魚住銀行


 明治5(1872)年11月、国立銀行条例が制定公布されました。銀行という用語が法令に用いられた初めであります。国立銀行という名称は、国家が直接設立した国営の銀行のような印象を与えますが、アメリカのナショナル・バンクにならったもので、業務は普通銀行と大体同じですが、それぞれが銀行紙幣を発行する特権が与えられました。その後、明治9(1876)年8月、国立銀行条例が改正され、銀行の設立と経営が容易となったので、明治11(1878)年6月、米沢長衛が明石第五十六国立銀行を創設したのが、明石地方における銀行のはじまりでした。
 明治28(1895)年11月に平野林蔵が株式会社明石貯蓄銀行(15万円)を、同30(1897)年6月に明石第五十六国立銀行は株式会社五十六銀行(30万円)となって創業し、同31(1898)年12月に丹田可作が株式・会社明石銀行(20万円)を、同年同月に神足浅三郎が株式会社明石実業銀行(30万円)を、同年7目に東二見の尾上清兵衛が株式会社二見銀行(10万円)を、同年1月に高砂本町の松本亀太郎が株式会社高砂貯蓄銀行(30万円)を、各地の有力者によって次々と設立されていきました。
 明治34(1901)年3月1日、魚住村の山崎藤治郎、山崎伊三郎、野口為之助、西海音助、山崎政助、野口由松、西海為助、野口藤治郎、山崎藤三郎の9人が発起人となって株式会社魚住銀行を創設し、魚住村ノ内中尾村八拾番屋敷ノ二に本店を設置しました。資本は7万円で、のち21万円に増資し、のち大久保支店が設置されました。
 明治38(1905)年上半期の株主総数は65人で、最多株主は265株、最小株主は1株でした。
 その後、昭和2(1927)年4月10日、株主総会の決議によって高砂銀行に合併されました。今も魚住銀行の金庫室の煉瓦塀の一部が、中尾の民家の一部に取り入れられて残っています。