1997年 歴史教育者協議会第49回宮城大会 レポート   19970823-24
第26分科会 授業方法

アウストラロピテクスは今日も行く!
中学校の現場から
岩本賢治

「一生懸命やっている仕事で大変でない仕事ってありますか?」……でもなー

 今年になってから、中2の生徒たちはチャイムが鳴っても教室に入ってこない女子生徒がクラスによって数人。男子も数人。私たち教師は教室でチャイムを聞こうといち早く教室へ行って、「はよ、はいれよー」と声をかけます。授業が始まっても、居眠りをする者、熟睡をする者、横を向いている者、ノートを全くとらない生徒。
「こいつらを、授業でこっちに向かせてやろう。」これが今年の4月のスタートでした。
 現在はそれでもまだ寝ておりますが、少しずつ興味を示して、最低妨害はしない程度になりました。いつも横を向いていたT君は、未だ寝ておりますが、休み時間は起きていて、「社会科の家庭教師をつけられた」と言っては年代暗記の豆本をペラペラとめくっています。
 「やー、ええのん、もっとーやんかー!ちょっと見せて。ええなぁ、これ、どこの出版社?」と会話を楽しみます。T君は夏休みの勉強会では社会科を選択(今年から教科を自己選択制にした)しました。なのにきませんから、「社会科、来るんとちゃうん?」と聞くと、「いかへんのじゃ!」とうそぶいていました。でも一回だけきました。もちろん何もしませんでしたが……。
 これまたいつも寝ているN君も期末テスト前の勉強会にやってきて、復習問題を「初めて60点とったー」と教室へプリントをうれしそうにみんなに見せていたそうです。もちろんその一回切りでしたけど……。
 4月から私はいわゆる「学年主任」になり、学年の先生方に「ピンチはチャンス、生徒が問題行動を起こしたときは、指導のチャンスなんやから、丁寧に指導をして、解決していい学年にしていきましょう。」と言っていたら、ほんまにチャンスばっかり。自転車窃盗からはじまり、万引き、バイクでの暴走、校舎での爆竹、教師反抗(3年生では対教師暴力)……、「やってくれるなー」……、私は一学期は週に1〜2回風呂にも入れず、寝てしまうことがありましたが、英語科の同僚も「えっ、僕もそうですよー」と言っていました。
 授業中は授業の中身で勝負してやろうと思いつつも、「授業以前の問題でヘトヘトになっている」、これが今の実状です。
 最低一単元を見通して、一時間一時間の授業を作り上げていかなければならないが、いままでの「遺産」で「その時間暮らし」をしているのです。そんな中でも、生徒たちにヒットするいくつかの「教材群」があります。
 私は前任校で演劇部の顧問であったこともあって,授業を演劇のようなものと考えるときがあります。授業は、脚本・シナリオはあるのだけれど,そのまま・そのとおり毎回演じるわけではない。共演者や観客との息と間のはかり方で,1回1回やはり演技は違うし,時に即興・アドリブが入ったりもする。いつも生だから、「NG!やり直し」とはいかないところも似ています。授業が舞台の上の演劇のようであれば,舞台装置があり,小道具があり,音響照明効果があり,展開しているのは事実そのものではない(つまりウソ)が,リアリティがあります。
 とすれば,授業は「目にも見え,音に聞こえる」ようにすすめる。マルセ太郎のように小道具一つもないのに表現できる人もあるが,一つの小道具が舞台のリアリティを高める効果を高める。私の場合一連の「実物教材」群がその小道具に当たるわけです。
 私たちが演じているのは,演劇俳優のそれというよりは,大道芸人のそれに近いかもしれませんね……。

