二八そば・語源の謎  その     <  次へ移動   <  サイトへ移動

 「二八そば」語源の謎について  

     素人が「そば打ち」をやり始めると、初めの頃に必ず出くわす言葉がいくつかある。例えば、「そばの三たて」という言葉で、これが一番美味しくそばを食べる条件だということで「挽きたて・打ちたて・茹でたて、すなわち三たて」といって教えられる。なるほどと誰もが理解しやすい内容だ。
     もう一つは、なんといっても「二八」を配合割合で説明されることで、これも小麦粉のグルテンの役割と一緒に説明されると誰もが納得する。 さらに、今日は温かいかけそばで食べるから、そばが切れやすいのでつなぎを多くして「七三」で打つと聞くとなおさら分かったつもりになるのである。そして、この「二八」の割合が「一番美味いとされる比率」「長い経験から生まれた黄金比率」である、などと解説されると本当にそう思いこんでしまう。 さらにまた一方で、昔はそばの値段が十六文だったので「ニハチ 十六」から「二八そば」といった などと説明する先輩もいて、これもまた「 なるほど 」と納得する。
    だいたい素人の「そば打ち」はその辺から入り込んで行くのだが、これらはほんの序の口であって、実際はもっともっと奥が深いのである。

     「二八そば」という言葉は江戸時代に出現したが、その江戸時代にはすでに言葉の語源が分からなくなってしまって、いまだに結論が出ていないという不思議な言葉である。
    江戸時代から現在に至るまでに議論されてきた語源説をみると、「掛け算の九九・十六文価格説」と「粉の配合割合説」が主たるもので、いずれも分かりやすい説明になっている。 ではあるが、ほんの少し結論の一端をいうと、このどちらの説も後世の産物であって、一番初めすなわち出現当初の「二八そば」という言葉の説明にはなっていないのである。それどころかいずれにも矛盾があることは認めながらも、真の語源にせまろうとしてこなかったのが現在までの実態である。
  「二八そば」が登場した頃についての時代考証
 「二八」という言葉の登場は、享保半ば頃の世相を記した「享保世説」に、「仕出したは即座麦めし二八そば みその賃づき茶のほうじ売」という落首があり、これについて、文政13年(1830)刊の「嬉遊笑覧」に、「享保半頃、神田辺にて、二八即座けんどんといふ小看板を出す。二八そばといふこと此時始なるべし」とあって、「二八」という言葉の初見は享保13年(1728)頃だと記している。

 その享保半ば頃から二十数年経った江戸の街には「二八そば」や「二六そば」、「二六にうめん(にゅうめん)」といったそばの名目や看板類が文献に現れる。二八そばの看板の片面にはうんどん(うどん)が併記されている。
先ず、そのひとつは寛延4年(1751)脱稿の「蕎麦全書」で、「江戸中蕎麦切屋の名目の事」のなかに、多くの蕎麦屋の名目が挙げられ、そこの部分に「一等次なる物にはニ八、二六そば処々に有り。浅草茅町一丁目に亀屋戸隠ニ六そば、和泉町信濃屋信濃そば、大根のせんを添へ遣す。」として「二八そば」や「二六そば」を名目にするそば屋が所どころにあると記している。
 さらにもうひとつは宝暦3年(1753)初版の「絵本江戸土産」で、下の挿絵のとおり「両国橋の納涼」には「二六新そば」「うんどん」「二六にうめん」が描かれ、「浅草並木町」では「二八そば」「うんどん」が、さらに「芝切通し」の場面でも「二八そば」「うんどん」と書いた看板が描かれている。
   両国橋の納涼の挿絵     浅草並木町の挿絵     芝切通しの挿絵 


 要するに、二八が出現してから20数年もたつと、浅草の並木町、両国橋のたもと、芝・増上寺付近など江戸市中のところどころに二八そばや二六そば、二六にうめんを売る店があって、その行灯看板はまるで定型のように片側にそば切(そば)、もう片側にうんどん(うどん)の文字を描いている。
 挿絵はないが、蕎麦全書に書かれた浅草茅町や和泉町の看板もおおむね同じだったと思われる。
 ここで、時代考証のために認識しておくべきこの時のそばやうどんの値段は、享保の頃は八文くらいで、徐々に十二文が定着していくあたりである。余談だが銭貨は一文銭だけが流通していた時代である。
十六文が定着するのはもっと後のことで、四文銭も流通してからの寛政(1790年代)あたりから文化・文政・天保(1804〜44)にかけてである。

