父母・祖父母の戦争体験の聞き取り 

父母・祖父母の戦争体験・1
 お母さんの方のおばあちゃんは、もうなくなってしまって、おじいちゃんも先に亡くなっているけど、亡くなる前に私がおばあちゃんに聞いた話では、戦争中はお母さんはまだ生まれてなかったけど、その前に3人の子供がいて、その子供と一緒によく近くの橋の下に隠れていて、その時に近くで畑仕事をしていた人の背中などに、よく飛行機から飛んでくる槍みたいなものがブスッとささっていたと言っていました。それとおじいちゃんは、郵便配達の人で戦争中も配達をしていたので、靴の裏が真っ黒で焦げていたといっていました。
 お父さんの方のおばあちゃんの話では、おじいちゃんは陸軍の兵隊だったけど、体が病弱だったために、兵隊さんの食料係をしていたので、命拾いをしたけど、おじいさんのお兄さんは、戦病死したと聞きました。(3−7 M・M 女)

 小さい時お父さんも戦争について話をしてくれたことがある。お父さんが4〜5才の時、近くに小さな橋があって、その下へ家族の人や近所の人たちみんなでそこに隠れたと聞きました。お父さんは戦争も何も分からなくてどうして橋の下に行くのか不思議だったそうです。(3−7 Y・T 女)

 7月7日にB29がとんできて、まちがって明石海峡の真ん中にしょうい弾をずっと落とし、海の上が真っ赤に燃えた。2回目に船町辺りからしょうい弾をずっと落としていき、林町まで落としていった。ふとんをかぶり、海の中にもぐったり、防空ごうに入ったりしていた。明石川東側に造船所があり、軍艦が3つか4つが傾いたままになっていた。(3−8 I・T 男)

 父の方のおばあさんは、戦争の時、満州にいたそうです。当時子どもが二人いたそうですが、飢え・寒さのために死んでしまったそうです。ほとんどの子どもが死んでしまったそうです。
 母の方のおじいさんは、直接戦場に行って戦ったりはしませんでした。その代わりに日本軍の使う船を洗う仕事をしていたそうです。でも戦争の終わり頃になると、一緒に仕事をしていた人が、次々と戦場に送られるので、心配したと言うことです。(3−1 K・N)

 おばあちゃんが何かの用事で、加古川に行くとちゅうに明石で空襲で電車が出れなくなって、「明石公園に避難してくれ」と言われて、公園に行ったけど、電車が出てしまったら困ると思って、兵隊のいる横の木のかげから、赤ん坊のお母さんを背負って、明石駅まで行ったそうです。そうすると朝で空襲がやんで、「今のうちや、電車に乗れ!」という声でぎりぎり乗れたそうです。そして加古川についたとき、明石公園の方ですごい爆音と黒い煙が見えたと言っていました。そして、おばあちゃんのお父さんは明石で死んだと思ったそうです。死体を探しにきていたと言っていました。そしておばあちゃんが帰るとおお喜びしたそうです。(3−8 H・T 男)

 神戸市西区岩岡町秋田村に住んでいた母の話より
<配給>
・パイナップルの缶詰が配給された。
・切符で服などをもらった。
<交換>
・アブラナを持っていくと、なたね油と交換してもらえる。
・麦→パン
・大豆→豆腐
・よもぎ→せんべい なども。
<自給自足>
・しょうゆを自分の家で作っていた。
・さつまいもの干したものを焼いて食べた。
<回収>
・指輪などの貴金属を回収された。
<被害>
・寛政池に爆弾が3発ほど落とされた。
・防空ごうに入っていて、おさまってから外に出ると、黒煙が上がっていた。
・家の天井が落ちたり、傾いたりした。
・爆弾が落ちた家の人が下敷きになって、亡くなられた。
・学校の児童が勤労奉仕で、こわれた家などを片付けに行った。(3−4 O・M  男)

 少し前に聞いた話なんですけど、その当時32才で明石にいた向かいのおばあさんは、6/9の空襲の日、「明石公園に避難しろ!」と命令があったのに、逃げ遅れて、1人で別の場所にいました。そのおかげでおばあさんは今います。なぜなら、人があふれるほどいた公園だったので、空襲をうけて、大部分の人が死傷してしまって、逆に1人だったおばあさんは目立たずに無事だったそうです。(3−3 O・H 女)

 話は聞いていないけど、お母さんが前に言っていたことを書きます。
 おじいちゃんは、シベリヤに兵隊として何人者人を殺したそうで、戦争が終わったとき、位の高かったおじいちゃんは日本の兵隊に追いかけられたので、逃げ回っていたそうです。
 そして今戦争について聞いても、何も答えてくれませんでした。(3−4 N・T 女)

 おじいちゃんに聞いた話で、「おじいちゃんが戦争で、飛行機に乗って外国の方へ出て行こうとして、飛行機に乗ろうと思ったら、戦争が終わっていた」という少しおもしろい話だけど、(小3の時に聞いたからかもしれない)でも実際今は本当にあのとき飛行機に乗って行かなくて良かった」と思います。もしかしたらおじいちゃんがこの世にいないかもしれないから。(3−4 S・M 女)

 私のおじいちゃんは、満州へ行ったそうです。そこから中支と言うところへ行き、そこで右胸部貫通銃創といって、字の通り右の胸を鉄砲玉が貫通したそうです。そのため赤十字船で帰国したそうです。今ではその傷もすっかりよくなって元気です。(3−4 K・T 女)

 私は戦争の時のことはよく分からないので、お母さんにそのときの様子を少したずねてみました。お母さんは、当時3、4才で大阪に住んでいて、お金持ちだったそうです。戦争が激しく、防空ごうによく入ったり、のくりかえしで、不安だったので、いなかにうつって、何とか生きのびたそうです。
 戦争が終わり、戦争前のお金は価値がなくなったそうです。(3−7 O・E 女)