烏賊の分類と各論 |
アオリイカ:水中冩眞の名優
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アオリイカのアオリは泥障の字を當てゝ居る。此れは、武者繪等を觀ると解るが、馬の鞍の下に敷く楕円形と謂うか亞方形の毛布 の様な物、詰まり泥除けを謂った物らしい。貝にもアオリガイ(泥障貝)と謂うのが有る。
鰭が楕円形に近い處から、アオリイカの地方名は、殊更其の形からの物が多い。バショウイカ(芭蕉烏賊)、クツイカ(靴烏賊) 等は其の代表的な物で有ろう。其れとは別に、生態的な名前も有る。海藻に卵を産み附ける處を觀てか、モイカ(藻烏賊)、亦、 透き通る様な姿からかミズイカ(水烏賊)と謂う呼び名も有る。
此の様に、アオリイカは、コウイカの仲間では無く、形は大分違うが、ヤリイカやケンサキイカの仲間で有る。其の素性は、卵を 觀れば解る事で有る。即ち、コウイカの仲間は卵を一粒宛ばらで産み附け、其れに砂を塗(まぶ)したりする性質が有る。其れに 引き替え、ヤリイカやケンサキイカは、丁度人の指位の太さ、長さの寒天質の袋に入れた卵を産む。紐状に成ら無いにせよ、一寸 蟾蜍(ひきがえる)の卵を聯想させ無くも無い。アオリイカは、同様に指状の卵を産む。其の袋の中には平均9乃至11箇位の大 きな卵が入って居る。凡そ200箇位入って居るケンサキイカ、數拾箇入って居るヤリイカと比べると數は可成り少ないが、基本 的構造は變わら無い。
産み立ての卵の袋は文字通り指状で有るが、中で卵の發生が進んで來ると、寒天質の袋が痩せて來るのか、中の卵が一箇々々はっ きり膨らみを見せ、恰も莢豌豆を思わせる。中から孵(かえ)って來るアオリイカの子供は、烏賊の子供の中でも特別大きい方に 属する。胴長6粍も有ろうか、腕を入れると1糎近くにも成る。而も、色素胞と謂う色の粒も密に在って黒っぽく、随分聢(しっ か)り仕た子供で有る。因みに、ヤリイカでは3粍、スルメイカでは1粍、共に色素胞も碌に無い赤ん坊だから、アオリイカの孵 化し立ての子供が如何に聢り大きいかが解るで有ろう。併し、子供の時は、彼の様に大きい鰭は未だ發達して居らず、躰の後ろの 方に申し譯程度に在るに過ぎ無いが、觀る觀る前方に向かって伸び、体長が2糎位に成ると、大体丸い鰭に近附いて居る。幼い内は、海の表面に漂うが如く、多少躰をくの字に曲げて、丸でアジモや海藻の切れ端の様に、三々五々小さな群を作って居る のが普通で在る。躰には縦筋と斑な横縞等を作って、一寸觀には何方が前か後ろか解ら無い様な姿勢を取って居るのも、生まれ乍 らの防衛本能に基づく擬態かも知れ無い。更に成長すると、今少し數を増やして、時には横一列、或いは途中で折れ曲がったへの 字型等、一寸雁の群を聯想させる様な隊伍を組んで居る。
併し、大型に成ると、交接の機會以外には比較的離れ離れの生活を仕て、小隊は組むが大群には成ら無い。前述した様に海藻に好 んで卵を産みに來るから、海藻成らずとも陸上の木の枝を切って海中に沈めて置くと、卵を産みに寄って來る。其れを釣り上げる のが『烏賊柴』漁と謂うので、單に浮遊物の物陰を好む性質を利用した『しいら漬け』とも亦違う柴漬け漁法で有る。アオリイカを釣るには、亦特別な仕掛けが要る。強力な狩猟者と成ったアオリイカの成体は蝦(えび)の様な好餌を狙うからか、 アオリイカの釣針は蝦の型に似せた擬餌針と成って居る。此れを『餌木』と称し、南西日本で用いられた其れは『薩摩餌木』と呼 ばれ、古來土地の漁師が様々な工夫を凝らし、一種の藝術品にすら高められて居る。其のコレクションが色彩図鑑に成った程の見 事さで、古式床しい物は、堅木を削って作った蝦の造形に獨特の文様を施し、錘(おもり)の代わりに四角い穴の開いた永樂通寳 風の古錢が用いられて居る餌木等、其の時代の漁師魂と磯風の匂いのする漁民藝術の粋を感じずには居られ無い。現代は大量生産 型の金属とプラスティック製の餌木で有るが、其れでも部屋飾りに仕度い位に好ましい。
アオリイカは、沿岸性の烏賊と仕ては、分布が最も廣い物に属して居る。日本では北海道の北半分以外總ての地方に分布し、南は 東南亞細亞を經てオーストラリア迄、西は印度洋、東はと謂えばミクロネシア、メラネシアを經てハワイに迄居る。處が、斯んな 廣い地域、假令島傳いとは謂え遺伝子が擴がるには廣過ぎは仕無いかと謂う疑問が湧く。現に沖縄では、ホルマリン漬けで觀る限 り全部同じに觀えるのに、土地の漁師は何と『赤いか』『白いか』『ぐわいか』と三種にも分けて居る。水産の領域では科學者が 解った様な顏を仕ても、永年海と共に暮らした漁師の經驗學には適わ無い。此れ迄も、如何に多くの學説が古老の知識をヒントに 開發されたか判ら無い。 其れ故に、沖縄の漁師の、アオリイカは一種では無いと謂う主張には、慎重に對應せ非るを得ない。亦、石垣島での觀察に依ると、 現地には海藻や鹿角珊瑚の枝等に好んで卵を産む極く普通に振る舞うアオリイカの他に、海底に覆い被さった様に伏せて居るテー ブル珊瑚の死骸の下に祕かに卵を産む異能のアオリイカが居ると謂う。而も、海藻や枝珊瑚に産むのは一袋に平均六箇の卵が入っ て居て、露出して居ても魚に喰われる事無く波に揺られて居ると謂うのに、テーブル珊瑚の下に産み附けられた物は几帳面に一袋 に卵二箇と定まって居り、テーブル珊瑚をひっくり返しでも仕様ものなら直ぐ様貪慾な魚に襲われて仕舞うひ弱さで有る。一体此 の様な卵を産む烏賊と海藻に産む烏賊とは同一種なのか、別種なのか、更に謎は深まる許りで有る。