ことば解説
     日本そば大学講座神戸須磨学舎 第二講「そば切り・初期の歴史」

須磨  その昔、摂津の国と播磨の国の国境。また、源平合戦の舞台としても有名。
*摂津(神戸市須磨区から東・大阪や堺など)  播磨(はりま・ばんしゅう)(兵庫県南西部・播磨明石、播磨竜野藩)
定勝寺    木曽・大桑村須原宿の旧中仙道沿。ソハキリの当時は木曽川辺りにあったが、文禄四年(1595)の木曽川氾濫で倒壊(流損)、現在の場所へ移建された。
番匠(ばんしょう・ばんじょう) :  大工  中世の建築工匠   *番匠手間 : 大工や職人など
番匠作領(料)日記
ハレの食べ物  ハレ(晴:=非日常) と ケ(褻:=日常とか普段)   現在では実感しにくいが、うどん、そば、ホウチョウ、餅、団子、強飯、赤飯、小豆餅、小豆粥、おはぎ、雑煮・・・
多賀大社    「古事記」にもある滋賀県犬上郡多賀町の神社。社僧や坊人が多賀信仰を広めるために活発な布教活動をしたことでも有名。
江戸期の俗謡「お伊勢参らばお多賀へ参れ お伊勢お多賀の子でござる」は、多賀の祭神は伊邪那岐・伊邪那美大神だから伊勢神宮の祭神・天照大御神の親神だという。
*お守りの「お多賀杓子(おたがじゃくし)」が「おたまじゃくし」の語源だとも?。
尊勝院 (京都・粟田)  :門跡寺院・青蓮院に属する天台宗の寺。応仁の乱で焼失した本堂は秀吉によって再建された。
東光院の役割について   慈性日記に登場した頃は小伝馬町(中央区日本橋)にあった。「文政寺社書上」には「本堂并堂社寺中八ヶ院」とあり院内には塔頭(たっちゅう)(小院や子院)が八ヶ院あったという。慈性達の宿舎の役割を担うには充分であった。天台宗百八寺の総本寺で、当時の住職は詮長。
明暦3年(1657)に焼失し、 浅草新寺町へ移るが4,258 坪の境内地に本堂、 薬師堂、 鐘楼等などが再建され、将軍家御鷹狩りのおりの御膳所にもなった。
後段(ごだん)   江戸時代の饗応の時、主たるもてなし(食事や茶など)のあとで出した軽い飲食物(素麺やそば切り・・)など   特に、初期の頃は「茶」の後段の例が多い。
茶会記   :  茶湯や茶会の覚え書き。もっとも古いのが「松屋会記」で、二番目は堺の豪商天王寺屋の茶会記で、「天王寺屋会記」である。
ヒノウトン    京都・油小路にあった日野屋のうどん。 江戸時代初期の医者で歴史家・広島藩医黒川道祐は、「・・・油小路下立売南日野屋湯煮饂飩難歴数十町不冷云(茹でて数十町持ち歩いても冷めない)と記している。
「蕎麦全書」寛延4年(1751)脱稿   :江戸時代唯一ともいえるそばの専門書。著者は日新舎友蕎子。自らもそばを打つ江戸の住人としかわかっていない。
中山道69宿の内  本講でとりあげた木曽路の宿場    武蔵国(日本橋)・・(上野国)・・(信濃国)・・32.本山宿 33.贄川宿 ・・38.上松宿 39.須原宿・・(美濃国)・・(近江国)・・(山城国)三条大橋
余談:*本山宿 :「風俗文選」宝永3年(1706)で、「蕎麦切りといふはもと信濃の国本山宿より出て・・・」。*雑録・「塩尻」(1711)は、「蕎麦切は甲州よりはじまる・・天目山(棲雲寺)・・」。
古い時代の麺類屋の看板  :招牌(ショウハイ)」。絵馬のような板に細長く切った紙を付け、軒に吊した。  但し、正しくは看板全般のこと。
蘿蔔(ラフク・ラフ)  :大根のこと。漢文体の「中山日録」「本朝食鑑」は漢名の蘿蔔。「料理物語」は大こん。「蕎麦全書」は生蘿蔔(大根)。日本名はスズシロ(清白)とも。
蘿蔔汁と高遠そば  保科正之は二代将軍・秀忠の四男。7才で高遠藩主・保科氏の養子。20才で藩主(3万石)になる(高遠で18年)。異母兄・家光によって寛永13年(25才)に20万石で出羽山形に入り、七年後の寛永20年(32才)に会津藩23万石に入封した会津松平家初代。
「摂津名所図会」寛政十年(1799)刊行  摂津国の名所や寺社・旧跡などを紹介した名所図会。大坂部四下の巻・新町傾城郭の項に「砂場いづみや」の図があり、たいそう繁盛している往来の様子と店構えが描かれている。二枚目には店内で蕎麦を食べる客をはじめ蕎麦を打ち・茹で・盛り・運ぶなどの百名をはるかに超える人々と、店の切り盛りの様子が克明に描写され、臼部屋の石臼の数などからとてつもない規模であったことが窺える。
新島 繁氏   そばの歴史・文化・民俗研究の第一人者。「蕎麦史考」「近世蕎麦随筆集成」「蕎麦歳時記」「蕎麦年代記」「蕎麦の事典」など多数。2001年初め逝去80才。
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