@旧弾薬庫跡

 地域住民に戦争当時の「弾薬庫跡」だと伝えられているもの。中にはつたのからまるレンガづくりの古い建物とコンクリートづくりの新しい建物がある。新しい建物は戦後の建築のようにみえ、また電気も引き込まれており、今もなにかの目的に使用されているようだ。

 大寺天王町下(神戸市伊川谷町)旧陸軍(?)弾薬庫跡を調査する。こんもりとした森の中に鉄条網に囲まれて、立ち入りを禁止されていた。
 一体何のためにこのような施設を作っているのかわからない。今でも玉津警察の巡査が見回りにくると付近の方はいうが、不審な感じがする。

A旧逓信省 明石受信所
朝霧の谷の上にそびえ立つ、三本の無線塔。かつて11本あったという。大蔵谷奥に住む高浜澄さん(60)は当時を振り返って、こう証言している。「当時、明石受信所といえば、近畿唯一の無線受信所でね。塔は11本あり、ハルビン、大連など大陸からの無線を受けていました。給電管が畑のまん中を走っており、牛が踏みつけるたびに、修理に走ったものです。(神戸新聞1989年9月26日 明石版)

B大聖寺11面観音像

C幹の折れたくすのき
明石公園稲荷曲輪石垣沿いで至近弾を受け、幹の折れたくすのき。45年目の今は変則的な枝ぶりを見せている。
 明石公園記録より
 第2回空襲、1945年6月9日午前9時54分、B2925機が3派となり来襲、500〜100キロ爆弾60個を、おもに明石東部及び川崎航空機工場付近に投下しました。この日の空襲では空襲警報発令時刻が出勤時になり、市内の人たちは公園に殺到しました。爆弾投下によって一町内会が全滅したといわれています。当時の警察の調べでは市内とも死者644名、行方不明者12名、重傷者248名、軽傷者345名、家屋全滅1221戸、半壊634戸、罹災者9426名に及んだ。
 第4回の空襲は6月26日午前9時51分から5分程度で園内には500キロ爆弾1個が児童遊園地(現在の陸上競技場)東南道路に投下されましたが、第2回空襲より被害は少なく、それでも死者184名を数えました。
 第5回空襲は7月7日午前0時15分から1時25分にいたる1時間10分にいたり、油脂焼夷弾を雨あられのように投下、戸数1万8千の町はたちまち火の海となり、市民は布団を頭からかぶって命がけで逃げまどい、海に川に堀へと飛びこんで火ぜめから逃れようとしました。園内では木陰を利用して退避していた消防自動車、乗用車、貨物自動車など約200台を焼きつくされて死骸となり、燃焼する油煙で両櫓は焼きつくされたと思っていましたが、世があけてみるともとの姿のままでした。(『明石の空襲』P.148)
 1945年6月9日の空襲
B2925機により、60発の
 明石公園では945年6月9日の空襲により、明石公園避難者269名、上の丸121名、太寺62名、その他181名の死者がでた。
  関連
 爆撃後3カ月後の明石公園を描いた林茂氏(兵庫県美術家同盟会員)の作品。
  樹木のほとんどが丸裸になったが、早や新緑が少しついている。(第4回同盟展出品作品より)

D大聖寺内川崎航空機明石工場ならびに川崎重工業明石工場内空襲慰霊碑
  戦後、川崎航空機はこれら犠牲者の霊を慰めるために、明石市山手の大聖寺に明石工場爆撃戦没者慰霊塔を建立した。毎年1月19日に会社の幹部が参列し、慰霊祭が行われることが川崎重工業となった今日まで続いている。また明石工場の中にも1988年10月に新たに慰霊塔を建立し、工場の全員が参拝し、その霊の安らかなることを祈っている。(川崎重工業『明石工場50年史』P.20より)
 当時学徒勤労報国隊員として機体工場で働いていた作家津本陽氏は、第2波の模様を短編「昭和20年1月19日」(徳間文庫『嵐の日々』)で次のように記述している。
 東の空にB−29が8機、傘型の編隊を組んでこちらに向かっている。日を弾いて眩しく銀色に光る機体が、これまでになく大きくはっきり見えるようである。(中略)
 僕は皆となだれを打って壕に駆けもどり、人糞があることも忘れ土間に伏せた。
 厚鉄板を頭に乗せ、その上からハンマーで乱打されるような堅い弾着音が、指で栓をした耳につきささり、はじめて聞く死神の足音に僕は身内を凍らせた。(中略)
 しつこく続いた槌音がとだえ、地面が揺れやみ、辺りに静けさが戻ってくると、僕は起きあがった。皆は壕を出て丘の上を駆け上がっていく。僕も砂地に足をとられながら斜面を登った。
 工場が、沈没しつつある軍艦のように、各所から煙をあげるのを、僕は信じられない思いで眺めていた。診療所から天に沖して噴きあがる黒煙が目につく。煙の中に炎がまじっていた。
 溶鉱炉のある第8工場も、灰色の煙をさかんに吐いている。結構第4工場は、屋根や壁のスレートがなくなり、鉄骨が見えていた。

 この日、「計63機のB−29が2万6000フィートの高度から610発、154トンの爆弾を投下、その23%が目標の330メートル以内に命中し、建物面積の38%に大損害を与えた」(米第20航空軍のリポート)のであった。
 この爆撃で263人(男162、女101、うち学徒16名)の死者が出た。


