ウオズミからナガサキ、そしてアジアへ 

「いのち」の尊さを学ぶ平和教育をどうすすめるか

第14回 日本標準教育賞 1990年度 小中学校教師 指定課題の部 優秀第3位
後に、『平和教育』明治図書刊に抄録掲載される。

はじめに

<見えないものを見る>
 15年戦争の終結から45年を経た今、中学生にとってはあの戦争は遠い遠い過去のものであり、昔語りにすぎないのかも知れない。
 しかし、遠くにあって見えないものを身近に感じて、理解できるようにするのが歴史の学習であるならば、そのための授業の工夫があるはずだ。また今日生徒の「社会科嫌い」が論ぜられるのであれば、なおさらである。
 この実践は約半世紀前の出来事を今、見、聞きしているように学習する(臨場感のある授業)にはどんな工夫をすればよいか、私なりに考えた実践である。

(1)具体から抽象へ

 社会科の授業で私が日頃気をつけていることは、
 授業は、
@具体的事実から抽象的認識へ、
A身近な事象から本質の理解へ、
B感性的認識から理性的認識へ、
 と言うみちすじで進まねばならない、ということだ。
 だから教師が用意する資料も、最初は、具体的で、身近な、感性に働きかけるような資料を用意する。

<具体から抽象へ>
 私は、戦争展で配られている召集令状(赤紙)や「金属類を供出せよ」とのビラ、死亡公報などの模造品、また原爆瓦(広島・長崎)など現物史料も使う。また、NHKのカセットテープ「昭和の記録」など視聴覚教材も活用する。

<地域から世界へ>
 その上に今自分が住んでいるこの地域で戦争がどのように始められ、どうのように進められ、どのような結果に終わったのかという地域の視点をプラスする。
 生徒が今生きている地域の話しをすれば、関心が生まれ、授業に食いつくと言った授業のレベルだけでなく、いずれどこかの地域の一員として、平和形成の主体にならなければならない若い世代であるわけだから、平和を生み出す力の一部として、「地域の視点」を持つことが求められる。
 歴史教育者協議会の平和教育分科会では、「地域に根ざして、戦争を問い直す」視点として、次の6点をあげている。
1.地域の中に「天皇制」を(国民がいかに戦争に巻き込まれていったか)
2.地域の中に「アジア侵略」を(朝鮮人・中国人の強制連行)
3.地域に中に「ヒロシマ」を(地域の被爆者)
4.地域の中に「抵抗体験」を(平和を求める主体形成)
5.地域の中に「核・軍事基地」を(地域に「核」はゴロゴロしている)
6.地域の中に「平和へのとりくみ」を(平和を築く主体形成を地域から
 (『歴史地理教育』1986年10月臨時増刊号 NO.403)
 一口に言ってしまえば、私たちは、「地域に加害・被害・加担・抵抗」の教材の掘り起こしを行っていかなければならないわけだが、まだまだ実践は緒に就いたばかりで被害の面は明らかになってきても、加害・荷担・抵抗の教材の掘りおこしはまだまだ進んでおらず、今後の課題となっている。

<訓育と知育の結合>
 さて、この実践「ウオズミからナガサキへ」は1989年度明石市立魚住中学校(前任校)での「15年戦争と地域」の授業実践である。この授業はナガサキへの修学旅行の取り組みやそこで学んだことと不可分になっており、授業とあわせて相乗効果をあげている。
 私たちの修学旅行は学年によって多少の違いはあるが、九州方面で、
  @平和について学ぶ(平和学習)
  A班行動を行ない、生徒の自主性を深める(集団づくり)
 という二つの柱は欠くことなく取り組んでいる。
 本論分では、ナガサキを訪れた生徒たちが、帰校後、歴史の授業で自分の住んでいる地域の戦争の学習をした時、地域で学んだこととナガサキで学んだことが結び付きはじめ、やがてアジアへと広がっていく彼らの思考を、授業の感想文なども利用しつつ、報告したい。

(2)教科の中での戦争学習

 修学旅行の取り組みと同時に社会科では、15年戦争学習をおこなっていた。進度としては、「修学旅行までに終戦までは行こう。」と打ち合せをしていたが、結局、修学旅行後に空襲や原爆の授業をする事になった。
第2次世界大戦の開始から日本の敗戦までを4時間の扱いで授業計画をした。

第1次 第2次世界大戦のはじまり
第2次 太平洋戦争のはじまり
第3次 戦時下の国民生活
第4次 日本の敗戦

 私は、およそ1時間に1枚のプリント史料「かがり火」を自作するから、ここでは4枚のプリントを作成したが、生徒の視覚にうったえるように図版などを多く取入れ、活字も120%に拡大コピーをし見やすくした。第3次、第4次に使ったプリントを参照していただきたい。

(3)明石の空襲

<授業の展開>
授業はプリント資料「第2次世界大戦の始まり」「太平洋戦争の始まり」を終えた後、本時は「戦時下の国民生活」だ。
 人・モノ・金を総動員できる国家総動員法、圧迫される国民の生活、甲子園球場がイモ畑になった話(明石公園内の野球場もイモ畑だったそうだが、これは後で知り、授業では話さなかった)、二宮尊徳像が「出征」した話や甲子園球場の大銀傘が供出に付されたこと、などをした。
 そして最後に学徒動員の話をし、川崎航空機での学徒動員に進み、ここ川崎航空機工場への爆撃から始まる、明石の空襲の学習に入っていった。
 用意したプリントは、『私の戦争体験記』(明石芸文センター)から、特に1月19日の250キロ爆弾による空襲、7月7日の焼夷弾攻撃を中心に編成しました。(社会科通信『かがり火』NO.10参照)
 そしてもっと目に見えて、感情にも訴えられる「視聴覚教材」として、「あなたは戦争を知っていますか」(NHK『おはようジャーナル』87年度放送)より「炎の記憶−明石の空襲」の体験談のVTRを用意した。
 川崎航空機工場の跡地にできた貴崎小学校の6年生に、現在伊丹市在住の田村フネさんが空襲の被爆体験を語って聞かせる。内容はおよそ次のようなもので、空襲の映像や写真とともにブラウン管に映し出される。