アウストラロピテクスは今日も行く!これで1学期のロケットスタートだー

 実物大 アウストラロピテクスの作り方
 原本 ライフ社 「原始人」(ジェイ=マタンズ原画)を拡大し、A4版の図版をつくってある。これを茶色の色画用紙に141%で拡大コピーする。四つ切り画用紙をA3幅にカットしておく。これを手差しコピーすればできあがり。
 実物大アウストラロピテクスのクローンがすぐにいくらでもできあがります。ただし想像図であることを忘れないように。ピンク色の好きな人はピンクもいいかも??
 さて、この実物大アウストラロピテクスを教室へ連れていくと、もう大変です。廊下で生徒が寄ってきます。「先生、これ何!?」「うん!?先生のペット。」「マイペット……いくつ?」「マイペット……3号……4号……わからん!」(昨年はゴロゴロ廊下を連れていく地球儀が僕のペット、つまり「マイペット1号」でした。ちなみに世界全図の掛け地図が第2号です。)
 アウストラロピテクスには愛称があります。「ゴリちゃん!」です。(月並みすぎるかなー?)だからかわいく「ゴリちゃん!」って呼んでねー。
 「ゴリちゃんにはクローンゴリちゃんがたくさんいます。一つ(一人)は職員室の冷蔵庫にいつも貼ってあります。もう一つは私の相方のM先生に飼われています。でも、先生のゴリちゃんが一番かわいいでしょう?」などとあほなことをここで連発する。時々ゴリちゃんを廊下の防火シャッターに貼ったままにしておくと、生徒が「うぁー!」と驚いてとてもおもしろいです。
  このゴリちゃんは第1時間目いわゆる授業びらきのサルと人間の違いの所で出演します。
 「サルと人間とどこがちがうん?できるだけたくさんあげてみてー。」
 「毛がはえとる」「しっぽがある、ない」「顔のかたち」「道具」「言葉」「サルはサル語しゃべる」「文字を書く」立って歩く」「二本足、四本足」
 「いろいろ出してくれたけど、サルと人間と分ける一番決定的な違いって何?一番違うと思うことに手を挙げてみてー」
 「ほんなら、このゴリちゃんは人間かな?、サルかな?人間らしい特徴はどこ?」
 この実物教材を通じて、「直立二足歩行」「と「道具をつくる」という人間の最大の特徴をとらえさせる。絵を見て、答えさせるところがちょっと強引かなとも思いますが……。
 この人類の誕生の授業の最後で使う小道具は「トイレットペーパー」です。
 地球の誕生を40億年前として,これを4mの長さに置き換えたら,人類の誕生はどのあたりになるか,という話の小道具に使います。紙テープでももちろんよいのですが,ここはやはりトイレットペーパーのインパクトに勝るものはないでしょう。あの幅,そしてあの色,さらにあのニオイ……?,これはありません。
 地球の誕生は40億年とも45億年とも言います。ここでは都合により40億年とします。さて人類の誕生は約400万年前ですから、地球の歴史を4mのトイレットペーパーとすると、人類の歴史はその1/1000だから,たったの4mmです。
 ここでは、400万年前に遡っている生徒の視点を一度ぐーんと引き離して、今一度現代の時点から見直させたいのです。「木を見て森を見ることができるように」です。
 さらに長いようで短い、短いようで長い人類の歴史の中で,人間が戦争を始めたのはいつからか。たった4mmだった人類の歴史を4mにもう一度置き換えて考えたらどうでしょうか。
 佐原真さんによると,1万年,いや数千年をさかのぼらないだろうということです。すると,1/400以下ですからせいぜい1センチの幅のあたりからなのです。
 目に見えてわかることを大事にしたいものです。と同時に、生徒の視点を動かせて見たいものです。

「社会科の時間に切れる石を配っているんですかー?」「はぁ?はい!?」

 石器をつくる
 私には打製石器をつくる技術はありませんから、石を割って割れ口のいいものを使うだけです。石は奈良県と大阪府の県境にある二上山の麓、太子町(太子温泉という施設の近くです)の採石場跡(?)にサヌカイトがたくさんあります。このサヌカイトを取りに行くためにわざわざ高い高速料金と貴重な夏の1日を使うわけです。周りは閑散としていて、だれか人が転がっていても誰も気がつかないだろうなと思うほど気味の悪いところですが、そんな場所でかなづちを持って、「いいサヌカイトはないかなー」とあさっている姿はとてもすてきだなーと思いませんか。
 この「苦労をしたという思い」が授業で生きるのです。自分自身が歴史と遊ぶ、授業を遊ぶ、そんな気持ちで授業をしています。「あーぁ、おもしろかった!!」ってね。
 さて、この石器が大人気で、「欲しい人!」というと、我も我もと先を争って奪いにきます。
 ただし教室で割るときには気をつけないといけません。破片が飛んでけがをするかもしれませんから、自分自身は必ずゴーグルかメガネで目を守ります。破片が飛び散るので女子の足に当たって小さな傷を付けることがあります。また手を切るやつが必ず一人はいます。十分「手を切ったらあかんぞー」と言い聞かせておきます。今年は授業中ほとんど何もしないA君がズバリと手を切って縫う寸前までいきました。保健室の先生から「社会科の時間に手の切れる石を配っているんですか?」と聞かれて、返事に困りました。
 このように打製石器は見事に切れます。トマトの皮もうまく切れない我が家の包丁以上です。
 この授業では「原始人の技術は劣っている、遅れている」という誤った固定観念を見事にひっくり返すのです。私は歴史の時々に人間が見せる知恵や技術のすばらしさを大切にしたいと考えています。(そういえば、先日亀が岡縄文館で縄文土器を見ていたおばさんが「私でもこんなに上手につくれないわ」と感心して、夫を「ねぇ、ちょっと、来て、見て。」などと呼んでおりました。)ひいては子どもたちに「人間ってたいしたもんやなー」という人間への信頼感を育てることにつながると思うからです。人間ってええもんや、これが歴史の授業を通じて私が子どもたちに伝えたいメッセージなのです。人間の醜さも伝えなければならないのですが、やはり人間への信頼感を私は大切にしたいです。

