1.実物教材を持ち込むと
  「実物教材を持ち込むと、教科書を読んでまとめる授業から脱皮できる。その時はわきあがるが、しかし、終わると居眠りがはじまる」
とある高校の先生が言っていたが、私はそれでも実物教材を持ち込まないよりは、いいと思っている。1時間の授業を貫く「実物教材」がそうたくさんあるわけではない。「モノ」教材の線香花火的な使い方と言われるが、花火も続ければ、連続の打ち上げ花火程度にはなる。
 実物教材を授業に持ち込むと、教科書的な系統から言うと、脱線の授業になるかもしれない。しかし、生徒はこの脱線の方をよく記憶していたりすることが多い。とすれば、私は「系統的」に脱線をする授業も成り立つのではないか、と考えている。
 いくつかのテーマにもとづいて脱線するわけだ。
 そのテーマだが、今のところ、
 @いのちの尊さを学ばせたい。しかし現実には、いのちが大切にされない事実も知らせなくてはならない。
 A食生活にこだわる。食べ物がいかに作られ、いかに食されているか。食はいのちを作る源であるから。
 B「モノ」(工業製品・農産物)がいかに作られているか。そこには人間の工夫(知恵)と働き(労働)を含んでいるから。
 全体を通じて、生きることの意味をとらえさせたい、と私は考えている。

2.子どもたちが身を乗り出す瞬間
 私は授業を演劇のようなものと考えるときがある。
 もちろん,脚本・シナリオはあるのだけれど,そのまま・そのとおり毎回演じるわけではない。共演者や観客との息と間のはかり方で,1回1回やはり演技は違うし,時に即興・アドリブが入ったりもする。いつも生だから,N・G!やり直し,とはいかないところも似ている。「野球は筋書きのないドラマだ」なんてことをいうけれど,筋書きはあっても,ドラマは野球以上にドラマチックだ。授業はどうだろうか。その中にドラマはあるだろうか。
 授業が舞台の上の演劇のようであれば,舞台装置があり,小道具があり,音響・照明・効果があり,展開しているのは事実そのものではないが,リアリティがある。
 とすれば,授業は「目にも見え,音に聞こえる」ようにすすめる。一つの小道具が舞台のリアリティを高める、効果を高める。
 私の場合一連の「実物教材」群がその小道具や舞台効果に当たるわけである。
 私たちが演じているのは,演劇俳優のそれというよりは,大道芸人のそれに近いかもしれない……。
 世界の人々の生活が分かる資料を、どんどん教室に持ち込んでいる。「生徒が興味を持ち、教室が涌き返るような資料ならなんでも教室に持ち込もう。生徒が喜ぶことならなんでもしよう」と、少々極端に考えて、実践を進めている。おかげで社会科の授業がおもしろいといい始めた生徒が段々と増えてきたように思う。
 私の授業をふりかえって、「楽しい」社会科授業をつくろう。そのためには何でもしようとするサービス精神だけは,自慢できるかな,と思う。
 もちろん子どもが「楽しい」と感じるレベルは多様です。しかし「たのしい」ことを抜きには,背筋が伸びるような社会科にはなりえないように思えます。私はその「楽しさ」の中味となにを「楽しい」と感じるか,そのレベルを少しずつあげていけばよいと考えている。
 社会科が楽しいとはどういう時か?まずはたくさんの事物を充分に見たり、聴いたり、触ったり、味わったり、匂ってみたりすることだ。このことを通じて、目に見えるものから、目の前にないもののイメージを結んだり、さらに現代世界を支配している法則を追究させたい。つまり、この実物教材を用いた授業の展開は、生徒の関心を高め、学習意欲を呼びさますとともに、さらにもの・物にまつわる人と人の関係、地域と地域のつながり、国家と国家の関係を認識していく端緒となるわけです。
 さらに、私が実物教材を子どもたちの前に提示するのは、生徒の興味・関心を引きつけたいという事にとどまらず、
 「物事を理解するためには、言葉だけで理解しようとしてはいけない。常に具体的に物事は見なくてはいけない」
 というメッセージを出し続けるということなのである。つまり、言葉だけで満足せずに、常に具体的に物事を調べる、確かめるという探求的な態度を形成したいわけだ。
 かくして世界各国の物産や貨幣、言語、音楽など多くの教材・教具が教室に持ち込まれ、世界の諸地域、各国の地誌の学習が進められる。子どもが教室で世界と出会う授業の始まりである。