地域からナガサキへ 

学びのための旅立ち

『楽しくわかる中学社会科の授業 別冊』所収論文,あゆみ出版刊

実践の特色

(1)ナガサキへの修学旅行と地域の戦争の学習を結びつけ、地域・ナガサキ、さらにアジアを貫く視点を育てる。
(2)ナガサキの班行動を通じて、能動的な学習方法を身につけさせる
(3)討論を通じて、共同的・集団的な学習方法を身につけさせる。

《1》学びの旅への出発……教師の共通認識をどう作りだすか

 教育実践は、行事を始める前からすでに結果を見通して目的意識的に生徒に働きかける。教師は行事を終えた後までの見通しをしっかり持つことがとりわけ大切だ。それは「夢」といってもよい。夢やロマンのない教育は不毛でもある。
 しかし、今、教師にとっても修学旅行が見えてこない。旅行社のお仕着せの修学旅行に流されて、その意義を失いがちになることも多い。「旅行は3日間十分楽しめばよいのだ」、と考える向きもある。だからこそ今一度、教師集団で、修学旅行の意義を討議し、「夢」を語り合うことから取り組みを始めたい。私たちは、「修学旅行を実施するにあたって」と題した提起を受けて学年会議で討議を行った。

 いよいよ修学旅行です。修学旅行の先にあるものが見えなくて困っています。3年生になって、修学旅行を楽しみにしている生徒が多いので、その楽しみの質をどう高められるかがポイントになると思います。今までの行事に対する取り組みの中で『行動面』に力を費やした感が強いのですが今回は『行動面プラス学習面』に力を注ぎたいです。これまでの行事の集大成としての位置づけを強く生徒に求めながら取り組みを展開したいものです。

こうして私たちは「ナガサキへの学びの旅」の取り組みをスタートさせた。

《2》ともに夢を語ること……こんな修学旅行にしたい

 中学校の修学旅行は班行動が多いと言われた。小学校のときは真珠島の狭い範囲だった。でも昨年3年生は長崎市内を班行動したらしい。両方とも修学旅行というけれど、スケールが違う。当り前かもしれないけれど、中学校の方が大きい!
 それだけにしっかり計画を立ていかないといけないと思う。何でも適当にやったもの、例えば数学の問題。適当にやり終えた後より、一生懸命やり終えた後とどっちがいいか。やっぱり一生懸命やったほうが満足感があって『ああ、この問題は忘れないだろう。』と思うと思う。
 私たちの修学旅行はひとり一人がそういうような満足感を味わって、中学校生活最高の行事、思い出にしたいです。(K・M 女)

 これは修学旅行実行委員会の生徒が「こんな修学旅行にしたい」と書いてきたものだ。生徒は生徒なりに「楽しい」旅行を求める。しかしただおもしろおかしい旅行を求めているのではなく、やり遂げたあとの「満足感」を得られるような旅行にしたいと彼らなりに修学旅行を意義づけている。
 私たちは生徒実行委員会を2年生の3月中にいち早く組織し、修学旅行の目標、日程・時程、持ち物、クラスの組織(班編成、係)、3年生になってからの取り組みの検討などかなりの部分を生徒に考えさせていった。旅行の日程さえも旅行会社とともに作った原案を生徒実行委員会にかけた。旅行の内容も生徒と共に検討できるような時間的余裕をつくっておいた。教師が描いている夢やロマンを生徒とも共有したいからだった。
 生徒実行委員会での討議事項は、学年集会を持って生徒全体に問題提起される。実行委員会からの提起に対して質問、意見発表、討議するも保障した。
 学年集会の隊形は「花びらの隊形」といって、各クラスの委員長を花びらの中心にして、1班から6班が花弁のようにその回りに丸く座るのである。中心の委員長が手を挙げて、各クラスの発言権を獲得する。発表はクラス競争になっており、発表毎に各クラスにポイントが加えられていく。このときの集会の討議のテーマは、「個人(家族)の旅行と331人の旅行の違いを考えよう。」というものであった。
 私たちは1年生のときからゲーム集会を通じて、まともに討論できる学年をつくろうと徐々に鍛えてきた。今まで何回か学年集会で論争をしてきた。花びらの隊型で「いりますかいりませんか」(リーダーが隠し持っている品物は海水浴に必要なものかどうか、学級で話し合ってすばやく○×を決め、正解であれば学級にポイントが与えられる)また、「A先生とB先生はどちらが若いか?」「カルタ大会で改善して欲しいこと」を話し合い、行事にも彼らの意見を出させていった。
 300人以上の学年集団が班討論、全体討論を繰り返しつつ話し合う経験を積み上げることが社会性を育て、そのことがまた社会認識を育てる基礎になっていく。

