第4回 教育の有る可き姿

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昨今提唱され実施された許りの感の有る『ゆとり教育』が、早々に見直され、新學習指導要領が検討されて居るとの事です。當り前の事でせう。元來『ゆとり』とは、餘裕や餘力を意味し、此れは、何かを『遣った』者に與えられる特権です。即ち、何かを『遣り遂げた』者が、其の經驗や技量に依り、解決法が解り、亦、解決する能力を有するが故に、自然發生的に生じて來るのが『ゆとり』と謂う物です。何も仕無い内から『ゆとり』が生まれる譯が有りません。『ゆとり』を持たせる爲には、先ず、如何に『遣らせる』かを考える事が先決です。

世に『三昧』と謂う言葉が有ります。『放蕩三昧』の様に、負の意味で使用される事も有りますが、本來は、心思を一事に集注して動かさず、心氣を靜寂に仕て亂さ非る事を謂います。即ち、物事を夢中で勤めると謂う事です。元々佛教の修行に用いられる語ですが、佛教の修行に限らず、何事も『三昧』に成らなければ、上達は覺束無い物です。其處で、本來の『ゆとり』を持たせる可く、如何に『三昧』に導くか、此れは、教育する側の問題でも有ります。

此處で、『教育とは何か』と謂う命題を避けて通る譯には行かなく成ります。教育とは、教育に携わる者、其れは、『先生』と呼ばれて教壇に立つ者而巳成らず、企業等に於いて後進を指導する立場に在る者等、何等かの形に於いて教育に携わる者、須く、一家言を有する永遠の論題と思われますが、此處では、素直に字句通り『教え育む』と謂う觀點から、此れを考察して觀度いと思います。

教育と謂う語句の内、『教える』と謂う事は、常に『優しさ』を伴う物とは限りません。優しく『懇切丁寧』が常に正しい方策で有るとは謂えず、時には、嚴しく『突き放す』と謂う事も必要とされます。併し、教育は、『教える』事よりも、『育む』事に重點を置き、其れを究極の目標とす可き物で有る筈です。即ち、『優しく教える』にしろ、『嚴しく教える』にしろ、結果的に『育む』事が出來なければ、其の教育は、失敗で有ると謂えます。換言すれば、育む可き人間を『潰して』は、如何に高邁な教育理念を振り翳しても、其れは『繪空事』又は『自己辯護』で有り、到底、教育と仕て成立しません。

私は、教育とは、自己の知得した物を傳授し、自己の水準に到達させる事で有ると考えて居ます。先人の業績を踏襲し、其處から新しい物を産出する事で、人類は進歩して來たのです。若し、人間が、一代限りで、其の經驗を繼承する事が出來ないなら、火星に探査車が到達する事も夢物語でしか無かったでせう。否、火星に到達する事は疎か、火星の存在すら知り得なかったかも知れません。從って、經驗の繼承こそが、實務的な觀點から觀た教育で有ると謂えます。

同時に、其處が、教育の到達點でも有ります。既に自己の水準に到達した者に、更に『教育』する事は出來ません。私は、常々、講義中に、『迅く私の處迄來なさい』と謂います。尤も、其の後で、『併し、貴方達が、私の處迄來た時には、其の間に、私は、更に先に進んで居ますので、永遠に私を追い抜く事は出來ません』と付け加えます。此れは、『アルキメデスと龜』と謂う有名なパラドックスですが、此れは、私が、追い掛けて來る人達と同じ速度、又は、其れ以上の速度で、前進し續ける限り、眞實と成ります。

他人を『教育』すると謂う事は、自己も常に前進し續けると謂う『覺悟』が必要です。其れが無ければ、現實問題と仕て、真面目に教育すればする程、自己の地位を危うくする事に成ります。然して、『育む』可き者が、自己を脅かす存在と成れば、『潰し』に懸かると謂う最惡の事態を引き起こす事にも成り兼ねません。然う成らない爲には、『自分を乘り越え、大きく羽撃いて慾しい』と心底謂う事の出來る『安泰』の水準に到達す可く、常に研鑽する必要が有ります。

處が、此れは、案外、簡單な事です。教育する側も亦、『樂しむ』事です。教育する爲に『頑張って覺える』から、常に前進する事が苦痛に成るので有り、『樂しんで知れ』ば、自ずから常に前進する事に成ります。亦、教育する側が樂しまずして、何う仕て『樂しさ』を傳え、『樂しめ』と謂う事が出來るでせうか。其れが何故かは解らず共、親が歡んで居るのを觀れば、子供は嬉しく成り、亦、親が嘆いて居るのを觀れば、子供は悲しく成るのと同様に、教育する側が『樂しんで』居るか居ないかは、必ずや傳わります。

先ずは、自らが樂しみ、『役に立つ事』で有る以前に、『樂しい事』で有ると謂う事を傳える事が肝要です。即ち、習う者を仕て『此れ面白いですね』と謂わ使める事が、『教育』の原點で有ると謂えます。然して、其の『面白い事』が亦、『役に立つ事』で有る事を知れば、更に『樂しさ』は増幅され、自ずから『三昧』と成ります。技術の傳授に性急に成らず、先ずは、共に『樂しむ』事が、最終的に『育む』事に繋がります。其の意味で、『ゆとり教育』とは、教育する側にこそ、求められる物です。

其の上で、自らの經驗に鑑み、何が必要かを『精選』した良質のカリキュラムを作成する必要が有ります。其處には、發展の爲に不可欠の基礎・基本を徹底すると共に、知的好奇心を刺激する爲に必要な高度な内容をも織り込む必要が有ります。受講者が理解出來ないからと、高度な抽象的内容を削除すると、知的好奇心を刺激せず、畢竟學習意慾を喪失させ、何も修得せずに終焉する丈の結果を齎す事に成ります。詰まり、『教える』丈で、『育む』事の無い、目的を逸失した中途半端な『教育』に成って仕舞います。

高度な抽象的内容は、知的好奇心を刺激すると同時に、濳在知識の擴大と謂う効果を齎します。私は、講義中に、良く、此處で教えて居る事を『覺えろ』とは謂わず、斯う謂う物が有ると謂う事を『知る』丈で良いと謂います。其れを必要とする時、『知って』居れば、『調べ』たり『使う』事が出來、使えば『覺える』からです。『覺える』と謂う事は、『使う』事に依り、自然發生的に生じる物です。逆に、『知って』居なければ、『調べる』事も『使う』事も出來ず、『覺える』事も有りません。

勿論、初心者に對して、高度な抽象的内容に終始すれば、理解出來ず、挫折感丈を植え附け、逃避させる結果を齎す危険性は有ります。併し、『此れが何の役に立つのか』と疑念に陷り易い基礎・基本に『目的』を持たせる上で、絶對に必要な事です。當然、教育する側は、此等を熟知して居なければ成りません。高度な抽象的内容に具体性を持たせる事の出來る知識と經驗が、教育する側には要求されます。最も『研鑽』す可きは、教育する側なのです。