ご存知「時そば」は上方の「刻うどん」から ─ まえがき ─
                             「大阪・上方の蕎麦」
     落語には、そばを種にした小咄がいくつもあるが、大体はお江戸が舞台。
    中でも、二八そばを食べた男が十五文しか持っていなくて、「ひい・ふう・みい・・・ななつ・やつ・いまなんどきだい」で一文ごまかす「時そば」は有名な咄のひとつだ。
     ところが、これが上方に来ると「刻うどん」と題名もかわる。と言うよりも、もともとは江戸時代の中期以降に上方で「刻うどん」として咄されていて、それがだんだん熟成されていった咄を、三代目柳家小さん師匠が「時そば」として東京で咄したのがはじまりだという。
    もともとの原話は、享保11年(1726)の「軽口初笑」のなかにあって、その後安永2年(1773)の「芳野山」と「坐笑産」にあるのに手を加えたともいわれる。
     いずれにしても、この咄の題名である「時そば」と「刻うどん」は、いかにも東京が「そば」圏で、上方とりわけ大阪は「うどん」圏だということを表している典型的な例といえる。
    もちろん、大阪には「うどん」の、そして東京には「そば」の、それぞれ立派な食文化の歴史があることはいささかも否定するものではないが、ともすると、あたかも大阪は「うどん」一辺倒で、「そば」がまったく不毛だったかのような錯覚を与えてしまっていることはいかにも片手落ちである。
    これは、「大阪はうどん文化圏」などという極めて短絡的な思い込みと、「大阪のそば」についての、歴史的な情報の集積と現状の把握があまりなされてこなかったことに起因するところ大である。

    たまたま四国の讃岐と同じように、「うどん」が食文化の中でずば抜けて認知度が高くなったということはあるが、改めて「そば」の分野をみてみると、大阪には大阪の、上方には上方の「そばの歴史やそばの現在」が立派にあることを案外見過ごしていることに気付く。
    そして、東京や信州などのように「そば」が突出している処との比較はべつにしても、天下の台所とも言われた「なにわや上方」の面目くらいは「そばの分野」でも立派に保っているし、少なくとも全国各地からみた平均的な「そばレベル」よりも上をいっていることは確かである。

     仕事の現役を退いて大阪に定住し、趣味のひとつとして素人のそば打ちを始める傍ら、過去(大坂)と現在(大阪)のそばの実状を掘り下げてみて、自分なりの尺度で「大阪や上方のそば」を検証してみたいと考えた。
    一方では、大阪とその近郊でそれなりのそば屋と思える店の食べ歩きも開始し、老舗そば屋や町場のそば屋、さらには今風のそば処に入ってみて初めて見えてくることがらや、実際に自分でそば打ちを始め、その経験を通して見え出すことも多く、予想外の収穫であった。

     素人が「そば」について思いを巡らすとき、江戸時代以降いまだに謎につつまれていて説の定まっていない「そば切り発祥」と「二八そばの語源」の謎を探ることは魅力的でロマンを感じる分野でもある。
     長野県は、古くから蕎麦の名産地であるとともに、蕎麦にまつわる食生活の貴重な歴史は他県の匹敵するところではない。しかしながら、信州の蕎麦に関する歴史や食文化の記録を探るとき、残念ながらその貴重な痕跡を辿ることが極めて困難であることも分かった。
    一方、「二八そば」という呼称は、江戸時代の江戸で生まれた。そして「二八」と呼ばれるに至ったいきさつや背景などその語源は、江戸時代既に忘れ去られていまだにわかっていない。
     いずれも、過去の諸説にはとらわれず、素人の怖さ知らずも手伝って、独自の観点から「そば切り発祥の謎」と二八そば語源の謎」についての解明を試みた。
    が、あくまでも仮説である。
     広辞苑によると、「仮説」とは、「自然科学その他で、一定の現象を統一的に説明しうるように設けた仮定。これから理論的に導きだした結果が、観察や実験で検証されると、仮説の域を脱して一定の限界内で妥当する心理となる。」とある。
    従って、このように仮説をたてた以上、もっと現地やその時代に足を踏み入れて、さらに深く、埋もれている真実の掘り起こしが必要であることは言うまでもない。
    その意味で、いまだ途上の段階であるが、考えるところを述べて、広く、これにたいする批判や反論を頂ければ幸甚である。
              2002年10月20日
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