暮らしと蕎麦   その             <  サイトへ移動   .

   蕎麦の地名と蕎麦の山名  

    各地に残った蕎麦の地名など
     かつて凶荒の時には人々のいのちをつなぎ、ハレの日には祝いの食膳を飾る。また地域によっては五穀に代わる貴重な穀物であったソバであるが、ほとんどの地域ではかつてソバが栽培されていた痕跡さえも消えてしまった。
    ただ、ほんのごく一部の地域ではあるが「地名」として、またその形状から「山の名前」としてソバとの関わりを今に伝えているケースがある。
    そして「蕎麦の地名」のひとつが大阪にもあった。
     地名の残存率はきわめて高いとされているが、現時点わかる範囲では蕎麦にまつわる地名は全国で10ヶ所であり、山の名前は8山、沢の名前が1ヶ所となる。
    それ以外に、記録として残っている江戸時代にあった地名は現時点1ヶ所見るのみである。 
【地名】
 1)「蕎麦平」 (そばだいら)   青森県三戸郡田子町遠瀬蕎麦平
遠瀬村は、熊原川の支流杉倉川沿いの山間地で、明治初年の「新撰陸奥国誌」には「土地瘠せ山地多し。水陸の田米稗相半す」と記されている。
 2)「蕎麦沢」 (そばざわ)  岩手県一関市弥栄字蕎麦沢
一関から千厩→気仙沼の方に向かう弥栄村は一ノ沢、二ノ沢、蕎麦沢、茄子沢など沢の地名が多い地形。
 3)「蕎麦目村」(そばのめむら) 福島県大沼郡新鶴村蕎麦目村
江戸時代は蕎麦ノ目村であったが、明治の初期に村落の併合があって和泉新田・沢田・蕎麦目が一緒になって和田目になり、現在では和田目字蕎麦ノ目として残っている。
 4)「蕎麦切新田」(そばきりしんでん) 長野県上水内郡信濃町柏原
中田敬三著「信州そば辞典」によると、江戸時代、参勤交代で柏原を通る大名への献上そばを栽培したとある。
 5)「蕎麦原」  茨城県東茨城郡茨城町蕎麦原
 常陸秋蕎麦とか久慈蕎麦があって、茨城には蕎麦の名産地がある。久慈郡・金砂郷村や水府村一帯の玄そばが有名である。
 茨城町蕎麦原は水戸と石岡両市の間の水戸街道沿いあたりだから、いまはその面影はないが、昔は地名に残るほど蕎麦の栽培が盛んであったのだろう。
なお、この度地元で「蕎麦原」の由来について茨城町史などをたよりに調べて頂くことができたが、その地名の記録などにたどり着くことが出来なかった。
 「追記」日本歴史地名体系(平凡社)によると、蕎麦原村は涸沼川の左岸に位置し、東は越安村。中世は宍戸氏の支配下にあった。慶長7年(1602)秋田氏領となったことを示す御知行之覚に、そば原村九四八五七石が出る。江戸時代は旗本領で元禄郷帳に「蕎麦原村」とみえる。幕末は、松平蔵之介知行地。とある。
 6)「蕎麦塚」 山梨県東八代郡御坂町蕎麦塚 (04年の町村合併で笛吹市)
甲府盆地のほぼ東にあって標高差のある扇状地帯にある。
旧八代郡錦生村の字のひとつに「蕎麦塚」という地名があり、古くは蕎麦塚村であった。「蕎塚村」という記録もあり、享保年間(1716〜36)に刊行された「甲斐国志」のなかでは「蕎塚村村鑑明細帳」とあって蕎麦塚村の名前の由来は「山ノ阻ナルヘシ」と書かれているという。また、「そばの歴史を旅する」鈴木啓之著によると、村の菩提寺である宝珠寺には蕎塚村雨請地蔵尊」という霊験あらたかなお地蔵さんが伝わるとある。
 7)「蕎麦田」 (そばた)   愛知県岩倉市大地町蕎麦田
 蕎麦田の由来は見いだせないが、天保村絵図によれば、大地村村域の東半分に集落があって中央に正起寺があり、この地域の田畑は上田・上畑、西半分は中田・下田、中畑・下畑とある。現在の地形から見ても蕎麦田と正起寺は至近である。
 8)「蕎麦谷」 (そばだに)  京都府綴喜郡宇治田原町南蕎麦谷
 京都府南部、南山城地域の東部に位置する山間の盆地で、蕎麦谷は犬打川下流の宇治田原町南。
 9)蕎原そぶら) 大阪府貝塚市蕎原
和歌山との県境にも近く、大阪ではまだまだ自然が残っている蕎原。
蕎原という地名については、角川・日本地名大辞典を引用すると、古くは蕎麦原とも書き「そばはら」とも「そばら」ともいう。近木川最上流に位置し、地名は蕎麦の産地であったことにちなむという。
また、南北朝期にも見える地名であり江戸期の「五畿内志」には蕎麦の産地と明記されているとある。
今回、地元でも詳しく調べて頂くことができたが、残念ながら「蕎原」という地名にまつわる資料は見あたらなかった。
ただ地元町会などでは「そぶら」は通称としての位置づけであり、「そばはら」が正しい名称とのことであった。
 10)「蕎麦尾分」(そばおぶん)  岡山県苫田郡鏡野町蕎麦尾分
「日本歴史地名体系(平凡社)」によると、鏡野町山城村は、吉井川右岸に位置する。山城村村名の由来について作陽誌に「葛下城在此地 峭壁峻峙 故名村」とあって「峭・壁・峻・峙」はたかく・けわしくそばだった地形を表していて、その分郷に蕎麦尾分があり、文政元年(1818)の津山領郷村帳では本村分二七九石・蕎麦尾分七三石余とあるが、明治五年に合併して山城村となっている。
また、ここにある美作八十八ヶ所霊場の第六十五番霊場に寺の山号が「蕎麦尾山」という金剛頂寺があって、大宝三年(703)の建立だという。
 蕎麦博士と言われた新島繁編著「蕎麦の事典」によると岡山県には蕎麦にまつわる言い伝えやしきたりが多い。例えば、上道郡玉井村(赤磐郡瀬戸町)では「年越しそば」のことを「暮れそば」と言ったり、邑久郡ではそばは縁起がよいので「出世蕎麦」があり、吉備郡真備町では土用の入りに蕎麦練りを食べると腹痛をおこさないという「土用蕎麦」があるという。その他にも児島郡郷内村(児島市)の「ぼっかけ」という干瓢や蒲鉾、人参などの入った汁をそばにかける食べ方や、川上郡のそば粉に茶を注ぎ塩(砂糖)を入れる「蕎麦香煎」は夏の食べ物、浅口郡鴨方町に伝わる「練りくり」はそば粉とカンショ(サツマイモ)を煮て塩味で食べる。などと多く、さらには中国地方では十二月八日を「八日待ち」「ヤカマツ」などといい、豆腐やこんにゃくを食べる風習があって、なかにはうどんであったりそばを食べるところもあって、鏡野町の場合は「八日待ちそば」だそうだ。
 11)「蕎麦窪」 江戸時代にあった「馬橋村の小名(字)」
   東京都杉並区阿佐谷南であるが残念ながら現在の地名には残っていない。
延宝2年(1674)の縄打帳によると、馬橋村には田方(水田)が14ヶ所、畑方35ヶ所があってそのいずれにも「蕎麦窪」という小名(字)が記録されている。
以上は馬橋稲荷神社のサイト「馬橋の歴史と地名」のなかに記されている。
窪地のために周囲の田畑よりも涼冷な地形があって蕎麦の栽培に適したのではなかろうか。当時、武蔵野一帯でも蕎麦が収穫でき深大寺そばはその名残でもあって今も有名である。

