掃苔記   第 3 回

                       ショパン 愛と死の軌跡

                                     

1849年10月17日午前2時。パリ1区。

今は高級ブティックが立ち並ぶヴァンドーム広場12番地のアパルトマンの一室で、
一人の音楽家が、そのいのちに終止符を打った。

フレデリック・ショパン。享年39歳。

20歳で生まれ故郷のポーランドを発ち、動乱の祖国を憂いつつ、
生きて再びその地に戻ることは叶わなかった。

生涯病いから逃れられず、
ジョルジュ・サンドをはじめ、さまざまな女性との恋愛に生きながら、
永遠の伴侶には、ついに巡り合うこともないまま・・・


「ピアノの詩人」と呼ばれ、音楽の歴史に輝かしい功績を残しながら、
「愛」と「死」の淵を彷徨したショパンの人生を、
私なりに考えてみた。

絵は1838年ドラクロアが描いたショパン


1. 予兆

死ぬことは私の天命
死は少しも怖くないけれど
怖いのは 貴方の
記憶の中で死んでしまうこと


        
ショパン家の末娘エミリアの詩
           『決定版 ショパンの生涯』(バルバラ・スモレンスカ=ジェリンスカ著 関口時正訳 より)



 ポーランド・ワルシャワから西へ55キロ。ジェラゾヴァ・ヴォーラ。1810年3月1日(2月22日という説もあり)、この小さな村で、フデリック・ショパンは生まれた。生家は今も記念博物館として残っているという。父ミコワイはフランス人。フランス東部・ロレーヌ地方の村の領主であったポーランド人貴族に伴ってポーランドに移り住み、妻ユスティナと結婚して、ルドヴィカ、フデリック、イザベラ、エミリアの子をなした。つまり、フレデリックは姉妹に囲まれたひとり息子。わんぱくでユーモラスな性格の反面、感受性の強い子どもだったという。

 文学とヴァイオリンやフルートをたしなむ父、ピアノや歌の上手な母の才能を受け継ぎ、4歳の頃からすでにピアノへの天分を見せ始めたフレデリック。6歳の時には耳で聴くあらゆるメロディを弾きこなし、即興演奏までしてみせたという。7歳にしてワルシャワ上流社会のパーティに招かれるほどの腕前となり、8歳の誕生日を迎える頃には慈善演奏会を開き、初めて聴衆の喝采をさらったというのだから、まさに天才というのは、こういう人のことをいうのだろう。

 彼の最大の問題は、健康だ。幼児期から慢性の咳に悩まされ、中学に入ると、病の影はますます濃くなっていく。一方、ショパン家二人目の神童とうたわれた末妹、エミリアが1年以上の闘病の果て、14歳の幼さで死去。結核が彼女を蝕んだといわれるが、真相は定かではない。けれども、結局、兄フレデリックもやがて同じ病に苦しむことになる。10代にして、あまりにも細い身体(確かに、彼を描いたどの絵も写真も、確かに腺病質な風貌をとらえている)。実際、ピアノはメゾフォルテ以上の音量が出せず、即興演奏の後にはぐったりしてしまうほどだったという。

 妹エミリアの死の翌年、5歳年上ながら最良の親友、ヤン・ビャウォブウォッキが、骨の結核で亡くなった。肉親や友人という精神的に大切な存在を立て続けに失ったショパンが、自らの病弱な身体にも「はかなさ」を覚え、「死」を意識しなかったはずはない。生まれながらにしてピアノの天才は、死の予兆に怯えながら、だからこそ激しい心のうちを鍵盤に託していたのだ、きっと。


2. 流浪

連帯に入って戦場に行くと君は書いているが(・・・)。戦争に行くんだろう。
連隊長になって帰ってきてくれ(・・・)何で僕は君たちといっしょにいられないんだ? 
何で僕は太鼓叩きにさえなれないんだ!!!

