明石に黒船がやってきた! 

岩本賢治 著

(『歴史地理教育』1988年1月号No.407)
・・・民衆は何を見、どう行動したか・・・

 開国から明治維新への日本史における一大変革期を、生徒にできうるかぎり身近な歴史として認識させたいとの思いから、次のような点を工夫して授業を構成した。
@歴史の勉強ぎらいの生徒も、身を乗り出してくる身近な地域の史料を使おう。最低、兵庫県内に残されている史料を利用して教材をつくる。
Aまた、おもしろくて、考えてみたくなるような発問を用意しようとした。
 そして、だんだんと発表が少なくなりつつある中学2年生でも、自分の意見を少しでも授業の中で出せるように、生徒が自分の考えに最も近いものを、あらかじめ教師が用意した数々の選択肢の中から選ぶようにした。
 例えば、ペリーは、どこを通って日本までやってきたか。
   ア.サンフランシスコから太平洋を通ってまっすぐ日本へ
   イ.ニューヨークからマゼラン海峡・太平洋から日本へ
   ウ.ニューヨークから北極海・太平洋を通って日本へ
   エ.ニューヨークから大西洋を通って日本へ
   オ.その他(     ) 
 このなかから生徒に選ばせ、挙手させる。そののちペリーの寄港地、開国の過程や意義(@対中国貿易のための石炭補給寄港地の確保。A捕鯨船の保護。鯨油は、24時間フル操業を始めた綿工業の灯火用として不可欠)、条約のなかみをおさえた。
明石に黒船がやってきた、君なら……
 黒船を前にした民衆は、まず何を考え、どう行動しただろうか。導入のために用意した選択肢は、次の通り。
   ア.老人や子どもを避難させ、家財道具を積んで逃げる。
   イ.村で鉄砲隊を作って、戦いに備えて、訓練する。
   ウ.ただただ神に祈り、神の力によって、黒船を打ち払う。
   エ.珍しいので、小舟を漕いで行って、黒船に乗せてもらう。
   オ.こわいので、家の中でカギをかけ、じっとしている。
   カ.その他(    )
 1854年9月18日にロシア艦船「ディァナ号」が開国を迫って、「直接京都と交渉するぞ」といわんばかりに、大阪湾へ深く進入し、兵庫沖、淡路沖、そして明石市の目と鼻の先まで接近して来た。130年前の自分たちの先祖が、これを見たかもしれないのである。
 この史実を紹介すると、「へぇー、ほんまに見えたん?」と言う声があがる。「当時は大きな建物が全然ないさかい、見えたと思うで。」と私。授業は最初からいつにない反応ぶりだった。
 選択肢「イ.」については、淡路では猪打ちの猟師に出動を命じたり、百姓の若者を各村に割り当てて、新農兵隊として徴用したりしているし、明石藩でも、美作国吉野郡の領地で隔日に銃の撃ち方を教えたとある。
 「エ.」については、史料によるとかなりたくさんの民衆がこのロシア艦船「ディアナ号」に乗り込んで踊りを踊ったり、パンやタバコを貰って来たりしている一方、役人は100隻もの船を出し数千人の武士が大砲や鉄砲を用意して警備に当たり、「船見物に出候事厳しく御差留メニ相成り、御公儀様殊の外御混雑ニ相成」ったという。恐いながらも、珍しさに引かれ乗鑑して、ロシア人と交流する民衆の姿と民衆に知らせまいとし居丈高に命令する幕府の姿、そして船をとりまくのみで何もできない幕府の動揺した対応ぶりとが実に好対照である。
 「オ.」について。当時の民衆の心の動揺は、いかほどのものであったかだろうか。これは神戸に残っていた万葉仮名のような史料「この節面白き真言」を生徒と声を出しながら、一緒に読んで行った。(史料)
 明治に入ってからは、
   ・明治維新で農民の年貢はどうなるのだろう。
   ・江戸時代の領主に貸していた100両は、村の農民に返ってくるんだろうか?
   ・村に残されている去年の年貢、525両と米37石は、もう納めなくてよいのだろうか?
   ・明石藩は、親藩大名だったが、戊辰戦争の上野の戦いのとき、幕府軍、新政府のどちらについて戦ったか。
   ・明治になったら譜代大名の明石藩の大名は、どうなったんだろう。
  このような発問を社会科通信・かがり火・に掲載し、次々と出していった。生徒は、いつになく活発に取り組んでいた。ただ、クイズ的な楽しさを喜んでいた面もあったが、それもよいのではと、私は思っている。
 私には楽しい一連の授業実践であった。