以前NHKがスルメイカを主役に仕た『日本海大回遊』と謂うドキュメントを放映した。此れは烏賊と謂う無脊椎動物が、魚並み
に大群を成して日本列島の西或いは南から北へ大回遊すると謂う驚異からの題名で有ったと想像されるが、豫想外の副産物が得ら
れたので有る。其れは雌烏賊『花子』の産卵で有る。
アオリイカ等沿岸性種の卵を觀るのは容易(たやす)い。一寸ダイビングの出來る人なら、白い莢豌豆の様なアオリイカの卵や、
蛙の卵を思わせる様なヤリイカの卵を觀る事が有る。亦、テレビの映像に屡々登場する大型のコウイカ類コブシメが、珊瑚礁で雄
に見守られ乍ら産卵する場面も珍しく無い。併し、外洋を大回遊するスルメイカの卵の本当の姿は、上記の特集番組迄知られて居
なかったので有る。
スルメイカ漁は、今でこそ下火に成って居るが、昭和40年代(1965年頃)には、年間で凡そ70萬屯と謂う大豐漁の時が有
った。此れを尾數に直すと凡そ20億尾ものスルメイカが獲れ、猶且つ海の中には翌年の資源回復を支える物が殘って居た譯で有
るが、斯んなに大量に獲られる最も一般的な烏賊の卵を誰も觀た事が無かった等信じられ無いと思うかも知れ無い。スルメイカに
關心を持つ研究者が怠けて居た譯では決して無い。海からの生産物を安定供給する爲に、其の生物の一生が解らなければ成ら無い
のは自明の理で、水産畑の先達々は此の點にも最大の勞力を費やして居た。
嘗て日本海區水産研究所の所長を務められた濱部基次博士も其の一人で有る。博士は、1962年頃、島根縣の隠岐で、成熟した
雌を樽の中に入れて海中に沈めて置き、其の中で卵を産ませる事に成功して居る。併し、其れも幽閉の身で狭い場所での御産の所
爲か、正常な状態とは思えず、其れ以來多數の人が、スルメイカの産卵場所では無いかと思われる海底を浚(さら)い、亦網を曳
き廻して努力を重ねたが、誰一人成功を収め無かった。處が、カナダの研究者がスルメイカの姉妹種とも謂える『マツイカ』を飼
って居た處、偶然水中に浮かぶ直徑50糎位の寒天玉状の卵塊を産み出したのを見附けた。其の形状と謂い、大きさと謂い、濱部
博士の豫見と一致する物で有った。
扨て、『花子』の話で有る。此のスルメイカの卵は、直徑1米を超す大きい寒天玉で、中には數千箇の卵が鏤(ちりば)められて
居たと謂う。一匹の雌から生産される物と仕ては想像を絶した巨大な物では有るが、極めて緩く、手で持つ事は疎(おろ)か、バ
ケツで一部を汲み出しても、一寸仕た攪亂でバラバラに成って仕舞う物で有った。此れでは、何んなに網を曳き廻しても、海底を
引っ掻いても、原形の儘採れて來る筈が無い。
併し、莫大な國家豫算や縣費を用い、船を動かし、実驗設備を整え、科學的根拠に基づいて研究者が努力しても捗々(はかばか)
しい成果の得られ無かった物が、テレビマンに依り解明され、難解な學術的報告を跳び越え一挙に茶の間の情報と成って入った事
は、如何にもマスコミ優越の世の中を象徴して居まいか。
外洋性の烏賊の卵は、スルメイカ以外の物でも碌に解って居ない。現在、日本を含む北西太平洋からアメリカの西岸に至る迄の廣
大な水域を漁場と仕て居るアカイカ(市場名はムラサキイカ)の産卵場も、卵の様子も沓(よう)と仕て掴めて居ない。此の烏賊
は、元々スルメイカと混獲されて居たのだが、馬鹿でか過ぎて『バカイカ』の別名迄奉られ、餘り顧みられ無かった。併し、スル
メイカの凋落と共に、俄に脚光を浴びた。其れでも初めの頃は、生鮮ではスルメイカに比べて一段と硬く、釣ろうにも重いので釣
絲は切れる、然うで無ければ自分の重さで腕が切れる等、孰れの面からも餘り芳しく無かった。併し、一旦裂烏賊(さきいか)の
加工法が『ムラサキイカ』向きに改良された途端、需要が伸び、其れではと釣りより大型の物が譯無く獲れる刺網(流網)に代わ
り、瞬く間に漁場の太平洋を横斷する迄に擴がった物で有る。
巨大な物は5瓩を超えるが、此れは總て雌で、小振りの雄は網の目を濳り抜けて仕舞う。其の爲、斯んなに大量に雌許り選択的に
捕獲して、次の世代の生産に響くのでは無いかと憂える聲も有る。亦、此の漁は公海上なので200浬經濟水域の制約は無いが、
太平洋の西から東迄、密に仕掛けられた刺網に、目的の『ムラサキイカ』丈で無く、貴重な海獣等も懸かるのでは無いかと謂う自
然保護的な監視の眼も光り、遂にモラトリアム(一時停止)に追い込まれたと謂う經緯も有る。
兎も有れ、果ては麦酒の肴や輕食に成る『ムラサキイカ』は、黒潮や其の南方の謂わば常夏とも謂える暖海で産まれ、産卵準備の
榮養を蓄える爲、寒流との境目の餌の豐富な處に集まって來る事が解って居る。併し、餌を充分に摂り、卵は熟し、亦雄からは來
る可き産卵に備えて精子を聢り預かる處迄は解って居乍ら、卵を何處で何んな形で産むかは確かめられて居ない。多分、陸上から
遣って來る人間の迫害の手を逃れ、廣漠たる青い海の帳(とばり)に包まれる事に依り謎を明かすまいと仕て居るのでは無いだろ
うか。
時々日本海等で獲れて『刺身100人分!』等と報道されたりする大型の烏賊が居る。ソデイカと謂うが、日本海側では『タルイ
カ』と綽名したり仕て居る。大きい物は、外套長(胴長)80糎、目方は20瓩にも成る。此れはアカイカ同様、暖流域に棲息す
るが、此の卵は、スルメイカの大玉状とは異なり、巨大な寒天ソーセージで有る。長さは2米、直徑30糎位で、中には卵が螺旋
状に配列して居て、ふわふわと海の表面近くに浮いて居る。卵の發生が進んで來ると、中に烏賊らしい雛形が出來て來るから解る
と思うが、然うで無いと魚の卵塊か、別の生物かと見紛う許りで有る。現に可成り著名な外國の出版物に其の冩眞が出て居て『サ
ルパ(原索動物)の一種』と説明が附けて有った。
此の様な外洋種の卵の數は恐らく天文學的數字に上るで有ろうが、親に成るのは、何千、何萬分の一。其れでも烏賊釣りの実況を
觀ると、豐漁の時等海の底に烏賊を作る工場が有るのかと錯覺する程次から次へと釣り上げられ、亦網にも懸かる。産まれた子供
は、天然自然の食物聨鎖の中で程良く喰われ、程良く生き延び、然して次代を作る循環が有る。陸から猿臂を伸ばして其の鎖を斷
ち切って仕舞う人間は、獲る方法に此れ丈の精緻な技術を發達させたのだから、自然の均衡を保ちつゝ海の幸を享受する叡智をも
働かせなくては成ら無い。