E「京都の姉妹都市キエフ・ウクライナの現状」
T.ウクライナの首都キエフ
1.姉妹都市キエフ
京都とウクライナの首都キエフは、1971年9月7日に姉妹都市結成宣言をおこなった。翌年の1972年にはキエフ市議会がキエフ市の東北にある地下鉄終点のレスナーヤ駅のひとつ手前のチェルニーゴフスカヤ駅近くのニュータウンの通りを「京都通り」と命名、1981年には京都から贈られた「石塔」が道路わきの京都公園に設置された。キエフからも2001年に京都市に「記念碑」が贈られ、今も市庁舎まえに設置されている。
姉妹都市結成宣言後、両市のあいだでは市ならびに議会関係者の相互訪問がおこなわれ、京都からは鹿やたぬきが、キエフからは白梟や鷲がそれぞれ相手側に贈られている。何周年目かの節目の年には、合同音楽コンサート、合同バレーコンサートが開催されている。2002年には、「京都キエフ交流の会」が発足、寺田バレーアートスクールの寺田宜弘氏がウクライナの勲章や功労芸術家の称号を授与され、ウクライナで活躍している。
最近では議会関係者の交流だけでなく、毎年行われる京都市民ハーフマラソンにキエフ市民が参加するなど、一般市民に軸足を移した交流がおこなわれている。
京都・キエフの姉妹都市の締結は、キエフがロシア発祥の地で古都、京都も古都ということからであろう。なお、横浜とオデッサも大貿易港がとりもつ縁で姉妹都市となっている。
2.キエフでの仕事
私のウクライナ訪問は7回。そのうちキエフ訪問は3回。1回目は、今から44年前の1962年にモスクワから汽車で、2回目は、2003年にオデッサからやはり列車で、そして今回の2004年の夏は、タシケント経由ボリスポリ空港着のウズベキスタン航空で行った。そして約1年間ボリスポリ空港から車で30分ほどのところにあるキエフ市の東のはずれ、地下鉄パズニャキイ駅近くの集合住宅の住居で暮らすことになった。
スコペンコ・キエフ国立大学学長と天江ウクライナ駐在大使との間で日本語教育強化が話し合われたこともあって、今回は、キエフ国立大学で日本語教育の全般的な指導にあたることになった。『オデッサ地方ロシア語方言辞典』全2巻がオデッサ大学から刊行され、編集責任者の一人になっていたこと、『日本昔話』ウクライナ語版の編者であったことなどのために白羽の矢がたったのかもしれない。しかし行ってみると、客員教授として日本語の会話、日本語史の講義をおこなってほしいと要請された。
急遽、学生に配る日本語の原稿を書き、講義はロシア語で行った。1年間の講義は、幸い、一定の評価をいただき、キエフ国立大学とキエフ国立大学文科大学からそれぞれ表彰状をいただくことができた。帰国前には、クリミヤのベレガボーエにあるキエフ大学のサナトリュームに2週間滞在できるプチョーフカ(無料宿泊・滞在券)をいただき黒海での水浴の日々をたのしむことができた。また、ベレガボーエ滞在中にプーシキンの詩「バフチサライの泉」で有名なバフチサライを訪問、クリミヤ汗国最後の砦に登ることができた。
3.首都キエフの現状
『原初年代記』によればこの地方に住んでいたポリャーネ族のキイ、シチェク、ホリフの3兄弟が、キエフを建設した。キエフはキイ家という意味である。ドニエプル河を舟に乗ってやってきた3兄弟のモニュメントが独立広場に設置されている。8世紀にこの地にキエフ・ルーシが成立した。ルーシという呼び名は、一般的に北欧からやってきたノルマン人(バイキング、ロシア語では、ヴァリャーグ)を指すことばであったらしい。このルーシということばがロシアの呼称のもととなっている。したがってキエフはロシア発祥の地でもある。