 現在伊丹市に住んでおられる田村フネさんは、戦争中西明石にある川崎航空機工場に看護婦としてつとめていました。工場には、中学生や女学生が勤労動員でたくさん働いていましたが、食料事情はたいへん悪く、よくおなかをこわしては工場内の診療所に診察にきていました。そんなとき1月18日に腹痛を訴えてきた少年がいました。腹部を見てみると虫垂炎に違いありません。おり悪く日曜日でしたので、田村さんは腹部を氷で冷やしてあげながら、一晩寝ずの看病をして、翌朝工場内の診察所へ少年をつれて行ったものの、診療所はたくさんの患者でいっぱいでした。ようやく昼頃に手術の準備ができ、執刀が開始されました。
 しかし腹部を開くとすぐに空襲警報が鳴り響きます。ここで中止するわけにはいかないので、患者の腹部に衝撃によって落ちてくる天井のゴミをからだで避けながら手術は続けられ、患部を切りとって、最後の縫合を終えた瞬間、250キロ爆弾が診療所を直撃し、田村さんらは生き埋めになりました。
 田村さんはその中で苦しみに耐えかねて、土を口や鼻に詰めて、「早く死にたい」「早く楽になりたい」と思っていました。しばらくするとまわりが燃え始めました。田村さんは、「これでやっと死ねる。やっと楽になれる。」と思い、熱いのを我慢して、左手で熱く焼けてきたパイプをぎゅっと握っていました。
 一昼夜を経て奇跡的に助け出されました。しかし足のかかとと焼けて炭化した右腕とは切断せざるをえませんでした。
 最後に、今でも鉄パイプを握ったままになっている右腕の握り拳を開いてみたい、みんなと同じように義足なしで歩いてみたい、とかなわぬことは分かっていながら思ってしまう、と話しておられました。

この教材で授業をした後、生徒はどんな感想を残しただろうか。生徒の感想から生徒の認識の深まりを検証してみたい。

<田村さんへの共感の涙>
 生徒はこんなにも身近に空襲があったことを驚き、田村さんの「もういっそ死んでしまいたい」と思わざるをえないような苦しみ、痛みに素直に共感し、涙をながさんばかりになっていました。また、今もって握ったままの拳を開いてみたいという田村さんの願いに切なさを感じた感想が多数出された。
田村さんのお話しで、生徒は、戦争の被害は決してそのとき一瞬の痛みや苦しみではなく、土の中で一昼夜、ベッドの上で苦しみに耐えて数ヵ月、そして腕や足を切断してしまったときの嘆き・悲しみ、そしてその被害は現在、今このひとときも田村さんをさいなみ続けているというこの忌まわしさを感じたようだ。
 何よりも田村さんにとって、45年たった今も、戦争は決して終わっていない現実を知り、戦争被害の現代性に気づいていった。

<感想・明石の空襲・1>
 @私はTVで話をしている田村さんを見て、今、必死に生きようとする姿が印象的でした。それと最後の所でも“ジーン”とくるものがありました。(3−2 I・E 女)

 A田村フネさんをみて、私も泣きそうになりました。フネさんは右手と足のつま先がなくて、それでも元気に住んでおられます。罪もない人にこんなことをするのなら、戦争なんかしなきゃよかったのに。(3−2 I・A 女)

<類推 明石からナガサキ・ヒロシマへ>
 生徒の多くの感想の中で、私が注目しているのは、明石のことを学習しているのに、生徒はナガサキのことを考えているということだ。生徒は明石の被害から「類推」して、ナガサキの被害の大きさをはかっているのだ。
 またヒロシマ・ナガサキにとどまっていた視点が、ふりかえって明石にかえってきているのだ。(感想B)
 明石に空襲の知識は、今後も彼らの戦争の被害をとらえる一つのモノサシになっていくことであろうと思われる。
 「田村さんは250キロ爆弾でこれだけの被害を受けた。では原子爆弾だったら……?」
 「明石で約1500人の人が空襲でなくなった。では約10万人の犠牲者のでた東京大空襲は……?」
 「ヒロシマでは?」「ナガサキでは……?」
 「では日本全体でどれだけの人がこの戦争で死亡しているのか?」と。
 また、プリントに書かれた無味乾燥な数字が明石という身近な地域の数字であればこそ、この生徒にとっては、悲しみを誘う数字になっている。もし、この地域で被爆した田村さんのビデオを見ていなければ、この生徒は決してこのような感じ方をしなかっただろうと思われる。(感想C)

<感想・明石の空襲・2>
 Bこのテレビを見て、戦争で恐いのは原爆だけじゃないことがわかった。長崎では、原爆の恐ろしさばかり考えてきたけど、原爆よりはるかに小さい爆弾が明石の町を火の海にしてしまっていたなんて、全然知らなかった。やっぱり戦争ってあってはいけないものだと思う。(3−7 Y・Y 女)

