48年目の広島
私はいままで人の前で話をしたことがないのですけれども、是非、皆さん方に聞いていただきたいなという思いできました。
先生から話がありましたが、今日は広島に原爆が落とされて48年目なんですね。今日は原水爆禁止のイベントが広島で行われています。広島市自体も平和の式典を行っています。私も2度ほど広島へ参りました。原爆が落とされた日もこんな暑い日だったんだろうなと思いながら歩きました。
広島には、みなさん方のような学生さんが軍需工場で働いたり、また捕虜の人が働いたり、朝鮮人などは強制的に連行されて働かされていた、そんな人たちの慰霊碑があちこちにありました。そこをずーっと回りながら、歩きました。
忘れられない1月19日
今日は、私が「川崎航空機製作所」当時そこで働いていた時のこと、昭和20年の1月19日、この日の爆撃のことを、私は忘れることができない出来事でした。
いまみなさんは平和な時代にいたら、戦争のことなど、おかあさんおとうさん、おじいさんやおばあさんから聞かれているかどうかわかりませんが、平和ということほどありがたいことはないのですね。みなさん、お金が大事だとか、お金がほしいとか思っているかも知れません。そんなことはないんですね。命の次に大事なのは、お金ではありません。平和です。
学校でスポーツをするにしても、何をするにしても平和だからできるんですね。老人の人がゲートボールをする、いま当時のことを忘れて、いろいろなことができるのも本当に平和だからですね。
私は、尋常高等小学校を卒業して、家の仕事を手伝うということを考えていたんですが、そういうことも許されない状況になっていたんです。
「白紙」といって、白い紙で印刷してあったんですが、どこどこで働きなさいという命令がきたんです。僕はそんなところで働くのは、いやです、ということはいえないんですね。そんなことをいっても、結果的に連れていかれる、そんな時代だったんですね。引っ張られていったんですよ、子どもであってもね。
そして私は川崎航空機で働くことになっていたんですが、二見から行けば工場はそう遠くありません。通えるんですね。それでもいまの明石の市民病院のところに紡績の女工さんの寄宿舎があったんですね。そこが徴用工の寝起きするところに指定されて、そこから川崎航空機の工場まで通っていたんですね。私たちはどうして家から通えないんだろう。どうしてかなと思っていたら、だんだんとわかってきたんです。そこで寝起きさせることによって、まったく軍隊と同じ生活をさせようとするんですね。軍人勅諭から、敬礼の仕方、おいっちに、おいっちにと門を出たり入ったりする訓練など軍隊と変わらないことがおこなわれていたんです。
工員たちは遠いところからもきていました。西脇、但馬などからもきていましたけれども、みんなそこで寝起きをして工場に通っていました。
15年戦争の間、13年ぐらいは外国での戦争だったんですね。だから実際に戦争の悲惨さとか、そう言ったものはあまり感じないで暮らしていました。
そしてだんだんと戦火が沖縄に及び、やがて川崎航空機の工場にもB29の偵察機がくるようになったんです。その時には警戒警報のサイレンがなると、「警戒警報!避難体制にはいれ!」というようなことが流れるんですね。そういう時は避難する場所が決められていたんですね。私の職場は林崎の浜、あそこへ避難することになっていました。女子挺身隊、学徒挺身隊、和歌山の粉川工場の方がきておりました。そういう人たちは明石公園の方へ避難をしました。けがをした人を救護する救護班だけが、工場のなかで待機していました。そして6回目までは、「警戒警報解除!」でまた仕事につく。ところがそういう避難する時間がもったいないと、飛行機の生産を長く行うために、今度からは警戒警報が出たとき、工場内待避にすることになりました。柱をたてて土を持った防空壕がたくさんつくられていました。
そして1月19日にまた警戒警報がなったんですね。工場内待避ということで、みな職場の工場内にある防空壕に入ったんですね。ところが突然「場外待避!」と切り替わったんですね。「ひゅる、ひゅる、ひゅるー!」という音とともに、爆弾が工場のあちこちに落ちてきました。「どーん、どーん」と爆発し、無我夢中で逃げました。工場の端まで一目散に走り出すと、「伏せ!」という誰かの声で伏せたんです。そしてふと工場の方を振り返ると、もうすでに爆弾の土煙、工場におかれていた飛行機などが、バラバラになって飛び散っていました。その様子を見てまた一目散に必死になって浜の方へ逃げました。
B29は本当に照準が正確であったのか、爆弾は浜の方には落ちずに、工場の中に落ちました。その時、アメリカの戦闘機、グラマンというのが来ておったら、もう私は命を失っていただろうと思いました。
空襲が終わって、工場へ帰る道すがら、あのいまの浜国道の道のかたわら、またわらを積んでいたところで、瀕死の重傷をおった人たちが、あっちでごろごろ、こっちでごろごろ、たくさんおられました。