                      1831年1月1日付け、友人のヤン・マトゥシンスキに宛てた手紙より
                             『決定版 ショパンの生涯』(バルバラ・スモレンスカ=ジェリンスカ著 関口時正訳 より)



 1829年夏。完璧とはいえないまでも、ショパンは音楽の都・ウィーンでの成功を糧に、翌1830年の春にはワルシャワでのデビューを果たす。同じ頃、コンスタンチア・グラドコフスカというソプラノ歌手との初恋を経験するも、成就するわけもなく、同年10月、ワルシャワにおける最後のコンサートを終えると、11月には故郷を発ち再びウィーンへ。本格的に音楽家への道を歩みだすのだった。それが、祖国との永遠の別れになろうとは・・・。

 ワルシャワが強国ロシアへの武装蜂起を起こしたのは、ショパンが祖国を出てわずか2週間後のこと。それでなくとも、ウィーンでは思いもよらず冷遇され、音楽的成功への夢も挫折しかかっていた彼は、早くも苦悩のただ中にあった。どちらかといえば陽気だったショパンの性格はこの時期に激変したという。優美さの中にも激しさを秘め、多分にポーランドの民族性が盛り込まれた独特の旋律も、こうした激動を経験したからこそ、生まれたのだろう。シュトゥットガルト滞在中の1831年9月、ワルシャワはついに陥落。すでに家族や友人との連絡も途絶え、絶望は頂点に達した。

 同年9月末、ショパンは父の祖国フランスの首都、パリへ向かった。ここからが、ショパンの華やかな音楽家人生ともいえる第2幕。けれど、すでに短い人生の半分を使い果たしていた。そして、最期まで安住の場所を見つけられない人生の終幕でもあった。


3. 明暗

シュトゥットガルトやストラスブールのあとで、この大都会から受けた僕の印象を話そう。
ここには、最高の壮麗、最大の不潔、最高の美徳と最低の悪徳がある。
一歩歩けば、性病に効く薬の広告にぶつかるし、喧騒、騒音、ぬかるみ、
君は想像もつかないだろう。・・・

                        1831年11月18日 アルフォンス・クメルスキ宛てた手紙より
                         『ショパンとパリ』(河合貞子著)より)

 1830年7月。フランスは労働者と新興ブルジョワ(中産階級)が立ち上がり、復古王制に反旗を翻した。いわゆる「七月革命」である。産業革命のただ中にあって、今は「花の都」と呼ばれるパリも、当時は農村部からの労働者であふれ、下水道も完備されていないため、雨が降れば汚水が街にあふれるという悲惨なありさまだった。コレラの大流行で、何万という死者を出した時代でもある。一方、その革命をテーマに、画家ドラクロアは『民衆を導く自由の女神』という傑作を描いた。自由を求めるエネルギーは、激動するパリに充満していたことだろう。七月革命の翌年に初めてパリの地を踏んだショパンも、まばゆいばかりの自由主義の世界に投げ出されるのだった。

 パリでも文化の中心地といわれた9区のブルヴァール・ポワソニエールに住み、音楽会に飛び込んだショパン。オペラではロッシーニ、ヴァイオリンではパガニーニがセンセーションを起こしていた時代だ。そして何より、有象無象のピアニストが饗宴する熾烈な場でもあった。しかし、翌年2月にはパリで演奏会を開き、華々しくデビューを飾る。リストやメンデルスゾーンも演奏会を聴き、その音楽の独自性、華麗なテクニックを絶賛した。やがて、ショパンはパリ社交界の寵児として、貴族や上流階級の令嬢たちにピアノレッスンを頼まれるようになる。作曲家、ピアニスト、そしてピアノ教師としても、ますます名声を高めていった。当時、フランスにはポーランドから亡命してきた知識人が数多く住んでいた。父の祖国フランスで、ショパンは彼らから支援を受ける一方で、新たに亡命してきたポーランド人たちへの支援活動にも加わっていたという。けれど、彼自身は、華やかな世界に身をおきながら、どこか居心地の悪さを感じていた。


 外から見れば、とくに仲間がいっしょにいるときは(僕が仲間と言うのはポーランド人のことだ)、僕は陽気な人間だ。でも内部で何かが僕を悩ます― 何かしら予感のようなもの、不安、夢あるいは眠れぬ夜―郷愁―投げやりな気持ち―生きる意志、あるいは瞬間的には死の願望―何か甘美な静  寂のようなもの、無力感、放心、時には明瞭すぎる記憶が、僕を苦しめる。すっぱい〔やり切れない〕、苦しい〔苦々しい〕、塩辛い、何だかいっしょく たのおぞましい感情が僕の胸を掻き乱す! (1831年12月25日 友人ティトゥスに宛てた手紙より  『決定版 ショパンの生涯』(バルバラ・スモレンスカ= ジェリンスカ著 関口時正訳 より)


 彼の心の中には常に「死」の影がちらついていて、1835年8月には、チェコの湯治場で療養する両親と再会を果たす。一ヶ月近くを共に過ごした後、三人は涙の別れを迎える。そしてこれが、両親との最後になった。