《3》近くから遠くへ……地域の戦争の歴史を深く学ぶ

 ナガサキへの旅が学びの旅となるために、教科教育の果たす役割は大きい。なかでも社会科教育がその中心をになうことはいうまでもない。だが、その時に、他の地域の戦争が、自分の住んでいるこの地域とどうかかわっていたのか?過去の戦争が、現在の自分や現在の日本とどうかかわっているか?この視点を欠かしてはならない。
 ナガサキへの修学旅行を準備する際、私たち教師はナガサキの被害を詳しく知り、子どもたちに伝える努力を十二分におこないつつも、それにとどまらず、地域の戦争の荷担と抵抗、被害と加害の事実についての認識をもっと深め、子どもたちに伝えていかねばならない。なぜならば中学生はまだまだ自分や自分の地域との関わりの中で他者の戦争体験や他の地域の戦争をとらえ、日本や世界全体の戦争と平和の認識に到達するからだ。
 地域の兵士がどこで戦い、どこで死んでいったか、アジア全体に広がる地域の戦死者の地図、戦時中の国民生活、地域の空襲の被害、地域に住んでいた朝鮮・中国の人々の生活、同じ年頃の子どもたちの生活文化、地域の(あるいは自分たちの学校の先生の中の)空襲体験者、地域の被爆者、地域の戦争反対者・抵抗者、このような人々の体験談や収録ビデオ、テープなどによって、生徒の認識は一段と深められるであろう。自分につながる父母・祖父母からの聞き取りや地域に残る戦争遺跡の調査などもあわせて行いたい。
 戦争は自分の地域でも行われていたし、その戦争の荷担・抵抗、加害・被害の体験者が自分たちの身近な地域に今も住んでいるという認識。つまり、「近く」と「遠く」が結びつき、「過去」と「現在」がつながっていく。この思考を繰り返すことによって、今ある事実や問題は歴史的に形成されてきているのだという認識に到達する。やがて子どもたちは自分たちが歴史に生き、歴史をつくりゆく主体であることに気づくだろう。彼らの歴史意識は自分が生きるべき未来へと広がっていく。

《4》みんなでみんなを……ナガサキを多面的にとらえる学年授業

このような学習は、社会科教育がもっぱら担うべきであるが、他教科でもまた「道徳」や学活の時間などでも進められていく。私たちは「学年授業」と呼ぶ2時間連続の授業を行った。ナガサキそして核兵器を総合的に学習する機会をもうけ、理科・社会科・国語科の3教科合同の「学年授業」だ。理科は阿蘇など火山の学習とともに、通常爆弾そして原水爆の威力の比較について学習し、また国語科は方言の学習などとともに、永井博士の『この子を残して』の朗読を行った。社会科では、原爆の被害をパネル、被爆瓦の実物(ヒロシマ・ナガサキとも)、学習係で製作した、実物大「ファットマン」などを示しながら、熱線、放射線、衝撃波などについて説明し、戦後何回か原爆使用計画があったが、そのつど世論の力によって阻止してきたことを伝えた。核戦争は不可避ではなく、人々の世論を高めることで必ず防ぐことができることを強調した。
 学年授業は、「学年教師、みんなでとりくもう」と取り組みが一段と広がる効果を生んだ。教師も学習しつつ生徒に教えることで、教師自身のナガサキへの認識が深まっていくよい機会となった。

《5》口先だけではない戦争反対……心ゆさぶる視聴覚教材

 視聴覚教材として、今までにも子どもたちに「人間をかえせ」「おこりじぞう」などを鑑賞させてきた。長崎を舞台にした原爆の劇映画は「この子を残して」と「せんせい」のふたつぐらいしかなく、選択に困ったが、私たちは「せんせい」(大沢豊監督)を選んだ。
 原爆の被害は決して過ぎ去った日のできごとに終わってしまうのでなく、今も生き続け、人々を苦しめ、さいなみ続けているのだと言うことを分からせたかったためだ。そして身近な学校が舞台になっていることも選んだ理由の一つだった。

口先だけのものではない戦争反対・核兵器反対

 今までの予想をはるかに上回っていた原子爆弾、本当に何の罪もない人々の尊い命が一瞬にして消えてしまう。今まではどんなものなのかと言う事をはっきり知らなかったが、今日の映画でしっかり頭に焼きついた。何十年と月日が流れたにもかかわらず、まだ、多数の人々が苦しめられていると言う、あのにくたらしい原子爆弾。広島や長崎で直接原爆を受けた人々は、どんな思いで亡くなっていったのだろう。どれほど戦争をうらんでなくなっていったのだろう。僕たちには考えもつかないだろう。
  しかし、現に僕も戦争をうらんだ。
 今年の1月、僕の祖母が亡くなった。原因は、「白血球減少症」のために一般の人よりガンの進みが早く、全身のあらゆる所にガンが転移したためであった。しかし、元をただせば被爆によるものであった。入院中、お見舞いに行くのが本当につらかった。自分の目の前で苦しんでいるのに、何もしてやれないのが本当に本当につらかった。生まれて初めて、本当に苦しんでいる人の姿を見る悲しみの中に、「『原爆』という一つの核兵器が、こんなにも人を苦しめるのか」という怒りがあった。
 「戦争反対・核兵器反対」これは、今の僕の気持ちである。決して口先けのものではない。(M・T 男)

 この生徒作文は、祖母を失った悲しみを怒りにかえて、「戦争反対・核兵器反対」これは、「決して口先だけのものではない。」と未来への強い決意を語っている。生徒の意識は、未来の自分の生き方へと飛躍している。