 ここまでが初めて「二八そば」が登場した享保半ば頃から、20数年が経過した「二八そばやうどん」の記録にもとづく江戸市中での実録である。特徴的なのは、どの店もそば切とうどんを同じ扱いで看板に出しているので、この時代はまだ特化した「そば屋」や「うどん屋」ではなく蕎麦切屋(そばが主の店)と、麺類屋(うどんも多く扱う店)とに分化していく時期だったことも分かる。


 江戸時代から現在に至るまでに議論されてきた語源説をみると

 十六文のそばを二八(ニハチ)としゃれた九九説は、それ自体に説得力があって理解しやすいが、後に「江戸時代のそばの値段」でくわしく述べるがそばの値段が十六文であったのは江戸の後期の7・80年間だけであって、それより以前の六文とか八文であった時代に出現してきた言葉の説明にはなり得ない。
もともと、十六という数字を二と八(の積)で表す例はめずらしいことではなかったので、後世、そばやうどんの値段に十六文が現れだすと元々存在していた「二八」という言葉と直結されてしまったのではなかろうか。例えば、角川古語大辞典によると、太平記(1368〜75)に「二八の春の比(ころ)より・・」とか、他にも「二八の時」などとくに女性の年齢・十六才の異称として使われたりもしている。

 配合割合説については、日常の食べ物などを調合する過程で、経験や勘による配合が優先されていた時代のことで粉の分量などは大まかであった。また二八そばだけでなく二六そばも出現している。そして小麦粉と食塩水だけが原料のうどんでも二八うどん、更には二六にうめんなどがあって配合比率ではとても説明することのできない矛盾に突き当たってしまう。
このような例はいくつもあるが、先に挙げた寛延4年(1751)脱稿の「蕎麦全書」のなかにも、二八そばや二六そばが登場し、宝暦3年(1753)初版の「絵本江戸土産」の「二六新そば」と「二六にうめん」、他に文化年間の「東海道中膝栗毛」の「二六蕎麦」などがある。 更に観点を変えて、「計量の歴史」から見ると、江戸時代には粒・粉・液状のものは一合枡・五合枡・一升枡などの枡(ます)が使われていた。とすると、現在風の重量(グラム)をベースにした「8:2」の発想ではなく、比率としては同じでも「4:1」とするか、初めから「10:2」の外2(そとに:10+2)の「一升枡で一杯と一合枡で二杯」のような計量と考えるのが自然である。  このようにみると同じ枡で八杯と二杯の計10回量ることになる「二八」とか「八二」という表現自体が不自然といわざるをえないのである。

 次に少し観点を変えると、一番初めのそばやうどんの値段が六文から八文のころに登場した「二八」の意味はわからないが、その後「二八そば」という言葉がいままでとは異なる意味合いで使われるようになった時代背景の推移をみると、そばの値段が十六文で定着してからのニハチ十六モン「九九・価格」の期間は長く続いた。ところが幕末以降の物価高騰で一気に五十文となり、明治には五厘から再出発することになってニハチの根拠が無くなってしまう。それで一時期はしかたなく単に「二八そば」という呼称だけが習慣として残ることになる。
 それがふたたび、「二八」はそばの品質とか差別化をあらわす使われかたとして再出現し、さらに高品質イメージに加えて、「打つ側も味わう側も」ちょうど頃合いの配合比率であったところから、「粉の配合割合」を表す言葉として、すなわち「二八の割合」という新しい解釈が生まれて現在に至ったのである。
要するに、語源がニハチ十六モンであるとする説も、粉の配合割合だとする説も後世の産物であって、一番初めに現れた「二八そば」という言葉の説明にはなっていないのである。それどころか先の二説に矛盾があることを認めながらも、真の語源にせまろうとしてこなかったのが現在までの実態である。

  目次  「二八そば」語源の謎について考える
  1) 江戸時代のそばの値段

2) そば粉とつなぎ

3) そば粉とつなぎの割合

4)「逆二八説」の論拠となる実態があったこと

5)「二八」 語源の謎を解く

6)「二八そば」真の語源  ---「仮説」---

 
 ここでは、「二八そばの語源の謎解き」をするにあたって、先ず基本的な知識として、二八そばが出現した江戸時代の「そばやうどんの値段」の推移と、そばを打つ場合の「つなぎの役割」や「配合の仕方」という双方から観察したうえで、更にその言葉の生まれた時代背景をも踏まえた真の語源にせまりたいと考える。

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