子どもたちはガイコツが好き!?

 さて,私がいくつかこだわっているテーマがあるのだが,そのひとつは「日本人の死に方」。
 歴史は考えようによっては,大半が死人の歴史である。
 人々がどう生きたかを示していくとともに,その時代その時代の人々がどう死んでいったのかを,具体的,できるだけリアルに再現していかなければ,と考えている。
 今年はいよいよそのことを強く感じた。歴教協千葉大会で『はだしのゲン』の中沢啓さんの被爆体験を聞いたときのことだ。中沢さんの話と『はだしのゲン』の映像と広島平和資料館のろう人形や資料の数々が頭の中に,網膜の奥にわき上がってくるのだ。被爆の刻一刻を淡々と語っていく中沢さんが印象的だった。
 戦争一般,被害一般,課外一般というものはないのだから,個別・具体的に再現していかなければならないだろう。しかも,人間への絶望を語ることなく,希望を伝えられるように。
 いま,私は資料集『日本人の死に方を考える』のためにあれこれ資料を収集しているところだ。いくつかは授業でも使っている。
 ここではいくつか紹介する程度しかできない。
 1 明石「原人」の腰骨(寛骨)とアカシゾウ 【旧石器時代】
 2 加曽利の犬はなぜ埋葬されたか 【縄文時代】
 3 土井が浜の英雄はなぜ死んだか 【弥生時代】
 4 鎌倉材木座の1000体の人骨の謎 【鎌倉時代】
 5 礫(つぶて)から鉄砲へ 【室町〜戦国時代】
 6 下痢で死んだ日本兵 【日清日露戦争】
 7 ウオズミからアジアへ            【15年戦争】
 8 戦争不参加宣言               【ベトナム〜湾岸戦争】

 今ひとつ追求したい脱線と系統は、「トイレの文化史」です。
 1 鳥浜貝塚の奮石 【縄文時代】
 2 平城京にあったトイレ 【奈良時代】
 3 トイレのなかった寝殿造り 【平安時代】
 4 平安京は花の都か 【平安時代】
 5 糞尿が資源になったとき 【鎌倉時代・室町時代】
 6 肥船がうんこを買いに来る 【江戸時代】
   (トイレはなぜ南向きか?)
 うんこは子どもたちが大好きな(?)テーマですし、二毛作が始まってから、うんこはやっかいなゴミから有用な資源になり、江戸時代にもっとも有効に活用され、私が小学生だった頃まで、父親は肥タンゴを担いで(ぴっちゃん、ぽっちゃん、はねないように運ぶこと、これが大変難しいのです)畑にまいていました。
 そして今またうんこはやっかいな、ただのゴミになってしまいました。

 最後に 楽しくなければ社会科じゃない!

 授業が終わって、子どもたちが教卓へ集まって教材をまた生徒たちが取り出してなんだかんだ話が盛り上がるときがまた格別、楽しいものです。教師が楽しむ、生徒も楽しむ、授業は楽しくなければ。「楽しくなければ社会科じゃない」そう思います。
 子どもが「たのしい」と感じるレベルは多様です。しかし「たのしい」ことを抜きには,背筋が伸びるような社会科にはなりえないように思えます。私はその「たのしさ」の中味となにを「たのしい」と感じるか,そのレベルを少しずつあげていけばよいのではないか。