魚食民族で有る我等日本人は、同時に烏賊食民族でも有る。勿論、漁獲量も輸入量も消費量も世界第一位で有る。因みに、世界の
魚介類の總水揚量は凡そ7500萬屯で、其の内13%に當たる約1000萬屯が烏賊で有るが、更に其の45%は日本が獲る。
次いで韓國、台灣、スペイン、ソ連、ポーランド等で、年々順位は多少變動して居る。
魚通の人でも、魚に關しては、黒鮪(くろまぐろ)とか、石鰈(いしがれい)とか、眞鯛(まだい)とか、一種々々を結構區別し
て論じる事が多いのに、烏賊は總じて烏賊と仕て扱う傾向に在る。併し、烏賊にも、魚には負けるが、30數科、凡そ450種も
の種類が有り、一宛生活様式にも味にも個性が有るので有る。
食膳に上る物丈でも、大雑把に觀て所謂『烏賊の甲』を持つコウイカ類、ケンサキイカ・ヤリイカの類、及びスルメイカの仲間の
三通りに分けられる。烏賊好きの日本人に限っては、其の孰れにも入ら無いホタルイカとかドスイカ等の變わった烏賊も食べて居
るが、主流は前記の三郡と謂う事が出來る。
コウイカ類では、最も知名度の高いのは『モンゴウイカ』で有ろう。寿司屋でもモンゴウイカは高價な部類に属す。併し、其の実
体は複數種を指して居て、丸の儘の形を見せられ無ければ、握りの上の一切れの正しい種を謂い當てる事は難しい。
本來『モンゴウイカ』の名は、南西日本で漁獲される巨大種カミナリイカの方言名で有った。カミナリイカは、普通のコウイカ(
釣人は『すみいか』と謂い、地方に依り『はりいか』とも『まいか』とも呼ばれる)とは異なり、脊中に黄縞丈で無く、丸に一の
字を描いた様な紋が有る處から『紋の有る甲烏賊』詰まり『紋甲』と呼ばれて居た。
處が、昭和40年代(1965年頃)、未だ200浬經濟水域の設定前、アフリカ大西洋岸に日本漁船が大擧して出漁し、其處に
分布する大型種ヨーロッパコウイカを大量に水揚した時、『モンゴウイカ』の名前は其方の方に移動した。然して更に、後年、ア
デン灣附近のトラフコウイカ資源が開發され、此れ亦巨大な同種が市場に現れると、此れを『アデンモンゴウイカ』と称し、『モ
ンゴウイカ』は恰も海外の大型コウイカ類を指すが如く成って來た。此の頃、輸入統計の品目中に『モンゴウイカ』が設けられた。
アフリカ漁場、アデン漁場共下火乃至全く漁が無く成った處へ、今度はタイ等東南亞細亞から、大型種丈で無く中型や小型のコウ
イカ類が入って來た。東南亞細亞は日本の海續きで有るから、此の中には元々海外物の『モンゴウイカ』と區別されて居た日本に
も産するコウイカ、カミナリイカ、其他の種が含まれて居る。斯う成ると、税關や輸入關係者は、只でさえ実体の混亂して居る『
モンゴウイカ』に、其等東南亞細亞種が入るのか否か大いに迷う結果に陷って居る。
然う謂う譯で、昔食べて居た『モンゴウイカ』は九州邊りで獲れて居たカミナリイカ、1965年前後ならアフリカ沿岸のヨーロ
ッパコウイカ、然して其の後はイエメン沖邊りのトラフコウイカ、現在は多分東南亞細亞の同じトラフコウイカかカミナリイカか
と謂う具合に成るかも知れ無い。
釣人はコウイカの事を『すみいか』と謂う。其れは死ぬと墨袋の括約筋が弛んで、袋の中の墨汁がだらだらと出て來るからで有る。
コウイカの仲間の属名(ラテン語)をセピアと謂う。從って、コウイカの墨は本當のセピア色、即ち眞黒で、美術の方で想像する
