙草をあわてて消す気配りも見せていて好感度UP。
  ところが最近の煙草関係のニュースを見ていてふと思いついたのですが、煙草ってあの時代に存在していたんでしょうか? しかもキセルじゃなくて巻き煙草。時代劇でよく見るキセルはだいたい江戸時代のものですし、古くても石川五右衛門(戦国時代)くらいしか思い当たりません。そういえば平安・鎌倉・室町時代を舞台にした物語に煙草が登場しているのを見たことがないような気がします。

  そこでちょっと調べてみたところ、煙草の原産地・南米では3〜4千年前から喫煙の習慣があったそうです。ところが煙草がユーラシア大陸に伝わったのは16世紀初頭、南米を訪れたスペイン船が自国に持ち帰ったのが最初だとか。その後ヨーロッパからトルコ、アラブ、インド、中国を経て日本に伝来したのが16世紀末。つまりナジャ船長やプラジュニャーカラが煙草を吸っていたなんてありえないのです。

  さてここからが本題です。(長い前振りですみません。)
  「当時存在しなかったはずの煙草を吸っているなんておかしい。この作品はまちがっている」とも言えます。が、私があえて言いたいのは「正確であるということは物語にとってどれだけの意味を持つか」ということです。
  もちろん物語(フィクション)を作る際に下調べは重要です。特に歴史物はそうだと思います。時代考証のまちがいが物語世界の土台を崩してしまう、読者に「それはないでしょう、こんなのうそだ」と思わせてしまう。読者は物語世界が実感できず、物語という夢からさめてしらけた状態になってしまいます。
  ただ、不正確でも魅力的な物語というものはたくさんあるんですよね。問題はその世界を成立させるために押さえるべきポイントはどこか、ということだと思います。そこをおろそかにしたらその世界がすべてうそになってしまうところ。昔のハリウッド映画、M・モンローやA・ヘップバーンのラブコメディなんかがそうなんですが、よくできた物語は、あとになって冷静に考えてみると「そんなこと実際にはあるわけないよね」てなもんですが、見ている間はまったくそうは思えません。物語に入り込んで登場人物と一緒に一喜一憂してしまう。これが「ポイントをはずさない」ということではないでしょうか。
  たしか竹宮惠子さんの言葉だったと思いますが、「フィクションに必要なのはリアルではなくリアリティ」というのを聞いたことがあります。「事実(正確さ)」よりも「事実であると思わせる説得力」のほうが重要である、と。

  ナジャ船長とプラジュニャーカラに戻りますが、煙草を吸う2人の姿は「事実(リアル)」ではないけれど「説得力(リアリティ)」があります。早い話が彼らは「煙草が似合うキャラクター」なんですね。周囲の煙草を吸う人、煙草が似合う人を思い浮かべていただければ、スモーカーの共通点、共通した雰囲気が(はっきりと言葉にできなくても)見えてこないでしょうか。2人が本来存在しないはずの煙草を吸っているのは、彼らがどういう人間かを表現するのにスモーカーという属性が必要だった、ということなのでしょう。そしてたとえ「この時代に煙草はなかった」ということを知ったあとでも『うつほ草紙』や『玄奘西域記』の作品としての価値は決して変わらないと思います。


(追記・いや、もっともらしくこんなことを書いても、もし諏訪さんが「あの作品を描いていた頃は当時煙草があったかどうかなんて知らなかったのよねー、だから『蠶叢の仮面』以降は煙草は出てこないでしょ」とおっしゃられたらそれまでなんですけど。ちょっと考えてみたかったんですー。「リアルとリアリティ」については坂田靖子さんがご自身のサイトでひじょうに簡潔かつわかりやすくお書きですので、興味がおありの方はこちらをどうぞ。→「Juneで描くマンガ」)


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