第3回 コンピュータ時代に即應した学習方法とは。

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前回、コンピュータは、『廿世紀の三大發明』に列す可き發明で有り、其の後の人類の活動や生活に多大な變革を齎した事を記しました。併し、果たして、大部分の人間は、其の變革に即應して居るでせうか。其の變革を享受し、『便利な道具』と仕て、使い熟し、有効利用して居るでせうか。逆に、時代に取り殘され無い様に、『餘分な事を覺えなければ成らない』と内心恨み乍ら、其の習得に四苦八苦して居るとすれば、其れは、學習方法に問題が有ると謂わ非る得ません。

『頑張って遣る』に仕ても、『樂しんで遣る』に仕ても、孰れに仕ても、『遣ら』なければ、何事も始まらず、何事も習得する事は出來ません。何事かを習得した人は、必ず『遣って』居り、何事かに於いて人より優れて居る人は、必ず人より『遣って』居ます。『天才とは、99%の努力と、1%の才能だ』と謂う、發明王トーマス・エジソンの有名な言葉が示す様に、何事も成就する爲には、何よりも先ず『遣る』事が大切で有る事は、古今東西、普遍の、然して、周知の事實です。

其れでは何故、何事かを成就し度いと慾して居るにも拘わらず、人は『遣る』及び『遣り續ける』事が出來ないのか。其れは『頑張って遣る』からです。『頑張って遣る』と謂う言葉の裏には、『本當は厭な事を無理に遣って居る』と謂う意味合いが含まれて居ます。此れでは、『遣る』又は『遣り續ける』事は出來ません。直ぐに、『遣ろうと仕て居たら、其の前に遣れと謂われて、遣る氣を無くした』等と謂う様な辯明を附けて、逃避して仕舞う事に成ります。

處が、誰しも、樂しい事は、時間を忘れて没頭したと謂う經驗が有る筈です。假令、誰かに『遣ろうと仕て居たら、其の前に遣れ』と謂われても、『遣る氣を無くす』處か、我が意を得たりと許りに『歡んで遣り始める』筈です。要は、『遣る』及び『遣り續ける』爲には、『頑張って遣る』では無く、『樂しんで遣る』事です。私が、廿年もの間、主たる職業でも、生活の糧でも無いプログラミングを續けて來られたのも、偏に『樂しい』からに他成りません。

併し、『樂しい』に絶對的な基準は有りません。要は、其れを遣る人が『樂しい』と感じれば、其れは『樂しい』事なのです。此の寄稿欄(コラム)の第一回で記した様に、殆どの人が、其の言葉を聽いた丈で顏を顰める『三角關數』や『微分積分』さえも、『孰れ役に立つかも知れない知識』では無く、『直ぐに役に立つ知識』と仕て、使用目的と使用方法を明確に知得した者には、新案を具現して下れる『樂しい』物なのです。此等が、『厭な物』に成るか、『樂しい物』に成るかは、其の學習方法に負う處が少なく有りません。

『覺える』と謂う事は、既に誰かが確立した物を擦(なぞ)って居るに過ぎません。端的に謂えば『二番煎じ』で有り、其處には『創る』愉しさが有りません。過去の遺産を受け繼ぎ、新たな物を産出する所謂『温故知新』の爲には、『覺える』と謂う事も、確かに必要な技術の一では有りますが、『覺える』事が總てでは無い事を銘記して置く必要が有ります。『覺える』事に終始すれば、何時迄も『創る』愉しさに辿り着く事が出來ず、餘程意志強固な人間で無い限り、挫折して仕舞う可能性が高く成ります。増してや、前回述べた様に、餘りにも廣範な情報を記憶する事等、不可能なので、行き着く先は『妥協』か『挫折』と謂う事に成ります。

因みに、此の記事を執筆するに當り、VB6の關數の數を調べて觀ると、130箇有りました。中には、Nper關數の様に、『定額の支拂いを定期的に行い、利率が一定で有ると假定して、投資に必要な期間を返す』と謂う、斯う仕たアプリケーションを作成する必要の有るプログラマ以外は、一生使用する事の無いと思われる關數迄有り、而も、『投資期間を通じて一定の利率』、『毎回の支拂額』、『現在の投資額、又は、將來行われる一聨の支拂い、及び、収益を、現時點で一括した場合の合計金額』、『投資の將來價値、又は、最後の支拂いを行った後に殘る現金の収支』、『支拂期日』と謂う、此の方面に詳しい人以外には難解な引數が5箇も有ります。

更に、VBには、關數以外に、數多くのメソッドやステートメントが有ります。若し、此等を、其の引數の意味や記述順を含めて、總て『記憶』しなければプログラムが組めないとすれば、果たして此の世に、プログラムを組める人が居るのか疑問です。併し、現實には、此等を總て『記憶』して居なくても、多くのプログラマがプログラムを組んで居ます。其れは、此等の事は、オンラインヘルプを觀れば、其の詳細が記述されて居り、『記憶』する必要が無いからです。

以前、情報は、書籍の中に在りました。百科事典を常に携帶する事は、不可能で、其れ故に、『知識』と仕て『記憶』する必要が有りました。併し、コンピュータは、然うした状況に變革を齎したのです。CD一枚に、百科事典にも匹敵する情報が格納され、今や、『知識』と仕て『記憶』して居ない情報を携帶する事が出來る様に成りました。亦、インターネットの普及に依り、情報を携帶する事すら必要と無く成りました。今必要とされるのは、到底不可能な厖大な情報を『記憶』する事では無く、其の厖大な情報の中から必要な情報を抽出する術と其れを活用して新たな物を創造する術なのです。

即ち、『覺える』と謂う事を最低限度に抑え、『創る』事に重點を置く事こそ肝要です。『記憶』する事に多大な時間と勞力を費やして疲弊する必要は無く、厖大な情報の中から必要な情報を抽出する爲の『キーワード』丈を記憶し、其の分『思考』する事により多くの時間と勞力を費やす事です。『思考』を必要と仕無い部分は『道具』で有るコンピュータに任せ、人間は『考える葦』で居續ける必要が有ります。其れが、眞の『IT』(情報活用)と謂う事に成ります。