祇園祭
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Index |
祇園祭の由来 | 山鉾の種類 | |||||
今からおよそ1130年前、清和天皇の時代、貞観11年(869)に京の都をはじめ日本各地に疫病が流行したとき、「これは祇園牛頭天王の祟りである」として、平安京の広大な庭園であった神泉苑に、当時の国の数−66ヶ国にちなんで66本の鉾を立て、祇園の神を祭り、さらに神輿をも送って、災厄の除去を祈ったことにはじまります。その後、祇園御霊会(ごりょうえ)と呼ばれ、疫病の流行した年のみ開催されていましたが、円融(えんゆう)天皇の時代、天禄元年(970年)の頃から、毎年6月14日に行われるようになりました。平治の乱などでは一時中止された時もありましたが、足利時代には再興され、保元・平治・応仁・文明の乱で、京の都が焼け野原となり中止されました。大乱の妬く30年後、明応9年1500年には、町衆により再建され、38基の山鉾が巡行していたと伝えられています。
江戸時代になると、大政所のお旅所が現在の四条京極に移転した事と、祭礼の費用が広く町民に課せられるようになりましたが、行事としての大きな変化はなく、神事・行事内容ともに固定化されて、山鉾の大型化、装飾の華麗さが進み、数も33基に決められ、現在の祇園祭の原形となる「祇園会」が完成されました。比較的順調に執り行われていたこの時代の祇園会も、幕末の激動期には、元治元年(1864)の禁門の変での大火「どんどん焼け」で多くの山鉾が焼失しました。 幕末の「どんどん焼け」の焼失から復興されないまま、明治元年の神仏分離令で更に大きな混乱にみまわれましたが、どちらかというと仏教色の強かった祇園社は「八坂神社」として神道の社と変わったものの、祇園会は「祇園祭」として残り、明治十年に巡行日程が新暦(太陽暦)の7月17日、24日に移されました。第二次世界大戦後は、昭和二十二年に長刀鉾一基だけで巡行するという形で復興をとげました。昭和29年には先祭(17日)20基、後祭(24日)9基が巡行し、昭和31年、巡行コースの一部が松原通から御池通に変更。昭和33年、祭りが無形文化財に指定され、昭和36年、寺町通りから河原町通りへと巡行コース一部変更。昭和38〜39年には一手不足のため、人が担ぐタイプの山に車輪がつけられるようになり、昭和41年(1966年)からは、後祭(24日)も17日に一緒に巡行するように変更されました。 |
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