第2回 コンピュータは人類の歴史に變革を齎した。

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世に三大發明と称呼される物が澤山有ります。殆どの分野に、其の分野に於ける三大發明が有るとも謂えます。例えば、無洗米と電氣炊飯噐とインスタントラーメンが『戰後の食の三大發明』、冷却機と低温加熱殺菌法と酵母純粋培養技術が『麥酒の三大發明』、条件分岐と繰返處理とサブルーチンが『プログラミングの三大發明』と謂う具合です。中でも有名なのが、黒色火藥と活版印刷と羅針盤の所謂『ルネサンスの三大發明』です。黒色火藥は騎士達を失業させ、其の壓倒的な破壊力で、歐州の力の優位を基礎附け、活版印刷は大量に仕て均質な複製情報を齎す事で、高度な情報システムを準備し、羅針盤は天体觀測等の技術と結び附き乍ら大航海時代の幕を開いたと謂う様に、其の後の人類の活動や生活に多大な變革を齎して居ます。

翻り、『廿世紀の三大發明』と呼ばれる物には、原子力とトランジスタとレーザー光が擧げられます。此等も亦、其の後の人類の活動や生活に多大な變革を齎して居ます。併し、此等に優るとも劣らない物に『コンピュータ』が有ると思います。尤も、コンピュータを三大發明の中に入れる爲に、前記の孰れを外すかと謂うのは難しい問題ですが、コンピュータも亦、紛れも無く、其の後の人類の活動や生活に多大な變革を齎して居ます。金融機關や航空會社のコンピュータの不具合に依り、業務に甚大な支障を來した、と謂うよりは、業務が殆ど停止した事は耳新しい話で有り、其れ程、コンピュータは、日常の業務等に浸透して居り、最早、業務等を遂行する上で不可欠の道具と謂う事が出來ます。

先日、事務所移転に伴い、サーバー設定の關係上、數日、インターネットの使用が出來なく成ると謂う出來事が有りました。コンピュータ自体では無く、其の一部機能が使用不可と成った丈の事ですが、多くの部署で、業務が円滑に進行しなく成りました。勿論、代替處理で急場を凌ぎ、大きな混亂を招くには至りませんでしたが、其れでも、多くの人間が不便を感じ、各自程度の差こそ有れ、業務が遅滯した事は事実です。此れが、一部機能では無く、コンピュータ自体で有れば、此の程度の遅滯では濟まなかったでせう。將に、現代社會のコンピュータへの依存度を再認識させられた出來事でした。

私は、常々、セミナー等で、『斯んな便利な道具を手に入れた人間は、最早、此の便利な道具を手放す事は出來ない』と謂う話を仕ます。更に、話は、『此のコンピュータと謂う便利な道具は、プログラムで動いて居る』と續き、最後に、『此れを維持し発展させる爲には、其のプログラムを作成する人間が必要だ』と謂う處に歸着します。勿論、此の亂暴な三段論法は、私の專門がプログラミングで有り、其れに興味を抱く人達を對象と仕た話の中での事で有る事を御斷り仕て置く。當然、ハードとソフトは、表裏一体で有り、プログラムの側から丈で、コンピュータを語る事は出來ない譯ですから。

今此處で強調し度い事は、『斯んな便利な道具を手に入れた人間は、最早、此の便利な道具を手放す事は出來ない』と謂う事です。例えば、現在の私達の生活に於いて、洗濯をするのに盥と洗濯板を使用する光景を視る事は、最早有りません。非常時に、此等の物が何處からとも無く持ち出されて來て重寳する事は有るかも知れませんが、非常時が終焉し、日常が戻れば、此等の物は、亦、何處かに片附け去られ、再び、全自動洗濯機に戻るで有ろう事は、想像に難く有りません。即ち、一旦、其の利便さを知れば、旧に戻る事は無いと謂う事です。

コンピュータも亦、便利な道具で有る事は、疑いの餘地は有りません。仕事から娯樂迄と、其の利用範囲の廣さに加え、日中、プログラム作成に、文書作成にと扱き使い、揚げ句の果てには、人間が寢て居る間に、デフラグさせて置くと謂う使い方を仕ても、文句も謂わずに仕事を熟して居る至便の道具です。相談に應じ、意見を聽くと謂う事こそ出來ませんが、命じた事には、確実に、且つ、迅速に處理する能力を有する道具の中の道具と謂う事が出來ます。