キエフはカシュタン(セイヨウトチノキ)のまちと言われる。人口は約300万人。キエフの街の中を南北にヨーロッパ第3の大河ドニエプルが流れている。河の西側の台地が昔のキエフである。キエフでもっともすばらしい場所といえばヴラディーミルの丘だろう。地下鉄マイダン・ネザレージュノスチ(独立広場)駅で降りて、東の方に400メートルほど行くと、丘への上り口がある。150メートルほど登ると、988年にギリシャ正教を国教と定めたヴラディーミル公の十字架を手にした像のすぐ上に出る。そこから眼下に広がるドニエプル河と新市街の眺めは格別である。5月には、りんご、こぶし、ライラックが咲き乱れる。丘の少し北には、ロープウエイの駅があり、復興なったミハイロフスキイ寺院がそびえている。オリガの像、ボグダン・フメリニツキの騎馬像、ペチェルスカヤ大修道院とともに世界遺産に指定されているソフィア寺院の前を通って地下鉄ザラトィエ・ワロータ(黄金の門)駅にいたるコースである。眺めとしても散歩道としても申しぶんがない。少し時間があれば、ロープウエイの駅から最高会議(ヴェルホーブナヤ・ラーダ)の横を通って、民芸品や絵画などみやげ物の露店がならんでいるアンドレイ坂、さらには昔商業の中心地として栄え、商人がたむろしていたパドールにまで降りることができる。ここが昔のキエフである。アンドレイ坂の露店の屋台には、ピーサンカ、オーベレク、ブラヴァーと言ったウクライナ特有のみやげものが所狭しと並んでいる。ピーサンカ(писанка)は、文字・文様入の色つき卵のことで、ウクライナではキリスト教受容以前から宗教的習慣として復活祭のときに各家庭で作られてきたものだ。オーベレク(оберег)は、ウクライナ語ではオベレーヒと言い、藁のうえに植物の種などをあしらった「お守り・魔除け」で、1学期終了のとき、学生から花束とともに頂いたので、特に印象に残っている。ブラヴァー(булава)は、鎚矛のことで、ポーランドの統治者やコサックの頭領の権威の象徴であった。ユーシチェンコが大統領に就任したときにもブラヴァーの伝達式が厳かにおこなわれていた。
ところで黄金の門は、キエフ・ルーシの頃には各国からここに諸侯がやって来たと言う。当時の華やかな光景はいかほどかと思われる。しかしもう何年も修理がストップしたままである。キエフ市の財政難のためである。
キエフ国立大学のすぐ前にシェフチェンコ公園があり、タラス・シェフチェンコの立像が聳えている。定年退職後の老人たちが毎日ここに集まってきては将棋を指している。その公園をはさんで向かい側に市立美術館がある。そこにはシーシキンやレーピンのすばらしい絵があり、年代記作者ネストルの像も展示されている。
ウクライナ人は藝術に関心が高い。キエフ国立オペラ劇場をはじめとして主要都市にはオペラ劇場があり、入場料はとても安い。バレー、コサックダンスは日本人のよく知るところであるが、ウクライナにゆかりの芸術家を挙げると、詩人、作家としては、タラス・シェフチェンコ、ニコライ・ゴーゴリ、アントン・チエホフ、イリヤ・エレンブルグ、ミハイール・ブルガーコフ、イサーク・バーベリ、作曲家としては、ムソルグスキイ、プロコフィエフ、ピアニストのホロヴィツ、音楽家のエミール・ギレリス、ダビッド・オイストラフ、スヴャトスラフ・リヒテルが有名で、画家のイリヤ・レーピン、舞踊家のワツラフ・ニジンスキイはウクライナ生れである。アンドレイ坂にはブルガーコフの記念館がある。
キエフでは人も車も急ピッチで増えてきている。ドネツク炭鉱の大気汚染をさけてやってくる人もいるからである。急激な車の増加にくわえて車庫難が大きな問題になっている。道路の幅は広く幹線道路では、猛スピードで、トヨタ,日産、ホンダ、三菱、スバル、ベンツ、BMW, スコダ、ルノー、ラーダなど各国の車が走っている。