 甘いマスクとピアニストとしての人気。伯爵夫人や令嬢とのロマンスは枚挙にいとまがなかったようだ。そんなショパンが最初に結婚したいと思ったマリア・ヴォジニスカと再会したのは、1836年7月。父ミコワイがワルシャワでつくった寄宿舎で育ったヴォジニスカ家三兄妹。その末っ子がマリアだった。幼かった彼女は、美しい16歳の娘に成長していた。26歳のショパンは、マリアとたちまち恋に落ちる。一時は婚約関係にまで発展した。けれども、ショパンの健康状態は相変わらず芳しくなかった。マリアの両親も病気がちの彼に娘を託すことを躊躇し続けた。翌年夏、ショパンはマリアの母ヴォジニスカ夫人から、婚約解消の手紙を受け取る。マリアとの恋は報われぬまま終りを告げた。

 


4.愛憎

僕はたいへん著名な人と知り合いました。
ジョルジュ・サンドの名で知られているデュドゥヴァン夫人ですが、
その顔には好感が持てませんでした。全く気に入りませんでした。
夫人には僕を遠ざけるようなところさえあります。

                                  音楽劇『ショパンとサンド〜愛と哀しみの旋律』
                                            ブルーノ・ヴィリアン編 持田明子訳 より




     ジョルジュ・サンド                            
 
1836年10月、リストとその愛人、マリー・ダグー夫人が主宰し、パリの花形文化人のたまり場だった文芸サロンで、ショパンは、女流作家として名を馳せていた男装の麗人、ジョルジュ・サンドと出会う。彼女もまた、ポーランド王の血を引いていた。マリアと恋愛のさなかにあった彼には、夫も子いる身でありながらも奔放で強いオーラを感じさせるサンドはむしろ不快であえあった。けれども、1838年春、1年数ヶ月ぶりに再会すると、マリアとの失恋の痛みに耐えたショパンは、しだいにサンドの人間的魅力、芸術的才能、そして母性的な愛に惹かれていく。ショパン28歳、ジョルジュ・サンド34歳のことだった。

 その秋、ショパンはパリを離れ、子どもの保養のためにスペインのマヨルカ島へ旅立ったサンド一家と合流する(共通の知人だった画家ドラクロアは、出発前に二人の肖像画を描いた。のちに、その絵は切り離され、ショパンの絵はパリ・ルーブル美術館に、サンドはデンマークのコペンハーゲン美術館に収蔵されている)。すでに離婚していたサンドには文学者の恋人マルフィーユがおり、彼はショパンに激しく嫉妬していた。この旅は、内密のうちに実行された、まさに逃避行でもあった。温暖な気候は、ショパンの健康にも、創作活動にも、素晴らしい環境を与えるだろう。そんな希望は、しかし、到着早々打ち砕かれる。

 マヨルカ島はスペイン本土の内戦を逃れてきた人々でごったがえしていた。そして、思いもよらぬ悪天候続き。なかなか届かないピアノ。滞在先とし別荘「ソン・ヴァン」を借りることができたものの、12月の激しい雨季の訪れとともに、ショパンの病気が「結核」だとの噂が村中に広がり、立ち退きを言い渡され、山の上に建つヴァルデモーサ修道院に移り住むことになる。陰鬱な修道院の生活はショパンの体調をさらに悪化さた。どこかわけありな、よそ者に対する村人の意地悪な態度にもサンドを困らせる。翌年春、失望のうちに、ほうほうの体で島を後にした。さまざまな逆境は二人の愛を深め、時にはショパンに霊感を与えた。マヨルカ島で聞いた雨音からプレリュード『雨だれ』が生まれたことは有名な話だ。まったく、美しい響きの裏には、残酷なドラマが潜んでいる。

 その夏、サンドは、自分の故郷であるフランス中部のベリー地方にあるノアンにショパンを連れて行く。田園地帯にある大きな屋敷は、教会と公園と教会付属の墓地に隣接していたという(現存しているそうだ。いつか、行ってみたい)。自然に抱かれた生活は、ショパンの身体も徐々に回復する。結局、1946年(死の3年前)まで、毎年春から秋はノアンで過ごしたというのだから、故郷を後にしてから放浪者のような心持で過ごしてきた彼にとっては、唯一心の平安が得られる風景だったのだろう。少しの散歩を除いては、自室のピアノの前で、ほとんど総ての精力を作曲に注ぎ込むショパンに、サンドも献身的に尽くした。その二人が、何故別れたのか。