 Cビデオで田村さんが話をしているのを聞いた。「すごい体験をしてきたんだなあ」と思った。田村さんの姿を見ると、片方の腕がないのでびっくりした。やはり戦争が関係しているんだなあ」と思った。
 プリントの死者や傷者を見ると悲しくなってきます。明石だけでもこんなに多いのに、広島や長崎の事を考えるとぞっとします。(3−7 M・K 女)

<豊かな「空襲」認識>
 また、遠くにあった抽象的な「空襲」という生徒の概念が、身近な明石の、そして田村さんという具体的な「個人の体験」に裏打ちされた、具体的な内容を持った「空襲」概念に変化しているのが分かる。
 ある生徒はそれを「(空襲なんて)遠くにあるイメージだったのに、今自分が住んでいる町で空襲があったなんて不思議な気がする。」と書いている。(感想D)
 そして、空襲は「軍需工場」が爆撃されたと思っている生徒が多いのだが、そんな生徒はアメリカ軍の「無差別爆撃」に「普通の家まで空襲しなくても良かったのに」と不満をあらわにしている。(感想E)
何れも今まで描いていた自分の「空襲」像が、変化していった様子を書き表している。

<感想・明石の空襲・3>
 D小学校のころに明石にも空襲があった話は聞いたことがあったけれど、こんなにすごいとは思いませんでした。
 空襲なんか、いくら日本の中でも遠くにある事のイメージだったのに、今、自分が住んでいる町で空襲があったなんて、不思議な感じがする。(3−3 A・M 女)
 E明石の軍需工場だけでなく、普通の家まで空襲された。というところで、何も普通の家まで空襲しなくても、軍需工場だけで良かったはずだろうにと思った。そして残酷すぎると思った。
 ほんの40年前ぐらい明石に6回も空襲された。6回も空襲することはなくてもいいのに。(3−7 Y・A 女)

 また、「明石に空襲があったとは知らなかった。それに田村フネさんが涙を流しながら話をしているのを見て、(田村さんと谷口さんと)両方から『戦争はもう1度も起こしてはいけない』と呼びかけているような気がした。」と書いている生徒もいた。

(4)父母・祖父母の戦争体験の聞き取り

 社会科の授業では、前掲の社会科通信でも分かるように、1時間の授業が終わると、その授業の感想を数行にわたって書くことになっている。そして次時に感想発表が順番に当たる。
 ここでは「明石の空襲」の感想でもいいし、さらに、祖父母からの聞き取り調査ができる生徒は聞き取り調査をするように指示し、より以上に戦争を身近にとらえさせるようにした。
 もう父母からの聞き取りは不可能に近いが、まだまだ祖父母なら聞き出せることはたくさんあるように思った。
 以下の聞き取りは、次時「日本の敗戦」の授業最初に発表してくれたものである。

 お母さんの方のおばあちゃんは、もうなくなってしまって、おじいちゃんも先に亡くなっているけど、亡くなる前に私がおばあちゃんに聞いた話では、戦争中はお母さんはまだ生まれてなかったけど、その前に3人の子供がいて、その子供と一緒によく近くの橋の下に隠れていて、その時に近くで畑仕事をしていた人の背中などに、よく飛行機から飛んでくる槍みたいなものがブスッとささっていたと言っていました。それとおじいちゃんは、郵便配達の人で戦争中も配達をしていたので、靴の裏が真っ黒で焦げていたといっていました。
 お父さんの方のおばあちゃんの話では、おじいちゃんは陸軍の兵隊だったけど、体が病弱だったために、兵隊さんの食料係をしていたので、命拾いをしたけど、おじいさんのお兄さんは、戦病死したと聞きました。(3−7 M・M女)

 おばあちゃんが何かの用事で、加古川に行くとちゅうに明石で空襲で電車が出れなくなって、「明石公園に避難してくれ」と言われて、公園に行ったけど電車が出てしまったら困ると思って、兵隊のいる横の木のかげから、赤ん坊のお母さんを背負って、明石駅まで行ったそうです。そうすると朝で空襲がやんで、「今のうちや、電車に乗れ!」という声でぎりぎり乗れたそうです。そして加古川についたとき、明石公園の方ですごい爆音と黒い煙が見えたと言っていました。そして、おばあちゃんのお父さんは明石で死んだと思ったそうです死体を探しにきていたと言っていました。そしておばあちゃんが帰るとおお喜びしたそうです。(3−8 H・T 男)