様な『セピア色』では無い。
死んで筋肉が弛み出て來るのは墨丈では無い。触腕と称する特別に長い二本の腕もだらりと出て來る。触腕は他の八本の腕とは異
なり、裸の柄の部分と、吸盤がびっしり並んだ小判型の謂わば『掌(てのひら)』の部分から成って居る。コウイカの場合、触腕
は用事の無い時は眼の下の丁度頬の様な場所に在る窩(ポケット)に畳み込まれて居て、丸で『含み綿』を仕て居る様に觀える。
餌が近附くと矢庭に触腕を窩から伸ばして、恰も射るが如く眼にも留まらぬ早業で餌を捉える。其の正確さは百發百中で、測距の
正確さも驚く許りで有る。遠ければ触腕の届く至近距離迄忍び寄り、餌を眞正面から觀て捉える。
得て仕て下等な動物は、餌を眼よりも触角等で探知するが、烏賊は然うでは無い。其の証拠に活きた海老等を透明な瓶に入れて海
底に沈めて置くと、コウイカは瓶の外から触腕を射る様に伸ばす。強かに触腕を硝子に打ち附けても、執拗に攻撃する。蛸で有れ
ば、コルク栓位なら開けて仕舞うが、コウイカは其處迄は出來ない。痛む触腕を抱えて攻撃を止めるのが落ちで有ろう。
烏賊は、漢語で墨魚とか柔魚と書くが、日本では一般に烏賊と書いてイカと讀ませて居る。物の本に拠ると、其の理由は、烏賊が
死んだ振りを仕て海面を漂い、其れを烏が啄みに來ると、矢庭に腕を伸ばして其れを捉えるからだと謂う。勿論、今の世の中、然
んな漫画的な烏賊の捕食法を信じる人も少ないと思うが、或る意味ではトリックに富んだ烏賊の生態の一面を突いて居るのかも知
れ無い。
上記以外のコウイカの特徴は、俗に『エンペラ』と呼ばれる鰭(ひれ)で有る。ヤリイカやスルメイカの鰭は、菱形で躰の後方に
在って、俗に『耳』と称されて居るが、コウイカの場合、外套膜(胴体)の前から後ろ迄に亘って居て、活きて居る時にはひらひ
らと動き、何と無く『エンペラ』と謂う語感に合う。
烏賊の鰭は本来平衡噐(バランサー)なのだが、コウイカの仲間は『エンペラ』を煽って、結構推進力を得て居る様で有る。海底
に降り躰表に砂を懸けて姿を隠す時も、『エンペラ』を煽って砂を巻き上げる様子が觀られる。此の機能に附いては餘り良く研究
されて居ないが、優雅でリズミカルな其の動きは觀て居て飽きず、烏賊の繊細さを代表して居る噐官の一で有る。
コウイカ類の『甲』は學問的には貝殻で有る。元を質せば、烏賊類は巻貝や二枚貝と同じ軟体動物で有るが、重い貝殻を背負って
のろのろと這い擦り廻る貝類と異なり、重かった筈の貝殻を『浮き』に變えて仕舞ったので有る。生気溢れる内は、此の『浮き』
の制御に依り浮き沈み自由で有るが、産卵を終えたり、或いは病の爲か、一旦活力を失うと、コウイカ類は沈む事が出來なく成り、
此の『浮き』の爲に海面を漂う事に成る。
コウイカが死んでも甲は猶腐らずに海面を漂い續ける。不思議な事にコウイカは南北アメリカ大陸には棲息し無いのだが、海流に
依り流れ着いた甲丈は時々拾われて居た爲、アメリカにもコウイカが居ると謂う報告が昔は有った。勿論日本やヨーロッパ、アフ
リカの沿岸等、元々コウイカ類の棲息する地域に甲の漂着は多く、此れが幾千年積もり積もって出來た烏賊の甲の化石が、マドロ
スパイプの素材と仕て珍重される海泡石(かいほうせき)なので有る。