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烏賊と電脳の綜合百科事典
烏賊の王様

烏賊に纏わる故事・諺・慣用句

故事

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『烏賊の由來』

亦、滝澤馬琴の『俳諧歳時記栞草』に『其の性、鳥を嗜(たしな)み自ら水上に浮かぶ。飛ぶ鳥、此れを觀て、死せりとし此れを 啄(ついば)む。即ち巻取りて水に入り、此れを食う。因って、烏賊(うぞく)と名附く。』と謂う話が載せられて居る。此れは、 烏賊が死んだ振りを仕て水面を漂い、此れを捕獲せんとして舞い降りて來る鳥を逆に捕まえて食すと謂う策略で、『南越志』と謂 う古書からの引用で有るとの断書が有る。

猶、『漢字百話−魚の部』には『何故烏賊かと謂えば、中國の古書『南越志』に、烏賊が水面に浮かんで居ると、烏が死んで居る 者と思い啄みに來る。然うすると、烏賊は拾本の脚で烏を巻き取り、水中に引き入れて食べるので、烏を賊害する者と謂うイソッ プ物語の様な、全くイカがわしい説で有る。』と記述されて居る。

烏賊には非常に多くの種類が存在し、其の習性は様々で有るが、殆どは肉食(主に動物性プランクトンや小魚等)で、死亡して海 面に浮遊する烏の肉を食する可能性は有る。事実、乘船して居た頃、船の灯りに集まって來た烏賊(アカイカ)が、海面に浮漂す る殘飯の鷄肉に喰い附いたのを実見して居る。併し、『俳諧歳時記栞草』に記述されて居る様に、烏賊が死んだ振りを仕て水面を 漂い、此れを捕獲せんとして舞い降りて來る鳥を逆に捕まえて食すと謂う様に、生きた鳥を捕獲して食すと謂う様な事は、実見し た事も無ければ、信頼の置ける実見記録等にも記述が無い。勿論、烏賊の總てが解明されて居る譯では無いので、斷定は出來ない が、現在解明されて居る烏賊の能力から考えても、有り得ないと思われる。亦、沖合性の烏賊と内陸性の烏が遭遇する機会は先ず 無いと思われる。烏賊は、自分の躰長よりも遙かに大きい獲物にも喰い附く獰猛性を有し、亦、鳶(とんび)、鴉(からす)と呼 ばれる鋭い口(顎板)を有する爲に、猛禽で有る烏さえも食すのでは無いか考えられたと謂うのが真相だと思われる。

『ステレンキョウ』

觀た事も無い珍しい魚が獲れたので、代官が『此の魚の名前を知って居る者に褒美を出す』と御触れ出すと、一人の漁師が、代官 の處に出頭し『此れはテレスコです』と答え、褒美を手に仕た。後日、代官の處に同じ魚を干物に仕た物が持ち込まれたので、再 び名前を問うと、其の男は『此れはステレンキョウです』と答えた。同じ物なのに何故名前が異なるのかと激怒した代官が男に死 罪を申し渡すと、男は息子に遺言した。『息子よ、努々(ゆめゆめ)烏賊の干物を鯣(するめ)と謂うでは無いぞ。』

此の話には續きが有る。男の女房は神佛に日參し、無罪を祈るが、御上を僞った罪で打首の刑を申し渡された男が、女房との最期 の別れの時、息子へと上記の遺言を殘した處、此れを聽いた代官が『烏賊を干すと鯣と謂う様に、同じ魚でも干すと名前が變わる のか。從って、テレスコの干した物はステレンキョウ。』と納得し、此の頓知に依り、男は放免されたと謂う。

一匹の魚でも、呼び名が色々と變わるのは良く有る事で有る。所謂出世魚の代表で有る鰤(ブリ)は、成長に聯れて、關東地方で は、ワカシ→イナダ→ワラサ→ブリ、關西地方では、モジャコ→ツバス→ハマチ→ブリ、九州地方では、ワカナゴ→ヤズ→コブリ →ブリと成る。鰤以外にも出世魚は、黒鯛(クロダイ)、鱸(スズキ)、鯔(ボラ)等が有る。亦、身近な處では、稲が米と成り、 更に、御飯と成る例も有る。

『烏賊がいっぱい』

昔、引砂(ひきすな)の三右衛門さんが、烏賊一匹賈うて來て、村に行ってや、『おおう、おらあ烏賊いっぱい賈うて來た來たさ かいに、皆んな担(かず)きに來いやあい』って謂うたら、村の者なあ皆んな桶担(かた)いで走って飛んで來たと。處が行って 觀たら、烏賊一匹しか居らん。『おお、烏賊いっぱいや』と謂う話。

此れは『引砂の三右衛門頓知話』と謂われる奥能登地方に最も広範に好んで伝承されて來た笑話の一で有る。引砂は珠洲(すず) 市三崎町に在る集落で、三右衛門は実在の人物と信じられて居り、能登の人気者、戯(おど)け者、發明家、頓知に長(た)けた 小男で有ったと謂われ、人々に親しまれた奇人で有ったと傳えられる。