自然界に於いて、決して『強い』生き物とは到底考えられ無い人類が、所有ゆる氣候に適合して廣範囲に亘り分布し、遙かに『強い』生き物で有る猛獣等から保身して長期間に亘り生息し得たのも、偏に、道具を使用する事が出來たからです。亦、人類同士に於いては、大局を觀ると、相手より上手に道具を使い熟した方が、生き殘ると謂う事を、歴史が示して居ます。決して、保護されて生き長らえたので有りません。其の爲、『弱い』人間が、『強く』活きる爲には、道具を使う、道具を旨く使う、道具を旨く使い熟すと謂う事が必要と成ります。

コンピュータも亦、其れが必要とされる分野に於いては、道具と仕て、旨く使い熟す必要が有ります。コンピュータを旨く使い熟す爲には、最終的に、プログラミングの領域に足を踏み入れなければ成りません。如何に高機能なアプリケーションを旨く使い熟しても、其れは他人がプログラムした道を踏襲して居るに過ぎないからです。『使い熟す』と謂う事は、他が容易に眞似の出來ない領域、即ち、獨自の領域に達する事です。併し、此の事に附いては、稿を改めて考察する事と仕、此處では、先ずは、アプリケーションで有れ、プログラミングで有れ、廣義の『コンピュータを使える様に成る』と謂う事に的を絞り度いと思います。

コンピュータは、使用する人に依り、其の使用目的が異なると謂う不可思議な道具です。事務職の人には、事務處理を行う爲の道具で有り、作家の人には、原稿を起稿する爲の道具で有り、作曲家の人には、歌曲を作曲する爲の道具で有ると謂う具合です。其れ故に、コンピュータは、『有史以來、人類が初めて創った目的の無い道具』とも呼ばれて居ます。此の言葉を引用して、『だから、使う人間が目的を持たなければ成らないんだ』と、私は良く、コンピュータを始め様と仕て居る人達に話しますが、實際には、コンピュータに目的が無いのでは無く、其の利用範囲が廣範に亘ると謂う事です。

事實、現在、コンピュータの扱える範囲は、餘りにも廣大過ぎます。私が、約廿年前にコンピュータを始めた時は、640KBの2DDフロッピーディスクが斬新な頃で、當然、プログラムも其れに納まる程度の物でした。亦、私の使用して居た當時と仕ては最新のコンピュータでも、マウス、サウンド、コミュニケーション等の機能は搭載されて居らず、其の爲、此等を制御するプログラムを作成する必要は無く、覺える事も、今と比較すれば、遙かに少なくて濟みました。詰まり、プログラミングの普遍の部分の習得に專念すれば良く、然して、約廿年の歳月を懸けて、コンピュータの發展と共に、徐々に知識を擴げて行けば良かった譯です。

併し、今、此等の總てが、コンピュータを始め様とする人達の眼前に晒け出される事に成ります。一体、此等の總てを習得した人間が、世界に一人でも存在するのかと謂い度く成る程の厖大な範囲です。此れでは、何處から始めて良いのか解らず、コンピュータを始める事に尻込みするのも止む得ない状態です。併し、彼れ此れ惱んで居ても、何時迄も『道具を旨く使い熟せる』様には成りません。先ずは、始める事です。但し、前述の様に、『何處から始めて良いのか解らない』譯ですから、既に使い熟して居る人に相談し、指導を受ける可きです。其の上で、兎に角、始める事です。事コンピュータに限らず、何事も、始めなければ、始まりません。

其處で、學習方法ですが、此れも、コンピュータに依り、大きく變革されました。前述の通り廣範囲に亘り、到底覺え切れない物を覺え様とするのは、無駄な努力です。亦、人間は忘れる動物で有り、一度覺えた事を忘れない爲には、忘れる前に再び使用すると謂う事が必要と成りますが、此れでは、或る程度の域に達すると、新しい事を覺えるより、一度覺えた事を忘れない様にする事に多くの時間を劃かなければ成らなく成ります。

コンピュータと謂う多機能、多目的の道具が出現した事に依り、コンピュータ以前に比較して、覺えなければ成らない事は、飛躍的に増加した譯です。旧態依然と仕た學習方法、即ち『記憶』では、今日に對應する事は困難です。私以外にも、『記憶型』の學習方法に警鐘を鳴らす人は多く居ますが、コンピュータが一般化し定着した今、將に『記憶型』の學習方法から脱却する可き時期で有ると謂えます。次回は、コンピュータ時代の學習方法に附いて、具体的に考察し度いと思います。