キエフは樺太の北部と同じ緯度にあり、冬は−5度から−15度にまで下がりとても寒い。しかし冬時間中は、各家庭には温水暖房がほどこされているので、日本にいるよりもはるかに暖かい。しかし外ではきめの細かい雪が道に積もる。自宅から都心にある大学に地下鉄で通っていたが、凍りついたつるつるの道路で2度転んだ。雪が溶けると、あちこちに道路の穴が露出する。資金難のキエフ市は修理に困っているらしい。
日本との時差は7時間である。しかし4月から10月にかけて夏時間となるので、この間の時差は6時間である。4月下旬頃から急にあたたかくなり、草木の芽が一斉に吹き出し、あっと言う間に葉をつけ、花を咲かせる。
5月19日に地下鉄のドゥルージュビ・ナロードフ駅を降りて、植物園に行った。丁度花の見ごろである。もくれん‘магнолия’セイヨウトチノキ・マロニエ‘каштан’ライラック‘сирень’ボタン‘деревовидный пион’芍薬‘пион’が満開’в полном расцвете’。八重桜‘махровая вишня.сакура’だけが散りかけていた。
木では、モミ‘ель’トドマツ‘кедр’トウヒ‘пихта’カエデ‘клен’白樺‘берёза’ナナカマド‘рябина’が多く見られた。ミミズク’совка’やタカ‘ястреб’(ワシタカ科のハヤブサ)を手に持っている男にも出会った。一番の収穫は、ライラックやマロニエの花の色の多様さであった。
ウクライナと日本との経済格差は、数字でいろいろと述べられているが、数字だけの比較では、分かりかねるところがある。しかしあえて言えば、一般公務員の平均給与は、月額約200ドル。生活費は食費に100ドル、光熱費・電話代・服装費などに100ドル、そのなかから少しずつ貯金もしているようだ。
わたしの体験をからすると、毎月の光熱費・水道・温水暖房費・電話代の方は、あわせて月額80〜90グリブニャ(約2000円)であった。9月半ばから4月初めまでキエフ市の全アパートに暖房がほどこされ、室温は20度〜25度の暖かさである。それに地下鉄・バス代は、とても安く、どこまでいっても50コペイカ(約13円)で、5分おきに来る。都心部にはマルシュウトカ(料金1グリブニャ)という小型のバスも縦横に走っている。パンや野菜、果物類は、とても美味で、日本の約10〜15分の1の値段である。ペルカールニャと言う看板を掲げた散髪屋がいたるところにあり、値段は15〜16グリーブニャ。日本円で約300円。したがって、ここに住み着いて日本に帰ろうとしない日本人もいるほどだ。しかし、経済の民営化がすすむにつれて、物価が少しずつ上がってきている。4月13日のボンダリ運輸大臣の話では、鉄道運賃が、来年は50%、さらに再来年に50%、つまり2年後には100%上るとのこと。現在の倍になると言うのである。
ここでも、最近子供の出生率が下がりだしているが、子供には、政府から多額の補助が出ているせいか、子供の数はまだまだ多く、日本と比べものにならないほど若い人びとの国という感じがする。大学進学率は、5年前はいわゆる18歳人口の15%であったが、去年は30%、今年は35%ぐらいだと予想されている。このようにウクライナでは全てが急速に変化している。
キエフ人の特徴。キエフ大学日本語科の200人余りの学生の75%は女子学生。ここに住む人種は、世界でもっとも背が高く、足の長い人だと言われている。発表されている生活水準からすれば、どうしてこんな外套を着られるのかと思うほど豪華な、日本では何百万円もするミンクのコートを身にまとって、ファッション・ブックから抜け出してきたような姿で堂々と闊歩している。それに お臍を出している女性も多い。ファッションなのだろうか。
