村から見た明治維新
明治に入ってからは、明治維新を村から見た教材づくりをした。
私の教材づくりの観点は、やはり当時の民衆がこの一大変革期に何を感じ、どう行動
しただろうか、ということである。 ここでは,班で意見をつのってみたい。
ここは明石のお隣の国摂津の国八部郡西尻池村(現神戸市長田区西尻池町)。
鳥羽伏見の戦いのあと、1968年1月、新政府からは東久世通禧や伊藤博文が赴任
し、兵庫のあたりには長州藩兵約100名、薩摩藩兵約200名が進駐してきた。29
日には、旗本鈴木茂左衛門の領地であった神戸西尻池村に次の様な通達が庄屋である甚右衛門の手元に届いた。それには……、
「今度の御一新は、下々の者たちの苦しみをおすくいになるのが新政府の考えであって下々の者の言うことであっても、何でも聞きとどけるので何事によらず申上げるように。
そして、物価の値上がりで下々の者は、なおさら困っているので、けっして値段のつりあげを行ってはならない」(1月29日)と書かれてあった。
戊辰戦争の帰趨がまだ決していないこの時期,2度も同様の布告が出されている。この布告を生徒たちの問いかけにしてみる。
江戸時代にとってかわったこの新しい明治政府は,「下々の者の言うことであっても,何でも聞きとどける」と言っているけど,農民たちが一番望んでいたことは何だろう。農民たちにかわって一言いってやろう!班ごとに,意見を一つ以上出してみよう!
当時の農民たちの一番の関心事は、「この度の御一新で年貢はどうなるのだろうか?」に違いない。
その年貢について,いわゆる「年貢半減令」が一時出されていた。「当年の租税は半減にし,去年未納の分も同様にする」(西郷隆盛)これを『少年少女日本の歴史』(小学館)から紹介しておく。
実は西尻池村には、去年にまだ納めていなかった年貢米が37石とお金で525両が村の蔵に保管してあった。しかも村人たちは前領主である旗本鈴木氏に100両ものお金を貸していたのである。
そこへ新政府は,年貢代金の525両を差し出せと命令してきた。去年の年貢を差し出すべきか?
・やむをえないという人?
・出したくないという人?
・絶対,出さないぞという人?
西尻池村の農民たちは,せめて立替金の100両を返してほしいと要求する。そこで農民たちは、「上納する525両から100両を返してもらいたい」と願い出た。
どうかな?この農民の要求は,ちょっとあつかましいかな?出して当然の要求かな?
・ちょっと「あつかましい!」と思う人?
・ 「出して当然!」と思う人?
新政府は、この去年の年貢米とお金をどうしただろうか?
私が生徒に提示した選択肢は、次の通りだ。
ア.ここ数年、凶作が続き、村は困り果てていたので、全部納めなくてもよいことに
なった。
イ.年貢半減令によって「去年の年貢はお助け米として半分は村に与え、今年の年貢も半分にする」と約束してもらい、半分だけ納めた。
ウ.現金525両のうち、元領主の旗本鈴木藻左衛門に貸していた100両は村に返してもらい、残り425両と年貢米37石は、新政府に納めた。
エ.「とにかく全部納めよ!」と命じられ、「心配だが、納めざるをえまい」と思い全部新政府に納めた。
オ.「年貢の納入を半年以上も遅らせるとは不届き!」と責められ、三分(3%)の利子をつけて納めさせられた。
生徒たちの予想は、農民たちの願いにそって、イやウの意見が多いのだが、歴史の事実は意外にも、エの全額を納めさせられたのであった。
さらに赤報隊の相楽総三は3月3日に処刑され、『御一新がこんなことでいいのか』と『夜明け前』の青山半蔵はつぶやくのであった。
まず御一新というと,なんでも新しくなるに違いないはないが,ここが下々の者の心得違いの出来そうな所じゃから,よくよく話して聞かす,とっくりと聞くがよい。さて一新というとちょっと考えると,手の裏をかえすか,または暗い夜がにわかに白日にあうように明るく,昼になるのも,にわかにはならぬ。
『御諭書』にはこう記されている。
この教材で,明治維新によって「かわったところ」と「かわらなかったところ」が明らかになるのではないだろうか。
3月の末,庄屋の藻左衛門のもとに「五ケ条の御誓文」が回達されてきた。その2日後,各村は高札の板5枚を作成して,兵庫裁判所へ持参するように指示を受けた。5枚
というところからみると,おそらく「五榜の掲示」のことであろう。
この二つをくらべて「かわったところ」と「かわらなかったところ」を,発表させてみたい。
五カ条の御誓文
一 広ク会議ヲ興シ,万機公論ニ決スヘシ
一 上下心ヲ一ニシテ盛ンニ経綸ヲ行フヘシ
一 官武一途庶民ニ至ル迄,各其志ヲ遂ケ,人心ヲ倦マサラシメンコトヲ要ス
を禁ずる。
一 旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クヘシ
一 智識ヲ世界ニ求メ,大イニ皇基ヲ振起スヘシ
五榜の掲示
二 何事によらず,よくないことを大勢で申し合わせ(徒党),徒党して強いて願い事を企て(強
訴),申し合せて町や村から立ちのく(逃散)の
三 切支丹宗門のことは,かたく禁止する。
地域の史料から,裏切られた「もう一つの明治維新」が見えてくる。
授業は、明治初期にふたたび盛んになる農民一揆から自由民権運動に連なっていく。
その他にも、多くのクイズ的な問題を生徒たちに出していった。たとえば……。
◎明石藩は、親藩大名だったが、戊辰戦争の上野の戦いのとき、幕府軍、新政府の
どちらについて戦ったか。
ア.幕府軍 イ.新政府軍
◎明治になったら親藩大名の明石藩の大名は、どうなったんだろう。
ア.幕府に味方したので、捕まえられて、死刑にされた。
イ.責任を取って、切腹した。
ウ.反逆罪にとわれて、島流しになった。
エ.ひきつづき明石を治めた。
オ.大名をやめて、他の仕事についた。
◎1871年7月14日明石藩は明石県になった!これホント!?ウソ!?
ア.ほんと! イ ウソ!
◎1873年、「廃城令」が出た!さて明石城の運命は?
ア.イギリス人が公園にしたいから、30年間貸してほしいと願い出てきたので、貸してやった。
イ.城はつぶして小学校をつくる材木にした。
このように地域の教材は、教科書の記述を補い、授業を豊かにする。地域の歴史を調べることは、教師自身の楽しみでもあり、この喜びがあればこそ、授業にも熱が入ろう
というものだ。
自ら歴史に問いかけ、学ぶ姿勢なくして、どうして生徒たちに主体的な学習を保障しえようか。これを自らの戒めとして、生徒たちと悪戦苦闘する毎日である。
参考文献:『神戸の歴史』(神戸市発行)bS「村から見た明治維新」木南 弘
『歴史と神戸』bS3「明石特集」 黒田義隆