(5)日本の敗戦

 戦時下の生活や明石の空襲を学んできた生徒にとっては、日本の敗戦はもはや必至のものでしょう。しかし、明石は最初の空襲からまだ半年も戦争はつづき、都合6回も明石は空襲にみまわれる。
 いよいよ15年戦争学習の最後は、「日本の敗戦」である。
 ここでも地域の視点で教材を編成しようと考え、「魚住町の戦死者」を調べていった。幸い以前魚住中にいらっしゃった柳田先生が、1983年度の文化祭の学級展示として、「15年戦争と魚住」で戦死者調べをやっておられた。この展示は、魚住町の戦死者の年齢、戦死年月日、戦死場所をアジアの地図(ベニヤ板2枚分のパネル)のなかに一人○1こで示したものだ。これを教室へ持って入るだけで、もう生徒の目はパネルに集中する。
 その上、今年はパネルをプリントに移し替える作業をしようと、日中戦争での戦死者は○印で、太平洋戦争での戦死者は×印で、地図上にポイントを打っていった。
 ただし、厳密にいうと、それぞれの戦死者が日中戦争および太平洋戦争の戦死者であるとはいえないが、おおよその傾向は出るだろうと思い、37年の戦死者は日中戦争に、41年の戦死者は太平洋戦争に含めた。
 また、本籍地である魚住から「出征」した人もいるので、必ずしも魚住に実際住んでいた人の戦死者数を現しているのではないが、これもおおよその傾向は出ると考え、史料として利用した。
 なかなか煩雑な作業だったが、これを自分自身でやってみて、改めて感じたことがあった。それは「戦死者のなかで20才〜24才が約50%を占めている。なんと若い命が散っていったことだろうか」そして、「1945年に125人、約半数が戦死している。なんでもっと早く戦争を終わらなかったのか。」「あと1年、いや半年早く終わっていたらどれだけのいのちがすくわれただろうか」と。
 だから第一に「この思いを授業で伝えたい」と思ったのだ。
 授業の流れは教案を見てもらいたいのだが、最初の10分が準備にかかってしまうという無駄があったため、展開2「アジアの人々の被害(日本の加害)」までは進むことはできなかった。ビデオ教材、NHK特集「太平洋戦争はどう教えられているか」を用意し、アジアの国の自分たちと同年齢くらいの子どもたちは、どんなに詳しく日本の加害を学んでいるかということを、理解させたかった。
 教材としては、アジア諸国の教科書の日本語訳を使うことも考えたのだが、映像教材の方が分かりやすいだろうと考えて、NHKのビデオを使うことにした。
 では、実際の授業はどのように進んでいったか、授業のVTRから再現する。

【授業記録】

 T:(パネルを指しつつ)これおっきいでしょう。上に「15年戦争と魚住町の戦没者」とあります。15年戦争というのは、満州事変から始まって、満州事変が1931年から始まるやろ、そして太平洋戦争が終わる1945年まで、その15年間にわたる戦争ね、これを一つにくくって「15年戦争」っていうんやね。その間に魚住町の人がどれくらい戦争で亡くなったか。それをね、昭和58年に3年1組がね、文化祭で調べて、そしてアジアの地図を書いて、そこに一人の戦死者、これを一つの○にして、何才で、いつ、どこでなくなったか。これを一つ一つ調べて、分からない地名は地図帳一生懸命ひいて、貼りつけていったんです。一生懸命調べたんやけど、それでもどうしても分からないのが、ここの所にあります。
 先生ね、この地図を大体そのままプリントの方に、作りなおしてみたんです。これほど詳しく書けなかったので、○と×とで戦死者を表しました。○印は昭和12年、1937年の7月7日の日中戦争が起こってから、太平洋戦争が始まるまでの間、41年まで、これを○印で表しています。×印、これは1941年から後亡くなった人は×印で表しています。そら、日中戦争の時に弾を受けて傷を負って、それが41年42年に入ってから亡くなったと言う人も×印の中に入ってるんやけど、おおよそ魚住の人がどの戦争で亡くなっているか分かると思うねん。
 それから大体いつ亡くなったかというのが、左側のグラフがあるでしょう、資料1のグラフ、年代別に戦死者の数を折れ線グラフにしているやつ。
 それからね、何才ぐらいで亡くなっているか。先生今年で、35才。みんなは14か15才でしょう。先生とみんなは20年違うねんからな。どれくらいの年齢の人がなくなったか、それは、円グラフで表しています。資料の2。分かりますね。
 さあ、それでね、今から机を班にして、この「15年戦争と魚住の戦没者」の地図とグラフから、どれくらいのことをつかんでくれるか、いっぺん試してみたいんです。地図とグラフからどれだけのことが分かるか、このグラフを見て、どんなことを感じたか、感じたことでもいいからね、それを班でまとめてください。
(班学習10分)
T:止めて。では、発表。はい、1班。
S:日中戦争は4年半、太平洋戦争は3年半で期間が短いのに、戦死者も多く、範囲も広がっていて、しかも日中戦争の時は、攻めるだけだったから、中国の方でちょっと死んでいるだけだけど、太平洋戦争のほうだと日本本土の方も攻められているし、それに東南アジアの広い地域に戦死者がでている。
 それで年代も20〜24才と、今から働き盛りと言うような人ばかり死んでいる。
T:じゃー、ほかに……。まだ意見のある班、はい、3班!
S:えぇーっと、私たちと同じで14才くらいで戦争にでている。
T:(パネルの一覧表を指しながら……。註:下はそれを集約したもの)14才で、陸軍で二人亡くなっている。14才やで。徴兵の年齢が19歳に
下がってくるんやけど、何で14才の人が戦死してるんかわからへん。けど、二人亡くなってる。
 はい、他に。4班。
S:終戦前に魚住ではたくさんの人がなくなっている。
T:なるほど。終戦前に魚住ではたくさんの人がなくなっている。じゃー5班!
S:日本とフィリピンとビルマでたくさん戦死している。
T:4班。
S:魚住以外の全国の人を含めるともっとすごいだろうと思った。
T:いまゆうたこと分かった。魚住で、ここに合計がでているけど、249名です。約250名の戦死者がでているんですね。そしたらさー、全国やったらどんなに多いやろ。もっとすごいんちゃうか。こういう意見ですね。
 他に。はい、2班。
S:太平洋戦争なのに、ロシアの遠いところで死んでいる。
T:太平洋戦争なのに、ロシア……ロシアねー(笑)
S:ソ連!(爆笑!)
T:ソ連でも亡くなっている。何人おった。みんなソ連で何人亡くなっている?
S:4人……5人。
T:5人。そやな。ここのシベリアと言われる地域から、それからこの地図では入らない、ウクライナ、ここでもなくなっている。何でこんな所でなくなっているのか分からないけど、亡くなっている。(後の調査で明らかになった。)
 他の意見。6班どうですか。他ないですか。
S:感想でもいいんですか。
T:感想でいいです。はい。
S:狭い魚住町でも、世界ほとんどに散らばっている。
T:狭い魚住町の人が、世界、アジア全体に散らばっている、こういうことですね。
 じゃーノートにまとめて下さい。たくさんの意見でたな。
T:先生思ったのは、5班の意見ね、終戦の前に非常にたくさん亡くなっているやないか、これね!資料の1番見て欲しいんやけどね、1945年に亡くなった人、どれくらいか?読み取れますか。
 Yさん。約……。
S:120人。
T:120人。
 と言うことは、さっき4班がいうてくれたけど、魚住でこれだけ、そのうち半分の人が終戦まぎわでしょう、戦死してるのは。
 さっきも、日本でどれくらいの人がなくなっているんやろ……って意見がでていたけど……、歴史でもしも……ってことをいうたらあかんって言われるけど、もし、もし、戦争がもう一年早く終わっていたら、どうなっていたやろう。
 1945年8月15日までの間に、日本でどれくらいの人がなくなったやろう?魚住の人は120人やっやけど。
 教科書のP.262から263、ずっと読んでね、1945年、昭和20年に入ってから、日本はどんな攻撃を受けて、軍人ばかりでなく、君らのおじいちゃんやおばあちゃんも、一般市民も含めてどれくらいの人がなくなったんやろか。それを今から教科書で調べて下さい。合計して下さい。