ウクライナの人は、花、猫、犬がとても好きだ。犬・猫のコンテストが行われ、地下鉄の駅周辺では色とりどりの鮮やかな花が売られていて、犬や猫まで売っている。
ヨーロッパは一般的にそうなのであるが、ウクライナも水はアキレス腱の一つだ。市は市内各地の広場に井戸を掘り飲み水を提供しているが、街頭では、随所に6リットル入りのペットボトルをさげて歩いている人々に出くわす。ちなみにビールと水の値段はあまり変わらない。ウクライナでは時間がゆっくりと流れ、時間には比較的に無頓着だ。
最後に、食生活について一言。ウクライナの人は、とても塩辛いそして甘い、脂濃いものを食べる。昔からの習慣で、サーロ(ラードのこと)という豚の脂身を塩漬けにしたものを好んで食べる。スーパーではバカでかいケーキを売っているが、みんな次々と買っていく。そのせいかどうか平均寿命も日本と比べるとみじかい。ゴリールカ(ウクライナのウオツカ)、ボルシチもウクライナ人の好物である。
U.ウクライナの印象
クリミヤの憲法は、ウクライナ最高会議の承認が必要である。しかし自治共和国でウクライナでは特異な位置を占めている。国語法ができて他はウクライナ語が公用語であるのにクリミヤだけがウクライナ語とロシア語が公用語となっていてロシア人も多い。定年後の裕福なロシア人の移住地ともなっている。そのクリミヤに2003年の夏に行った。ヤルタ会談の行われたリヴァーディア宮殿、ツバメの巣、チエホフの館、オルロ−フの館などを巡った後、バスでオデッサに向かったときにウクライナの大地のすばらしさ、豊かさに思わず目を見張る思いがしたものだった。地平線の彼方までつづく金色に輝く小麦畑。ポピイ、デージー、ラベンダーの花が咲き乱れ、果てしなく続く大地があった。二毛作のひまわり畑のスケールの大きさもそうであった。黒海の緑青色、黒海に沈む日没の風景も格別であった。そう言えば、ウクライナの旗は、空の青と小麦畑の黄色の2色からなっているし、ソフィアローレンの映画「ひまわり」もウクライナで撮影されたものだった。
このようにウクライナが黒土地帯の豊かな自然と大地にめぐまれていながら、どうして政府や市が資金難をかこち、国民がそれ相応の暮らしをしていないのか、それが不思議でならなかった。しかもヴラディーミルの丘で咲き乱れるリンゴの花の写真をとっていたキエフのある大学教授の話では、ウクライナは4つの問題を抱えているとのことであった。1.道徳的退廃、деморальзация, 2.生態系、экология, 3.宗教、лелигия, 4.エネルギー、энергияの問題である。この教授は持っていたキャノンのカメラを自慢し、日本人に尊敬の念を抱いていたことも印象的であった。
V.ウクライナの現状
1.豊かな自然と国民生活のギャップ
ウクライナの豊かな自然ときびしい生活の現実のギャプ。どこに原因があるのだろう、いったい何故なのだろうとウクライナ人に聞いてみた。「それはロシア人の尻拭いをしてきたからさ」という答えが返ってきた。
2.大統領選挙とオレンジ革命
ところが、キエフへ来て2ヶ月もたたないうちに、幸運なことに、オレンジ革命に居合わせることになった。
