バトル・ロワイヤル走り書き

 はじめにビデオでこの映画を借りてその後、原作を買って読みました。とにかく、今、自分が幸せで平和な国にいることに感謝。「バトロワ」とはいかないまでもこの地球上にはそれによく似た環境(例えば戦争中とか)にいる人だっているんだから、その人達の追い詰められた恐怖感、自分は明日にも死ぬかも知れないと考えなくてはいけないときが現実に来たら…恐ろしいね。
 「信じる」ことが難しいこと。川田君がいってましたけどね。話の中でもみんな友達を信じられなくて殺されてしまった。(原作では)第三の男、三村君も助けを求めた友達を信じられず殺してしまった。それを見た豊も三村を信じられなくなった。その隙に桐山に襲われて…。結局、お互いを最後まで信じきった3人だけがこのゲームをクリアできたのだということ。
 信じるのって、まず自分が相手を信じないとダメなんだなぁって。自分が相手を信じても、相手が自分を信じてくれないとこっちも嫌になっちゃうもんね。ただ、信じたいか、信じたくない人かということも複雑で、嫌いな人を無理に信じる必要は無いのかも。惨いことを言うが信じられる場合だけ信じる。
 さて、この映画と原作ではいくつか大きな所が変わっているんだけれどもその1つが先生で、映画ではおなじみビートたけし演じる「北野先生」・原作では「坂持金髪」(某ドラマのパクリ)で「坂持」は極悪非道なキャラに対して「北野先生」は謎多き先生でした。北野先生に関しては賛否両論でしたが私としては◎でした。
 今の時代に合っているキャラクターだと思いました。生徒に無視され、娘に馬鹿にされ、行き場の無くなった不安定な人間像。そのため(?)生徒たちを何のためらいも無く、殺したかと思えばやさしさを見せたり…。傘のシーンは残酷な北野にも、もうひとつの顔があるってことをうまく表わせていたんではないでしょうか。
 典子の見た夢の内容が映画では口ぱくなんだけど、別口(映画の特別編?)ではきっちり語られているらしい。
内容は…
字幕「レクイエム 中川典子と担任キタノの見た夢」
川原。アイスを頬張るキタノと典子
キタノ「いいのかよ。」
典子 「え?」
キタノ「こんなとこ見られたら、また便所に閉じ込められんだろ?」
典子 「(笑って)ああいうの順番だから・・・・」
キタノ「つまんねぇか、オレの授業」
典子 「(思わず)はい」
キタノ「なんだと・・・(笑って)授業で教室入ってくだろ?
    おまえらみんな同じに見えんだよ」
典子 「・・・・・・・・?」
キタノ「昔は殴ってるうち、だんだん違いがわかって可愛く
    なったんだ」
典子 「・・・・・・・・」
キタノ「今はダメだ。生徒に刺されても怒っちゃいけなくて、
    逆に殴るとこっちがクビんなる。いつまで経っても
    おまえら何考えてんのかさっぱりわかんなくてよ・・・」
典子 「・・・一つだけ教えちゃおうかな」
キタノ「なんだよ?」
典子 「やっぱやめよ」
キタノ「このヤロ」
典子 「(笑って)先生刺されたナイフね、実はあたしの家の机の引き出しにしまってあるの」
キタノ「(呆然)」
典子 「拾った時はどうしようって困ったんだけど。でも今じゃなぜか大切な宝物なんです」
キタノ「・・・・・・・」
典子 「秘密ですよ、二人だけの」
キタノ「・・・なあ、中川」
典子 「はい?」
キタノ「こんな時、大人は子供になんて言ったらいい?」
字幕 「こんな時、大人は子供になんて言ったらいい?」
 北野が唯一、典子にだけは心を許していたのがなんとなく理解できなくも無いような…。
 しかし、国信を殺してしまった北野を典子が許せるのか。いや許せないと思うんだけど、映画ではその結論がないままでしたね。
 役者、北野武として見たら、本当に、なんていうか、ものすごい存在感。底の見えない恐ろしく・悲しいものを秘めた「北野先生」を演じきっていました。なんて言うことの無い、一見ギャグのようなしぐさも凄く怖い。いやーこの人、本当にすごいですわ。
  映画中の学校のシーン(イジメとか北野の授業の集団ボイコット・先生への殺傷→そしてそれを生徒保護のため訴えられない現実)とかは今の現実でも十分起こっていることやなぁ。
しかし、原作は怖い。とにかく怖い。映画を先にみて大体のことが分かっているのもあるんだけど言いようの無い絶望感におそわれます。そしてその世界も怖い。こんな世の中は…、しかも日本と遠からず近からず、なのでやはり自分と照らし合わしてしまいます。
 R指定については…う〜ん。これは見る側の力量を問われる映画ですね。(自分に力量があるとは思えませんが…)少なからず、この映画で何かを感じられるかどうか。ただ、面白かった!とか殺人のシーン最高!!とかしか感じられない人は……チョット…。
「殺し合い」について。今までに無い妙なリアル感でした。殺される方・殺す方にも理由があって、本当は誰も死んで欲しくない、でも殺さないと殺される。いままでのエンターテイメント映画では簡単に人は殺されてしまう。殺された方は(たいていは悪役だからだけど)観客にはそこで無視。良い奴にとっての理論がまかりとおるし、それに自分も納得してしまう。人を殺したら主人公でも殺人者。殺された方にも人生があって家族があって、未来もあった。それをすべて奪ってしまう行為が殺人。そこのところをうまく表現していたんじゃあないでしょうか。一人殺してしまうことに愕然とする生徒(そうでないのもいたけど)。自分を呪って、自己嫌悪して、でも理由をつけて。……悲しいね。