 <教科書で調べているが、なかなか生徒たちは分からない。>

T:どうですか。各班で数字、発表してもらいたいんやけど。

<しかし、案外答はでてこない。そこで、>
   沖縄   (  )万人
   ヒロシマ (  )万人
  ナガサキ (  )万人
 と、板書し、ヒントを与えた。

T:これに東京大空襲もありました。3月の10日。これが大ざっぱに言って10万人。
これがね、みんなが言うようにもし戦争がもう1年早く終わっていたら、東京大空襲10万人、沖縄20万、ヒロシマ・ナガサキ合わせて20万人、明石の空襲もありましたね。1月19日。7月7日。これらがみんなないわけです。
 世界の方はどうなっていたか、と言うと、世界の方ではもっと早く降伏してしまう年。まずイタリアはどうやったか。いつ降伏するか、はい、アンダーラインして下さい。
 じゃードイツはどうですか。

<と、いち早く降伏した、同盟国との違いを際立たせようとした。>

T:イタリアはもう43年に降伏しとるねん。ドイツは45年の5月や。
 日本はミッドウェー海戦そしてガダルカナルで負けてから、ほとんど勝てないんです。昭和20年、1945年の2月に近衛と言う人が天皇に意見を出しているんやね。「日本の降伏は避けられないから、早く降伏した方がいいのではないか」と、こういうことを、天皇に言った。だから2月の時点で、この意見が出された時点で終わっていたら、東京大空襲ありませんね。沖縄の悲劇ありませんね。ヒロシマ・ナガサキありません。明石の空襲もありません。
 さらに7月にポツダム宣言と言うのを、受け入れなさいと連合国側はいうてくる。これを7月に出して「日本よ、降伏しなさい」と言うてきます。これは明石の空襲の後です。

 <ポツダム宣言の主旨を確認した後、>

T:ここで受け入れていたら、ヒロシマ・ナガサキはありませんね。そしてもう一個。
 ソ連とイギリスとアメリカの間で、ヤルタ会談と言うのをやっています。そしてヤルタ協定と言うのを結んでいます。45年2月。このときにソ連は約束します。「ドイツが降伏したら、3カ月以内に日本に参戦します」ということを約束します。
 ドイツはいつ降伏したかな?5月の7日。すると6、7、8月の7日に参戦することになる。ヒロシマは何日やったか覚えていますか。8月の……うん……8月の6日ですね。ナガサキは8月の9日ですね。この間にソ連の参戦が入ってくる。
 テレビで残留孤児の放送がいつもされていますね。あれこのときにソ連に攻め込まれて、そして逃げまどう人々。子どもどうしても日本へつれて帰れない。しかたなく中国人の方に、お願いして育ててもらっていた人たちなんですね。
 だから7月の時点でポツダム宣言を受け入れていたら、結局ソ連は8月の8日に参戦してきますけれどもね、こういうこともなかったんですね。
 だから戦争を始めるときにも、大変な決断がいるわけですね。しかし、やっぱり国を動かしている人、これは戦争を止める勇気もね、もたなあかんかったんとちがうかな、もっと早くね、止めることができておったら、たくさんの人が死ななくてもいいんとちがうかな、と先生はみんなのプリントに○や×をいれながら、思いました。
 そして、8月15日のお昼に「重大ニュースがあるから聞きなさい」と言われる。国民はラジオの前の集まって聞いた。その録音のテープ、天皇の詔勅、天皇のことばが始めて国民の耳にラジオから届くんですね。その敗戦の、終戦の詔勅なんです。

 <ここでちょうどチャイムがなり、時間となってしまった。魚住の人たちは、これだけの地域に出かけて言って、戦死した。いわば被害を受けたとも言えるが、この人たちが行っていたアジアの人たちに、日本人はどんなことをしてきたのか。ここまで進むことはできなくなった。>

