田村麻呂とアテルイの登場
天皇はこの敗戦にもこりず、第二次の征討を計画した。「蝦夷征伐」といえば、すぐに「坂上田村蘇呂」が連想される。歴史教科書が果たしてきた役割が大きいことはいうまでもないが、それだけではない。東北地方の各地には田村麻呂にちなんだ伝説が数多く分布している。東北三大祭りの一つである青森市の「ねぶた祭り」の由来も、田村麻呂が蝦夷を征伐したとき津軽の酋長に大丈丸という勇者がいて容易に屈服しなかったので、美しい人形の中に人を隠し、歌や囃で大丈丸を誘い出して討ちとったことからはじまると伝えられている。
七九一(延暦一〇)年七月、桓武天皇が征夷大使に任命したのは公卿ではなく、ながい武官の経歴をもつ大伴弟林呂であった。田村麻呂が征討にかかわるのは、副便に任じられたこの時が最初である。
今回の計画は、坂東諸国に武器・食料の調達が出きれただけでなく、「土人・浪人および王臣の田使(荘園の管理人)を論せず」日本全国の調達可能な「富饒の輩」から武具を納めさせた。そのうえ七九三年二月には、これまでの「征東使」が「征夷使」に改称されている。「夷を征す」という目標を明確にしたものといってよい。
こうして三か年をかけ準備を整え、兵士一〇万(前回の二倍)、軍粮一四万石(同じく四倍)という大征討軍が編成された。時あたかも平安京の造営たけなわな七九四(延暦一三)年の春、行動が開始されたのだった。最前線の指揮官は坂上田村麻呂である。田村麻呂は渡来系の東漢氏の一族で、父の苅田林呂も武勇にすぐれていた。
戦闘の経過については、『日本紀略』に簡単な二つの記事が残るだけである。「延暦十三年六月十三日、副将軍坂上大宿禰田村麻呂以下、蝦夷を征す」。「当年十月二十八日、征夷将軍大伴弟麿奏す。斬首四百五十七級、捕虜百五十人、獲たる馬八十五疋、焼落せるは七十五処」と、報告されている。
だがこれで蝦夷征討が完了したのではない。このとき伊治城は奪還したが、胆沢の地は落ちていないし首領のアテルイも降伏していない。七九七(延暦一六)年、第三次の征討が計画され、一一月には、田村麻呂を征夷大将軍に任命した。田村麻呂は戦備をととのえるかたわら、蝦夷を屈服させるためにさまぎまな手をうった。伊治城の周辺に、東国各地から九〇〇〇人もの農民を移住させ武装させるとともに、米作や養蚕を奨励し、豊かな暮らしぶりを宣伝した。そして蝦夷に対しては、しきりに投降を勧告したのである。
八〇一(延暦二〇)年二月、四万の兵力をもって第三次征討作戦が開始された。しかし、このときのくわしい戦闘の経過もわからない。たしかなのは、征討軍が胆沢地方を完全に制圧したことで、さらにその北方の「閉伊村」(岩手県東北部)にまで進出したことが後の記録に記されている (『日本後紀』弘仁二年一二月一三日条)。政府軍は各地で無抵抗の村むらを焼きはらい、老若男女を問わず殺害しながら進撃した。
そして、翌年には胆沢城の築城に着手した。駿河・甲斐・相模・武蔵・上総・下総・常陸・信濃・上野・下野など一〇か国の浪人四〇〇〇人を造営工事に動員している。前年の戦争では降伏しなかった蝦夷の首領アテルイも、胆沢城の造営がすすむのをみて、いま一人の首領モレとともに八〇二年四月、田村麻呂の軍門に下った。『類聚国史』によると、造城使として胆沢にいた田村麻呂からの報告として「夷大墓公阿弖流為、盤具公母礼等、種類五百余人を率いて降る」と自ら降伏を申し出たと記録されている。田村麻呂の力量を知り、これ以上の焼き打ち、殺害をしないことを条件に降伏したとも考えられるのである。
5 アテルイ死す
田村林呂がアテルイとモレの二人を伴って入京したのは、八〇二(延暦二一)年七月一〇日のことである。貴族たちは、かれらの降伏をもって蝦夷が完全に征服されたものとみなし、大政官は百官を代表して天皇に賀表を奉呈した。田村麻呂は二人の助命を嘆願するためであったが、貴族たちには通じなかった。『日本紀略』は「夷大墓公阿旦流為、盤具公母礼らを斬る。この二虜者、並びて奥地の賊首なり。二虜を斬るとき将軍ら申していわく、この度は願いに任せて返入し、その賊類を招かしめん、と。しかして公卿執り論じていわく、野性獣心にして反覆定まるなし。いやしくも朝威によりて、この梟師(野蛮人の酋長)を獲するに、たとえば申請によりて奥地に放置するはいわゆる虎を養いて患を遺すものなりと。すなわち両虜を捉えて河内国杜山にて斬る」(延暦二一年八月一三日の条)と記している。
一般の歴史書にもアテルイとモレは河内国杜山(大阪府枚方市)で斬られたと書かれているが、「杜山」探しを徹底的にやった本多公栄氏によれば、歴史上、杜山の地名はない。無窮会神習文庫本、校訂佐伯有義校訂本の『日本後紀』には「河内国植山」と書かれており、「上山」なら存在した。「上山」は室町期に「宇山」と地名変更し、今日に及んでおり、枚方市宇山の竹薮に二つの塚がある。付近一帯の旧家上山長太郎氏は、アテルイとモレの斬られた場所と推定しており、また竹薮から三〇〇メートルほど離れた牧野公園にも塚があり、アテルイとモレの首塚と推定しているという(「東北の地域から日本史を見直す」『日本史の授業』)。
そのことを本多氏からご教授いただいた筆者も一九八六年の夏、枚方市にあるこの二つの塚を訪ねてみた。公園の中央にある首塚は、大きな桜の木の下にあり、かなり古い塚であった。竹薮の中にも踏み入ってみたが、土まんじゅうのような塚の上にも桜の古木がみられた。『枚方市史』(第二巻)は、「宇山に蝦夷を斬る」と題して文献からの解明を行っているが、アテルイとモレについてはふれられていない。
一方、胆沢城を築いた田村麻呂は、つづいて翌年に志波城(盛岡市南郊)の築城に着手している。胆沢城は官街的色彩がつよく政治的拠点であったのに対して、志波城は最前線の軍事的基地の役割を果たしていたことが、最近の発掘調査によって明らかにされつつある。
アテルイとモレの死は、たしかに蝦夷にとって大きな敗北であった。
しかし、それで東北民衆の抵抗が終わったわけではない。『日本後紀』によると、八一一(弘仁二)年、接察使文室綿麻呂が二万六〇〇〇人を率い、岩手県北部の爾薩体(二戸)、幣(閉)の攻撃に向かっていることから考えると、なお大和政権に対する蝦夷の抵抗は続いたのだった。
(『人物で学ぶ歴史の授業(上)』市川真一著,日本書籍刊より)
「坂上田村麻呂伝記」「群書類従」
大将軍身長五尺八寸。胸厚一尺二寸。向以視之如偃。背以視之如俯。目写蒼鷹之眸。鬢繋黄金之楼。重則二百一斤。軽則六十四斤。