日清戦争
末期清朝の国家機構は腐朽し、軍に対する統帥機構や指揮命令系統も前近代的でした。銃の数さえ全陸軍兵力の三分の一にしかあたらず、輸入された銃は種類・口径・性能がまちまちで、したがって弾薬の補給も複雑とならざるをえません。もっとも優秀とされた北洋艦隊の提督丁汝昌ももとは陸軍の軍人で、艦隊を教育したのはイギリス海軍の士官でした。軍艦は全部イギリス等
から輸入されたものです。日本はすでに述べたように一八八二年(明治一五)から対清戦備を目ざした軍備拡張計画に取りくみ、帝国議会開設後には在野党の抵抗を押し切って実現してきました。戦略単位としての七師団体制、火砲の充実、工兵・輜重兵の画期的拡充、野戦病院の準備が進み、当時の主要な兵器だった小銃はすでに国産の村田銃で統一されていたのです。まださまざまの弱点をもっていましたが、陸軍は優勢の自信をもっていたようです。
それにくらべると海軍の軍備は清国海軍にくらべかならずしも十分とはいいきれません。とくに三〇・五センチ主砲四門をつんだ七三三五トンの清国の甲鉄砲塔艦定遠・鎮遠に対抗する日本の新鋭艦は松島・厳島・橋立の三景艦とよばれた海防艦で、各三二センチ砲一門をつんでいたにすぎません。ただ速力は三景艦の方がまさっていました。日本海軍には攻撃力重視の思想があり、トン数に不似合いな大きな大砲をつんだため、三景鑑も主砲を旋回させると艦体がかたむいたといわれます。日本は清国の北洋海軍にほぼ匹敵する艦隊をつくり上げていますが、宣戦布告前の七月二五日におこった豊島沖海戦は一応の勝利といえるものの、敵艦の数もすくなくそれほどの戦果をあげたわけではありません。やはり八月一七日の黄海海戦が本格的な海戦で、日本が勝利しますが、日本艦隊が単縦陣、清国艦隊が単横陣でたたかい、以後世界の海軍は単縦陣を有利とする常識が確立したといわれますから、戦法では日本がまさったようです。ただし清国主力艦の三〇・五センチ砲の威力はものすごく、それにひきかえ日本の三二・五センチ砲は一発も命中しませんでした。結局、日本艦隊の勝利は平均速力が二ノット速かったことと、数の多い中口径の速射砲の威力のせいだったといわれます。とにかく黄海海戦の勝利で清国海軍は大打撃をこうむり、旅順口と威海衛に分散して逃げこまざるをえなくなりました。黄海の海上権をにぎったことで、それからの陸兵の海上輸送は安全となり、陸戦の勝利を確実にします。
話は前後しますが、朝鮮に派遣された日本の混成旅団は、七月一九目に日本政府が清国政府に「絶交状」を発した同日に、清国軍が兵力を増強した場合には独断で攻撃を開始することを許されていました。こうして牙山から成歓に前進する清国軍と最初の武力衝突となり、日本軍が勝利します。その時の両軍の実質兵力は日本軍の方がややまさっていました。それから第五師団はじめ日本陸軍はぞくぞく朝鮮・満州に上陸します。日清戦争を通じて主要な会戦とされるもので、日本軍は平壌戦を例外として、いずれも兵力で清国軍にまさり、平壌戦でも火砲は日本軍の方がはるかに有力でした。旅順口・海城等の攻略戦でも同様です。
このような日本陸軍の戦勝は国内鉄道網の整備が進んで、兵力の動員がきわめて短期間におこなわれたことが決定的要因でした。陸軍は一たん大本営のある広島に集められ、外港の宇品から大陸の必要地点に送られました。日本は攻撃的に朝鮮・清国の各地に軍事力を集中します。攻撃地点は日本軍がえらぶわけです。防衛する側の清国軍はそれに対応するだけで、いつも後手にま
わってしまいました。鉄道が敷設されていなかった清国では、兵力の動員と集中に時間がかかり、日本軍側が設定した戦場で劣勢とならぎるをえません。清国軍の海上輸送はすべてやとい入れた外国の汽船にたよっていましたが、日本軍の輸送はすべて自国の汽船でおこなわれました。清国軍の主力はほとんど陸上で長距離を移動したのです。こうして大国である清国はその陸海軍を有効に集中することができずに敗戦をかさねます。
(中略)
(『大陸侵略は避け難い道だったのか』岩井忠熊著,かもがわ出版)