 アジアの人々の被害については、次時に「太平洋戦争はどう教えられているか」(NHK)のビデオを見せながら、自分たちと同世代のアジアの生徒たちがどんなに詳しく日本の蛮行を学んでいるかを指摘した。
 “FORGIVE,BUT NOT FORGET”(許そう、しかし忘れまい)の言葉をしめくくりとして、この授業を閉じた。

 ここにくると、「地域の視点」を貫くことができなくなった。この地域の人たちが実際にどんな加害行為を行ったのかが、全く明きらかでないからである。

<地域に「アジア侵略」を>
 以前の聞き取りでは、
 F朝鮮人虐殺の場での怪奇・実話エピソード
 ある日、ある時、そのころ日本兵が朝鮮人を大量に虐殺していた。その時、一人の朝鮮人が立ったまま、日本兵に首をはねられた。もちろん頭は鮮血に染まって地面に転がった。が、どうしたことだろう。体が、頭のついていない体だけが、走りだしたのだ。そして5、6メートル行ったところで、ばったりと倒れた。あの鮮血にまみれながら……。
 こんなことは良くあったそうだ。これは食卓で父に聞いた実話である。(Y・S 男)

 また、
 G原爆が日本に落ちたとき、日本人は朝鮮人を豚以下のようにあつかっていたそうです。
 朝鮮人が故郷に帰ろうとすれば、待っているのは殺人的な暴力だったそうだ。日本人は朝鮮人のことを人間と思ってなく、生きているのが不思議なぐらいいじめたそうだ。それにさんざんこき使っておいて、朝鮮人は朝鮮へ帰れと言っていたそうです。朝鮮人は死んでも、灰も届けられなかったそうです。
 でも私はまさかこれほど日本人がこんなにむごいとは思わなかったし、朝鮮人がとてもかわいそうだと思った。(H・M 女)

 前者Fは、日本の加害行為に無反省な聞き取りであるし、他にもおじいちゃんが上級将校だったから、部下がたいへん良くつくしてくれたと言う聞き取りもあった。
 後者Gはその点は、日本人としての反省に立った聞き取りのようだが、実際の体験かどうか明確ではなく、2次体験かも知れない。
 今回の聞き取り調査で、印象に残ったのは、
 H話は聞いていないけど、お母さんが前に言っていたことを書きます。おじいちゃんは、シベリヤに兵隊として何人もの人を殺したそうで、戦争が終わったとき、位の高かったおじいちゃんは日本の兵隊に追いかけられたので、逃げ回っていたそうです。
  そして今戦争について聞いても、何も答えてくれませんでした。(3−4N・T 女)
  というものです。
 「今戦争について聞いても、何も答えてくれませんでした。」というおじいさんの重い表情を想像するばかりだが、一体何があっておじいさんを戦後45年間沈黙させているのか。それをあきらかにできれば、と思うが、果たせていない。

 授業では地域の視点から離れて、次時にNHK特集「太平洋戦争はどう教えられているか」を用意し、アジアの国の自分たちと同年齢くらいの子どもたちは、どんなに詳しく日本の加害を学んでいるかということを、中心に行ったが、残念ながら生徒の感想も、日本の加害、アジアの被害について述べているものはほとんどなかった。

(6)ふたたび類推 魚住から日本・世界へ

 このように地域の人々が、いつ、どこで、何歳でなくなったか、という史料を生徒に提示したとき、生徒はどう思考を始めただろうか。
まず第一に、戦死者の多さに率直に驚き、怒り、戦争反対をつづっている感想文である。(感想I)
 「国力に差のありすぎるアメリカとなぜ戦争を始めたのか。こんな戦争に反対した人はいなかったのだろうか?」と、問いを発している。

 Iせまい魚住でこんなにたくさん死んでいるのに、世界ではどれだけの人が死んだのかと思うと、戦争は絶対してはいけないと思いました。それと15才の人が死んでいるのにびっくりしました。せっかく生まれたのに、戦争なんかのために死んでかわいそうに思いました。
 それに領土より平和の方が大切だと思った。(3−8 U・M 女)

 第二に、生徒は明石に空襲を学んだときと同じ様に地域の数字から日本や世界の数字を類推し始めたのである。(感想IJO)
 生徒は戦死者のパネルを初めてみたとき、これが「全国の戦死者の数だ」と勘違いする。そして「これは魚住町だけの数字だ」と教えると、「ええー」と声をあげて驚いた。パネルの魚住町出身者の戦死者の数に驚き、計り知れないほどの全国の数字を実感するのである。生徒は、戦死者の数がシールでパネル全体に貼られていると、その多さを実感する余り、日本全体の戦死者と勘違いしたのだろうと思われる。
 よく、ヒロシマの被爆による死亡者の数を、新聞の顔写真で表現して実感させようとする実践があるが、より抽象的な史料だが、それに近い効果を現している。
 このように地域の具体的な史料を与えた時、かえって生徒の思考は広がり、日本や世界のことを考え始めていく。
 つまり、「魚住で250人もの人が戦死している。だったら、日本全体では………。」「世界全体では………。」と考え始めるのである。
やがて15年戦争はアジア全体で行われた戦争であることに気づいていく。
 生徒の思考はある数字をふえんしはじめ、類推をしているのである。

 J魚住で戦死したんでも250人亡くなっているんだから、全国ではすごい数だと思った。そして空襲などで死んだ人なども入れるともっとすごい数になると思いました。勝つわけでもない戦争のために、何百人もの人々の失って、いまでもその戦争のために苦しんでいる人もいる。だからこの苦しんでいる人のためにも、戦争は絶対してはならないと思いました。(3−7 I・K 女)