E川崎重工業女子寮跡近くの防空壕
明石の斎場である和坂の火葬場の横に谷池がある。ここには50以上もの防空壕が掘られ、川崎航空機学徒勤労報国隊や女子挺身隊の避難壕として利用された。

川崎航空機明石工場は、1942年5月、重要事業場労務管理令による指定工場となり、従業員確保に優先順位を与えられた。徴用工も増える一方であった。国鉄山陽線で通勤するものが多くなり、その便宜をはかるため工場近くに駅を開設する必要が生じ、42年西明石駅が実現された。
 また、工場労働も男子だけでは間に合わなくなり、女子挺身隊を受け入れることになり、42年12月にその第1回入所が行われた。
 44年には軍需会社法にもとづく徴用が全面的に行われ、国民勤労報国協力令による期間を決めた各種勤労報国隊も入ってきた。44年功班には学徒勤労報国隊や女子挺身隊が動員された。
 明石機体工場では、4500人をこす男女学生が、1週間の訓練を受け、各工場へ配属された。
 44年9月からは従業員の慰労休暇(有給休暇)も停止された。
 このような労働力動員により、明石工場で働く人は、ピーク地の4年12月には3万8,000人にのぼった。(川崎重工業『明石工場50年史』P.16より)

 45年1月19日の空襲で川崎航空機明石工場では263名が死亡した。内訳は男162名、女101名、うち学徒16名、女子挺身隊8名である。死亡者の年齢構成は、10歳代は16歳から死者がでており56名(  %)、20歳代は80名、30歳代は48名、40歳以上34名の死者である。年齢不明が他に45名ある。死因は圧死が210名で圧倒的に多い。
 負傷者は107名(男72名、女35名)で、重傷48名、軽傷59名である。年齢構成は17歳から30歳までの青少年層が63名で  %を占めている。(明石空襲の碑をつくる会『明石の空襲』p.150より)
 川崎航空機工場は明石公園近くの茶園場に「明石防毒工場」を設置していたが、ここでも45年6月9日の空襲で明石公園に待避していた従業員に死傷者を出した。(川崎重工業『明石工場50年史』P.22より)


F山陽電気鉄道株式会社の慰霊碑
 山陽電鉄西新町駅北側の道を西へ約300メートル行くと8階建のマンション明石ハウスがある。
 そのマンション東側に「空襲犠牲者之碑」がある。間口約4メートル、奥行き約10メートルのスペースには美しいコンクリートの敷石が敷かれ、黒御影石のモニュメントがはめこまれている。西側の壁面にやはり黒御影の碑がはってあって犠牲者31名の氏名が刻みこまれている。
 一方南側には植え込みを前にして、建立の趣意が同じ石に刻まれてある。
 その碑文は、建立者の山陽電鉄会社と山陽電鉄労働組合の連名で、大要次のように述べられている。
 「1945年6月9日、9時45分米軍B29は飛来して爆撃し、電鉄車両工場で働いていた31名の尊い命が失われた。……犠牲となられた尊い御霊の御冥福を心から祈念すると共に、私たちは平和を守ることを固く誓って、これを建立する。1978年8月15日」とある。(明石市芸文センター『私の戦争体験記』P.97より)


G身代り地蔵
(川崎航空機明石工場飛行場跡)明石市貴崎1丁目
 1973年夏のこと。川崎重工業明石工場の南、住宅街との境の市道で空襲でなくなった動員学徒の亡霊が出るといううわさが広がった。
 そのうち、近くの主婦で、実際に見たという人が次々と出はじめる。うわさはうわさをよび、ついには新聞に報じられるまでになった。「長ズボン、長ソデカッター、丸坊主の中学生の男の子と、半ズボンの子供だった。」(73年8月3日神戸新聞より)長い工場のヘイが連なり、人っ子一人いない道を、動員学徒ふうの亡霊が、すっと歩いたという。
 「この付近で多くの学徒が亡くなった。亡霊は子の学徒だろう。私たちで供養しよう」主婦たちは、この場所に「みがわり地蔵」を建立した。
 「昭和20年1月19日、6月9日の空襲により、かけがえのない青春を散らした動員学徒及び一般従業員の霊を慰めるため、ここに地蔵尊を建立す。合掌。昭和48年9月1日」と記されていた。寄金の名札には旧和歌山市立高女動員学徒代表、岡山県倉敷市の11人、金沢市などの人たちの名がみられた。全国から集まった多くの人が、戦争のために命を散らしたのだ。

H宝蔵寺の大仏
I谷さん方の防空壕
J下溝地蔵尊
(高射砲台跡)
K焼け焦げた杉の木
L忠魂碑
(市内5カ所)
M明石空襲の碑
 1985年6月9日(?)明石空襲40年目に犠牲者の鎮魂と平和への誓いを込めたてられました。明石市内外の730余りの個人団体から醸金が寄せられた。毎年、6月9日には碑のまわりの草かり清掃と慰霊祭が行われている。(らしい?)
N錦城中学校内ソテツや梅など
  上田さんの二人の娘さんはこのあたりで亡くなられた。その供養のために、ソテツや桜・梅などを学校に寄贈されたという。(『明石の空襲』P.71)