《6》ぼくらのでっかい移動教室……出会いをつくる班行動

 行事を取り組んでいく中で子どもたちは、社会認識を育てていくが、特に認識の主体化の面では大きな効果をあげる。教室の中だけの学習では得がたいものだ。戦争や平和の問題を他人事、よそごとととらえず、学んだことがその後の自分の生き方を問うような質を持った学習になりやすい。ナガサキでの班行動に私たちはそれを期待していた。
 修学旅行1日目の午後、長崎到着後すぐに国際文化会館を見学した。ぼろぼろの服、溶けてただの塊になったガラス瓶、様々な写真、子どもの詩……。バスに戻ってきたときの生徒たちの感想は、「もっとすいてるときに、ゆっくり見たかった」だった。
 その夜、宿舎で被爆者の谷口さんに講演していただいた。小柄だけれど、特に変わった様子のない谷口さんが、午後に国際文化会館でみた、背中が焼けただれた写真の少年であると知って、生徒たちの目は、ますます真剣になる。被爆したときのこと。意識はあっても、生きていることを伝えられず、死体のように二昼夜、放っておかれたこと。背中の火傷のため、うつ伏せのままだったその後の数年間。背中が腐り、溶けて流れたりしたこともあったこと。何度も何度も、死にたいと思ったこと。そして、現在の谷口さんの、平和を求めての活動のこと。たくさんのことを学んだ。
 その翌日、平和公園で、集会をもち、平和の誓い、献花、千羽鶴を捧げた後、4時間余りをかけて、グラバー園まで市内を班別行動した。
 オリエンテーリングのように、ただ、チェックポイントを通過するだけにならないだろうか、また事故やトラブルにまきこまれないか。私たちの杞憂をよそに子どもたちは、土地の人たちと話をしたり、赤い折り鶴の家を訪ねたり、長崎でしかできない学習をした。ある班はナガサキ人々との出会いをこう綴っている。

「被爆者についてもっと知ってください」

 赤い折り鶴のマークの家で話しました。僕たちがやっと、赤い折り鶴の家を見つけて、そこに人がいたので、詳しく聞こうというふうになりました。「すみません。このマークはどんな意味なんですか。」僕たちがいうと、そこにいたおばあさんは、少し笑って、「これはね、長崎は被爆地でしょ。だから、『被爆者についてもっと知ってください。そして、協力してください。』っていうマークなのよ。」と答えてくれました。それからおばあさんは、自分が三月に結婚して長崎にきたこと、三月だから被爆手帳がもらえないことを話してくれました。最後に「どこから来たの?」「兵庫県の明石市です。」「ずいぶん遠くから、ご苦労なことで……。とにかくこれは『協力してください』っていうマークなのよ」と話しをしてあいさつをして別れました。やはり明石にいてはできない大切な学習を、僕たちはしたように思います。(H・Y男)

 この作文にみられるように、生徒たちは自らの課題を持って、自主的に人々との出会いを求めて活動し始める。
 班行動が成功するためには、事前の学習準備と1年生からの3年間を見通したうえでの準備がとりわけ大切である。私たちの場合、やさしいことからむずかしいことへと、1年生で大阪吹田の国立民族学博物館見学、館内の班行動。2年生では、飛鳥での班行動。ともに説明板のメモとともに美術科でスケッチ絵はがき作りをするなど表現活動を取り入れた。また、夏休みを中心にした「平和学習」の取り組み、文化祭での劇『花火』(林黒土作)、合唱構成劇『平和の旅』(原作:渡辺千恵子、作詞作曲:長野靖男、松下進、園田鉄美、松永真司)、被爆都市ヒロシマナガサキの発表、展示を繰り返し行ってきたが、その成果が3年生で修学旅行旅行で試されるわけだ。
 私は、自ら問いかけ学んでほしいとの願いを込めて、ナガサキへ旅立つ1週間前に、学年通信で生徒に次のようによびかけた。

 通りすぎてしまえば、原爆病院もただの病院であり、片足鳥居やモニュメントもただの石や金属でしかありません。建物や石は、決してあなたに語りかけてはくれません。長崎の街は、あなたがしっかりとした『見る目』を持って歩かないと、片隅の石が持つ嘆きや悲しみ、怒りや願いを見すごし、聞き逃してしまうことになります。
  『長崎は祈りの街です』と先日の映画で語られていましたが、私たちにとって長崎は戦争と平和について考える街でなくてはなりません。長崎の街は私たちのでっかい移動教室であり、学ぶことの多い教科書なのです。この街をオリエンテーリングのように足早に通りすぎないでください。五感すべてで長崎を感じてください。

《7》 おわりに

 ナガサキへの旅が「学びの旅」となるためには、教師集団が教育と陶冶の両面にわたって、3年間の見通しのなかで学習のための教材や行事を準備し、集団思考の方法を鍛えていく必要性を強く感じている。
 地域の被爆者の方との交流、地域の中国・朝鮮・アジアの人々の交流を進めることは今後の課題である。