 第三に、被害の大きさに驚き、「こんな戦争に反対した人はいないのか?」「なぜこんな戦争を始めてしまったのか?」と問う生徒もいる。結果から原因を探ろうとする働きで芝田進午氏によるところの「遡及」の働きである。(感想K)

 K15年戦争といわれる満州事変から第2次世界大戦までの戦争を習うと、15年生きていた私に一度も経験のない戦争のことを言われてもピンとこなかった。でも、修学旅行で谷口さんの話を聞くと何の罪もない一般市民の死者や負傷者の多さにびっくりしたし、その事が気になりはじめた。お国のために頑張ってる軍人は、「国のために頑張るぞ!」一般市民は「国が強くなるのだから、軍人が頑張ってくれるように祈っていた。」アメリカはミッドウェイ海戦で本国を空襲してきて、軍需工場だけではなく、市民にも襲ってきた。市民の頭のいい人や日米の生産高比較や歴史での文化などからでも、アメリカに敗けるとわかっているのだろうと思うのに、反対した人はいなかったのだろうか。アメリカの文化と日本の文化の違いで、日本が戦争を求めたのはバカだなあと思った。(3−7 Y・T 女)

 第四に、戦争をくぐり抜けてきた父母、祖父母の存在と自分の存在を兼ねあわせて考える生徒も多い。「もし、おじいちゃんが戦死していたら、今の自分はこの世にいないかも知れない」と。(感想LMN)
 また、この授業をきっかけに父母、祖父母と戦争の話をした生徒もまた多い。父母、祖父母に戦争を問いかけ、学ぶ生徒の姿がここから浮かんでくる。よそごとになりそうな過去のできごとに、彼らは自から近づいていくのである。

 Lおじいちゃんに聞いた話で、「おじいちゃんが戦争で、飛行機に乗って外国の方へ出て行こうとして、飛行機に乗ろうと思ったら、戦争が終わっていた」という少しおもしろい話だけど、(小3の時に聞いたからかもしれない)でも実際今は本当にあのとき飛行機に乗って行かなくて良かった」と思います。もしかしたらおじいちゃんがこの世にいないかもしれないから。(3−4 S・M 女)

 M私のおじいちゃんは、満州へ行ったそうです。そこから中支と言うところへ行き、そこで右胸部貫通銃創といって、字の通り右の胸を鉄砲玉が貫通したそうです。そのため赤十字船で帰国したそうです。今ではその傷もすっかりよくなって元気です。(3−4 K・T 女)

 N今回の授業では第二次世界大戦の終結を勉強したげど、戦後に亡くなった人がこんなにいるとは知りませんでした。魚住町の人の中でも、ずいぶん遠くでなくなった人がいたり、東南アジアの方でもこんなにたくさんの人が戦争へ行って、亡くなってくるなんて、本当に戦争とは、むごいものだと思った。
 この時におじいちゃんがもし戦場へ行って、亡くなっていたら、今の私はいなかったことになるので、今思うとおじいちゃんが病弱で良かったと思います。
 日本がこんな結果になったのも、日中戦争の見返りだと思います。あの戦争では、ほんの少ししか日本人は亡くならなかったけれども、日本人がおかした中国人への仕打ちはものすごく残酷なもので、それが今度日本へふりかえってきたのだと思います。戦争というものは、勝ち進んでいるときはいけど、負けている時は本当につらくて、相手の国を心の底から憎むから、その見返りがきっとくると思います。つまらないことで戦争を始めて、自滅していくより、一日でも早く戦争のない平和な世の中を自分たちでつくっていかなくてはならないと思う。また、だれしもがそれを望んでいるに違いないと思います。(3−7 M・M 女)

 第五に、生徒たちはこの戦争の被害を知るにつけ、「なぜもっと早く終わらなかったのだろう」と疑問を呈してくる。大日本帝国憲法、ポツダム宣言を視野に入れつつ、生徒は終わらなかった責任を追求している。(感想OPQ)

 O魚住からアジア中の戦場に散らばっていることに驚いた。魚住町でもこれだけなら、日本中や世界中ならどれだけだろうと思った。明石の空襲が関西で最初のものだということを初めて知った。日本もう勝てる見込みがなくなっていたのに、戦争を続けた。そのために1944年前後には、本当にたくさんの人が亡くなっている。沖縄が占領され、本土でも空襲がたくさんの受け、とどめに広島と長崎に原爆が落とされて、それこそ最悪の状態になって降伏した。先を見定めてもっと早く降伏していれば、もっと少ない犠牲者ですんだのにと思った。決断をして降伏するのも勇気だと言われたけど、全くその通りだと思った。(3−7 H・T 男)

 P本当に戦争は始めるのは簡単で、終わるのはむずかしいものだと思った。敗戦も近いころ、日本が素直にポツダム宣言を受け入れないから、誰がみたって負けるのを、目の前に分かっていたことを、承知でやってしまったから、広島や長崎に落とされなくても良い原子爆弾が落とされ、何十万人の命を奪っていった。戦争のことを勉強していた中で、一番強く思ったことです。
 あのポツダム宣言を素直に受けていたら……、と残念です。(3−4 S・M 女)

 Qポツダム宣言の第10条目には、「いっさいの戦争犯罪人に厳重な処罰を加えられる」とあるけど、そのとき天皇は処罰を加えられたのですか。(3−1 M・T 男)