【山の名前】
蕎麦の実は黒褐色で、三本の稜線で三面がそば立っている。蕎麦の実の形状やその山の険しい姿から自然発生的につけられた名前であろう。
 
蕎麦粒山」(そばつぶやま)東京都・奥多摩の中にある山 
               遠くから望むと三角の形に見える:1473m
「蕎麦粒山」(  〃   )  静岡県・南アルプス深南部
                  寸又川流域:1627m
「蕎麦粒山」(  〃   )  長野県・上水内郡と北安曇郡の境:1065m
「蕎麦粒山」(そむぎやま)  岐阜県・揖斐郡奥美濃の高峰から見ると
          蕎麦の実のような三角錐:1297m 「小蕎麦粒山」:1230m               
蕎麦角山」(そばかどやま)富山県岐阜県の岐阜百山のひとつ:1222m
蕎麦角山」(そばかどやま)山梨県大菩薩嶺の北から鶏冠山に連なるところ
          蕎麦の稜線を思わせる三角錐:1460m
蕎麦ヶ岳」(そばがだけ)  山口県山口市
            頂上から山口市が一望できる:556m
 
【沢の名前】
大蕎麦谷沢」        新潟県東蒲原郡上川村
常浪川の支流にある沢の地名 蕎麦の実のはっきりと突き出た稜線と、山の険しい崖などの岨(そば)からつけられた名前ではなかろうか。
蕎麦沢」 *地名 2)と重複   岩手県一関市弥栄字蕎麦沢
岩手県南部・一関から千厩→気仙沼の方に向かう弥栄村は一ノ沢、二ノ沢、蕎麦沢、茄子沢など沢の地名が多いのがうなずける地形。

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