大統領選挙の投票が10月26日に行われることになった。沢山の候補者が立候補していたが、現首相のヴィクトル・ヤヌコーヴィチと前首相のヴィクトル・ユーシチェンコの対決となった。第1ラウンドの結果は、ユーシチェンコの得票が11125395票(39.87%)、ヤヌコーヴィチが10969579票(39.32%)。どちらも過半数に達せず、やり直しとなった。そして第2ラウンドの決選投票が11月21日におこなわれたが、事前の予想に反してヤヌコーヴィチの得票がまさる結果が発表された。すると2時間もたたないうちに、選挙の不正を察知した何万人ものジャーナリスト、学生、市民が独立広場に集まり始めた。地方からも列車やバスで続々と集まってきた。広場の周辺にはテント村(палаточный городок)ができた。7千人の若者が親衛隊のように寝泊りするようになった。かれらの腕にはпораと書かれた腕章をつけていた。広場はオレンジの旗一色で埋め尽くされ、雪の降る零下15度にまでさがるこの独立広場で、ユーシチェンコやウクライナのジャンヌダルクを自称するチモシェンコ、さらには有名歌手まで加わり、連日連夜集会がおこなわれ、その数は、延50万人にも達した。ウクライナの将来のためにとの 思いを抱いて子供をつれて地方からやってきた父親、「とうとうこれでウクライナも民主主義の国になれる」、「マイダンはヨーロッパだ」と興奮しながら語る若者たちや女性の目の輝きは、忘れえぬ光景として脳裏にやきついている。
電波の割り当てなどで締め付けを行っていたこともあって、国営テレビをはじめとして、ほとんどのテレビはヤヌコーヴィチの宣伝をおこなっていた。ユーシチェンコ陣営の集会の模様を放送していたのは、第5チャンネルだけだったが、国民の抗議行動がたかまるにつれて、ジャーナリストも抗議、終盤戦では、キエフテレビをはじめ国営テレビ、インテル、「1+1」などの各チャンネルもユーシチェンコの選挙戦の模様を放送するようになった。
やがて、ヤヌコーヴィチの牙城のドネツク州などでの100%以上の投票率、中央選管の電算機不正操作などの不正が次々と明るみに出てきた。12月3日に最高裁判所が6日間におよぶ審議の結果、不正による選挙と断定、無効の決定を発表。最高会議も同調、ユーシチェンコの大統領当選が確定した。
しかし、この選挙の成り行きは、周辺諸国にとっても重要関心事で、国際的に大きな意味を持っていた。ロシアのプーチン大統領は、第1ラウンド、第2ラウンドの投票前に2回にわたってウクライナを訪問、国営テレビにも出て、あからさまにヤヌコーヴィチの肩入れをおこなっている。西側を代表してポーランドの首相も精力的な動きをみせていたことも事実である。
第2ラウンド後、クチマ大統領、ヤヌコーヴィチ、ユーシチェンコ、リトヴィン最高会議議長による4者会談がおこなわれ、ユーシチェンコの大統領承認、選挙法の改正、大統領権限の縮小などが話し合われたようである。こうしてようやくユーシチェンコ大統領が誕生した。この選挙結果にロシアは2006年3月の議会選挙で巻き返しをはかることを誓ったといわれている。
この選挙は一体どのような意味を持っているのだろうか。これを理解するにはウクライナの現状理解が必要である。
3.ウクライナの現実
ウクライナの人口は約4800万人。面積は60,4万平方キロメートルで、日本の約1,6倍である。ロシアと国境を接する東部の炭鉱、製鉄、機械製作で有名なハリコフ、ドネツク、ルガンスクの各州やドニエプロペトロフスク州などは、ロシア統一圏への加盟とロシア語の第2公用語化を主張している。かつてドネツク州知事であったヤヌコーヴィチはここを基盤にしている。他方、キエフ、ポーランドに近いリボフなどウクライナの西部は、ヨーロッパ志向が強く、民主化を強く望んでいる。ユーシチェンコは、ここを基盤としている。
もう一つの対立軸は、オリガールヒヤ、つまり政権とむすびついた寡頭独占企業と低賃金、低年金にくるしむ一般市民との対立軸である。ヤヌコーヴィチは、守旧派のいわゆるドネツク・マフィア、クチマ大統領一族の独占企業グループ、製鉄企業グループと結びついていた。それだけに不正をしてでも権力にしがみつこうとしたヤヌコーヴィチと現政権にたいする国民の怒りの炎がオレンジ革命となって現れたのであった。