(7)戦争(歴史)学習を終えて

 この15年戦争の学習の後、「戦後の民主化」を学習し、歴史学習を一応終え、戦後史学習は「公民学習」のなかに組み入れることにした。
 最後に全体的な感想を紹介する。「1つ1つのできごとにいろんな人の人生が見れて楽しかった。」「でも、勉強をしたり、修学旅行に行ったりして、戦争というものが半分ぐらい分かった。半分とは、全部は分からないからだ。この複雑で、むごたらしい戦争を知ることは、できないと思ったからだ。」「結局戦争などしても何にもならないことは、歴史が証明していると思いました。」などの、表現にから生徒たちは初歩的ではあるが、自分の歴史観を育てつつあると私は思う。

 R歴史ははっきり言って苦手でした。いろいろな年代にいろいろなことが起こっていて、1世紀ごとにたくさんのことがありました。
 でも1つ1つのできごとにいろんな人の人生が見れて楽しかったと思います。
 それと歴史の中で悪いことの方が多いような気がしました。これからはよいことを歴史に残していけたら……と思います。(3−2 I・M 女)

 S知れば知るほど、戦争はいけないと思う。だけど同時に文明が発達する過程において、戦争は避けられない事実ではないのかという気もしてきました。
 文明が発達するとどうしても、一部の人に権力が集まるし、より殺しやすい道具もできてくるから、何回かあやまちをくり返さないと平和はこないんじゃないかな?
 ただ平和を手に入れるための犠牲は、もう十分に払ったと思うのに、まだ平和といえないのは、人類のバカなところなんだろうか?
 歴史を習い終わって、ある言葉が再び私の頭をよぎりました。映画監督でもあるスピルバーグが言ったことです。
 「私が宇宙人を夢見る理由は、もし宇宙人が他にいるとしたら、それは文明が発達しても生きる可能性があることを意味するからです。」(3−7 T・K 女)
 ○今までは戦争と聞くと、「こわい」と思うだけで、後は何も考えなかった。でも、勉強をしたり、修学旅行に行ったりして、戦争というものが半分ぐらい分かった。半分とは、全部は分からないからだ。この複雑で、むごたらしい戦争を知ることは、できないと思ったからだ。それほど複雑なのは、人間一人ひとりのにくしみとか悲しみとかが、たくさんつまっているからだと思った。(3−7 N・T 女)
 ○魚住の人がこんなにいろいろな所で死んだのには驚きました。
 話はかわりますが、おじいちゃんの話を聞くと、魚住には住んでいなかったけど、兵隊にとられていく時、同じ名前の人がいたから、その人の代わりにとられて戦争に行った、と言っていました。兵隊に行く時の年はすぎていた、と言っていました。だから兵隊のとりかたっていいかげんだと思いました。
 そして天皇の声をラジオで聞いたと言っていました。2・26事件、5・15事件、日中戦争、満州事変とか聞いてみたら、よく知っていました。おじいちゃんの年は、78才です。
 結局戦争などしても何にもならないことは、歴史が証明していると思いました。(3−8 H・T 男)

(8)今後の課題

 このような感想を残して15年戦争の学習は終わった。生徒はアジアへの認識の広がりを獲得し、生徒は戦争がアジア全体で行なわれ、敗戦間際に多数の戦死者を出したこと、つまり「太平洋戦争」が「アジア・太平洋戦争」であったことは、理解できたのではないかと思っている。
 しかしこの授業実践によって、確かに地域から日本全体、そしてアジア、世界へと生徒の視野は広がっていったが、しかしそれが日本の被害のみにとどまっており、アジア諸国民の被害にさほど目が向いていない点にこの実践の最大の問題点がある。
 中学生になると、立場を動かして、相手の立場にとって考えることができるようになる。本当の意味で、思いやりを持つことができるようになる。
 同じように科学的な思考においても、階級間で立場をかえたり、民族間で視点を移してアジアの諸国民の立場に立ったりすることができるようになってくるだろう。
加害に関する適切な教材を与えることができず、この点に対する生徒への働きかけが弱かった。
この実践の成果と課題を一言でいうならば、生徒の視野は地域から日本、アジア・世界へと広がったが、視点は変わらず日本の立場に留まっていた、と総括できるのではないか。

 さて今後の課題だが、今のところ被害の面が中心になるのだが、教師にやる気さえあれば、誰もが一定のレベルでつかえる「地域の平和教育教材集」の製作をめざして作業中である。
 「明石と15年戦争マップ2部作」
・明石の戦死者マップ(東部編、中部編、西部編)
・明石の戦争遺跡マップ
・戦争体験映像記録ライブラリー

 1989年末から前任校の同僚たちと「戦争遺跡調査研究会」を作り、今に残る戦争の傷跡や戦時中の施設の後を追いかけている。戦争の遺跡は年月とともに風化し、消えていくものだが、意外に多くの「遺跡」が残っているのではないかという感触を得ている。それはそこに「単に残っている」のではなくて、人々の、戦争の跡形を「残そうする」意志と努力があるように思える。単に残されたもののみを掘り起こすのではなく、そのような戦争の跡形を残そうと努力してきた多くの人達の思いを記録していきたいと思っている。
 また、その遺跡にまつわる人々の思いもともに記録に留めていきたい。
 もう一つは、戦地に赴いてなくなった人々の思いを発掘できたらと考えている。
 今調査を始めているのは、戦後ソ連の捕虜収容所へ連行され、ウクライナでなくなった方の足取りと、どのような事情で亡くなられたのかを調べている。ちょうど1回目の調査が終わったところである。
明石の多くの学校で地域の教材を使って戦争と平和の学習ができるように、授業研究を深めるとともに、地域の調査研究を車の両輪のようにして進めていきたい。