そして浜から工場へ帰ってくると、あちらの防空壕のなか、こちらの防空壕のなか、手や足がこんなに出ているんですね。そしてまともに爆風を受けて圧縮されて即死の状態でした。救護班の人たちなどは、右往左往して逃げまどいました。そこで私と同じ二見の看護婦さんもなくなりました。ほかにもたくさんの方が二見の方から来ていましたが、かなりの人がなくなり、傷つき、片腕を失ったり、片足を失ったりして、「あの人もこの人もやられたのか」ということがわかってきました。
その後私は、2週間ほど後に召集礼状がきて、軍隊に行きました。川崎航空機で働いていたということで、海軍航空機整備兵として千葉県の香取の方へ行きました。航空機の整備をする仕事を与えられたんですけれども、整備する飛行機がまったくありませんでした。木でつくった偽物の飛行機がおかれているだけで、戦火が国内におよんできて、グラマンという戦闘機がしょっちゅう飛んで来て機銃掃射を始めたんですね。そういう時は私たちは防空壕に入って、避難をして、機関銃で応戦するんですけれども、なかなか当たらない。そして空を見上げると日本の戦闘機とアメリカの戦闘機が空中戦をやっておる。「あっ、やっつけたな」と思ったら、日本がやられておるというようなことがほとんどでした。
やがて我々、整備兵もなにもすることがないので、福島県の会津磐梯山の山のふもとで地下工場を建設するために、そこで予科連の人とかその他の人たちと一緒になって、働きました。その時には強制連行で朝鮮の方から引っ張ってこられていた人たちもいました。
そしてやがて8月15日がきて、戦争が終わたんだとわかったときには、本当に、「これで家に帰れるのだ。これでおわりになるのだ。」という思いがいっぺんにこみあげてきました。
その時から平和とはこんなにありがたいものかとつくづく感じました。
しかし復員命令が出て、復員できるはずだったんですが、しかし、海軍は戦うんだということをいって復員を妨げていたんです。しかしいつまでも遅らせる訳には行かなかったんでしょう。焼け跡の整理に30人ほど残すことにしました。なかには東京が、日本の首都がどういう風になっているのか、見たくて30人ほどが残りました。けど私はもう早く帰りたい一心で帰ったんですね。
戦争が終わって10年ほどたったときに、高砂の浜でその時焼け跡整理に残ったひとりの戦友に出会いました。「あのとき確か君は残ったね」と話を聞くと、その人は「だまされたよ」というので「そういうこと?」と聞いたら、戦争が終わったどさくさのなかでも、軍隊にはいろいろな物資がたくさんあったんですね。材木、米、醤油、塩、いろんなものを偉い人がトラックでわが家に運ばせたんですね。「ご苦労さん、みなさんもできるだけのものを持って帰ってください。復員してください。」
しかし、私たちがもてる量というのはわずかなものです。私も福島県から明石の方に帰ってきたんですけど、焼け跡整理だと言って残して、軍隊の偉い人は、物資をわが家に運ばせたということを聞いて、私はいいようもない憤りが出てきました。
本当は、あんな時、偉い人も、一兵卒も早くふるさとへ帰りたい一心なんですね。けれどもそういう時にも、あんなことをやって私腹を肥やす。
皆さんはいま平和な時代に生まれて、平和なうちに育ってきております。みなさんはおじいさん、おばあさん、お父さん、お母さん、先生がた、いろんな人から戦争のことを聞かれるでしょうけれども、やっぱりいまの平和ということがどれだけ大事かということをかみしめていただけたらなぁと、私は思うんですよ。幸いにも日本には平和憲法ができました。「もう戦争はしない」という戦争放棄の宣言ですね。世界に誇り得る憲法だと私は思うんですね。
ところが憲法のことについては、大人でも関心を払わない人が多い。けれどもこの憲法を守るために、皆さん方ももっと関心を持って、「お父さん、お母さん、この憲法を守ってくださいよ。」と言ってください。
でなかったら、私らの子どもの頃には、私らのお父さんお母さんは、戦争反対の声すらあげられなかったんだ。召集礼状が来れば、「無事で帰っておいでよ」みんな心のなかでそう思いながら、「万歳!万歳!」と見送って行ったんですね。私たちの年代になりますと、みなさんの将来のことがやっぱり心配になります。私にも孫がいます。そしてこの孫が成人したとき、果たしてこの平和が続いているんだろうか、ということがいちばん心配になってまいります。
いま、私は68才ですけれども、生きている限り、この憲法を守るために、命の次に大事な平和憲法を守るために、このことはみなさんに聞いてもらいたいと思っています。
みなさん自身も結婚されて、子どもさんを持つようになったときに、そういうことがいかに大切なことかわかって来るんじゃないかなと思います。
そして私は、川崎航空機で働いていたときの空襲で、はじめて戦争はこんなに悲惨なものかとわかったんです。戦争はなんとむごいものかと感じました。
今日はみなさんに私の思っていることが十分に伝えることができなかったんですが、またお父さんやお母さん、おじいさんやおばあさん、まだ話を聞かせていただける方がいらっしゃると思いますから聞かせてもらってください。
初めてなのでうまく話ができませんでしたが、今日は本当にありがとうございました。