元中央銀行総裁として1996年にキエフ・ルーシの貨幣単位であったグリブニャを導入し、インフレを抑えたユーシチェンコだけに、キエフの企業家、造船企業家などからの支援があったことは、事実であるが、彼は一貫して国営企業の再民営化、民主化、EU加盟を唱えていた。
さらに、選挙と相前後して、クチマ政権を批判したために暗殺されたと言われるゴンガーゼ記者の真相をめぐる記事が新聞をにぎわしていた。運輸大臣の自殺、ユーシチェンコ大統領のダイオキシンによる暗殺未遂も民衆に大きなショックを与えていた。
4.国会議員選挙
2006年3月26日に46の政党・会派が450の議席を争う国会議員選挙があった。比例代表制で、3%以上の得票に議席が割り振られる。選挙の争点も大統領選挙のそれと基本的には変わるものではなかった。30日に最終結果が出た。それによるとヤヌコーヴィチの「地域党」が32,12%、「チモシェンコ・ブロック」が22,27%、ユーシチェンコの「我々のウクライナ」が13,94%、「ウクライナ社会党」が5,67%、「ウクライナ共産党」が3,66%の得票であった。
ユーシチェンコ大統領の「我々のウクライナ」は第3党となった。原因は、2005年9月におきた大統領府の安全保障担当ポロシェンコの汚職などによるチモシェンコ首相、ポロシェンコの解任、経済の低迷(DGPは04年には12.1%であったが05年には2.4%)にあった。そのうえ、ロシアから、冬のさなかの2005年12月に突然天然ガスを1000立方メートルあたり50ドルから220ドルに改訂するとの提案があり、供給停止などの騒ぎの末95ドルで交渉が妥結した。このロシアの圧力を劇場政治家のチモシェンコや親ロシアのヤヌコーヴィチは、それぞれ自党に都合よく利用したが、当事者であるユーシチェンコの党には、マイナス要因となった。ロシアの思う壺であった。
それでも、「チモシェンコ・ブロック」、「我々のウクライナ」、「ウクライナ社会党」などオレンジ革命当時の勢力を合せると243議席となる。「地域党」との大連立かオレンジの連立内閣かの選択に迫られ、交渉がながびいていたが、オレンジ革命当時の盟友のあいだで4月13日に1000ページにおよぶ政策の合意が成立し、合意書の調印がおこなわれた。
ガスの国際価格を振りかざすロシアに対してウクライナの方も、セヴァストーポリの軍港使用料、ケルチ海峡の通行料の改定交渉をせまっている。ソ連時代には、生産規模がロシアが70%、ウクライナが20%、他の13共和国が10%であった。現在対ロ貿易がウクライナの貿易輸出の18.7%、輸入が87.6%を占め、エネルギーに関してはその大部分をロシアの天然ガスに依存している。ウクライナには1000万人のロシア系住民が居住し、ロシアには約400万人のウクライナ人が住んでいる。とりわけ東シベリア・極東に多い。歴史的な繋がりも強い。
ユーシチェンコ大統領の言うように、ウクライナは、西とも東とも連携しながら、EU加盟を目指して民主化を続ける以外に道は開けないのかもしれない。
5.ウクライナの行方
70年間、計画経済、強権政治、官僚主義のなかにあって、市場経済、市民社会の経験のなかったウクライナ。いまだにチェルノーブイリの後遺症に苦しむウクライナ。それでもわが国が去年ロシアとウクライナに衛星の打ち上げをたのんだほどの高い技術力を持つ国であり、豊かな農産物に恵まれた国である。オレンジ革命は、まさに真の市場経済、市民社会、自立への移行のはじまりであった。キエフをはじめウクライナ西部の諸都市をオレンジの旗で埋め尽くした国民の力は、東部との分裂を避けながら、紆余曲折を経ながらも、民主化と市民社会の実現、EU加盟を目指して歩み続けるにちがいない。