 サンドには、息子モーリスと娘ソランジュという二人の子どもがいた。サンドは執筆活動を続けて家計を支えながら、子どもとショパンの世話にも励む。ノアンにいる限り、経済的にはショパンもサンドに依存していたようだ。一方、子どもたちとの関係は微妙だった。ソランジュは母サンドと何かにつけ衝突し、ショパンはソランジュを可愛がった。モーリスはショパンを嫌い、母親のサンドは息子を溺愛していた。サンドはときに、ショパンよりもモーリスに加担した。そこに遠縁の娘、オーギュスティーヌを養女が加わり、家庭内はいっそう複雑になった。愛情のねじれは、ショパンを苦しめる。居心地のいいノアンにも、少しずつ暗雲がたちこめていた。

 1847年春。ソランジュは突然婚約を破棄し、彫刻家クレザンジェと結婚する。婚約者を気に入っていたショパンは、この結婚に反対していた。しかし、結局彼の意見は無視される。すでに体調を崩していたショパン。サンドとの感情的もつれは、ついにほどけることなく、その夏、冷たい手紙のやり取りをした挙句、二人はあっけなく9年間の絆を絶ち切った。

 今でもショパンと言えばジョルジュ・サンドの名が挙がる。彼の類まれな芸術を語る上でも欠かせないミューズ。けれど、ドラクロアが蜜月期の仲むつまじい二人を描がいたはずの肖像画では、二人の身体は触れることなく、目線も別々の方向を向いている。初めから、切り離されることを運命づけられていたような構図。サンドはショパンの幸福と孤独のシンボルでもある。

ドラクロアが描いたジョルジュ・サンド 


5.悔恨 


来られるなら、来てほしい。僕は弱っている。
どんな医者より、姉さんたちの方が、
僕には救いになる。金が足りなければ、借りてでも。
具合が良くなったら簡単に稼げるから、そしたら借りた相手に僕が返してあげる。
でも今はあまりに素寒貧で何も送れない。

                             1849年6月25日付け、姉のルドヴィカに宛てた手紙より
                             『決定版 ショパンの生涯』(バルバラ・スモレンスカ=ジェリンスカ著 関口時正訳 より)

                                                                    
 死の数ヶ月前のショパン


 1848年2月。ショパンはパリで6年ぶりのコンサートを開く。サンドとの別れから半年余り、いまだ失意の中にある彼を励まそうと友人たちが企画したものだった。そして、これがパリでは最後のコンサートになった。直後に起きた二月革命で、パリに再び革命の嵐が巻き起こったからだ。君主制が倒れ、いよいよ共和制政府が樹立される。この嵐はヨーロッパ全土に波及。ポーランドにもようやく自由が訪れると期待したショパンだったが、その望みは残念ながら叶わなかった。騒乱を避けるようにパリを脱出し、ロンドンに滞在していたショパンは、祖国のニュースを耳にする。それでなくとも、体調を崩し、勝手の違うイギリス生活に、ショパン自身も希望を失ったような毎日だったという。

 イギリスに渡ったのは、ピアノの弟子ジェイン・スターリングの肝いり。サンドと同じ6歳年上の、スコットランド人だった。彼女はショパンに恋していて、姉で未亡人のキャサリンとともに、財力にあかせて何くれとなく彼の世話を焼いた。あわよくば、彼と結婚したいとまで思っていたらしい。一方、ショパンにその気はなく、彼女の思いに煩わしさを感じつつも、パトロンとして頼りにした。けれども、それがとんだ災難だった。

 二人の姉妹は、いまや著名な作曲家となったショパンをあちこちに連れまわし、いわば自慢のたねにするように、知り合いに紹介したり、彼には苦手な大規模演奏会を企画したりした。体調はますます悪化し、演奏会の出来も散々。ジェインたちに振り回されたイギリスとスコットランドは彼にとって、あまりにも不本意な旅だった。ついにロンドンで寝込むショパン。11月末になって、ようやくパリへ戻ることができたのだった。

 もはや生きる意欲も、そして時間も、彼にはほとんど残されていなかった。1949年春、なんとか外出ができるまでに回復したショパンは、6月に、今は有数の観光ポイントであるが、当時はまだ田園風景の広がったトロカデロにある屋敷に転居した。すでに蓄えは底をつき、治療費だけがかさむ生活。実家からの送金や弟子でであるイタリア公妃の経済的援助で何とか生きていたというありさま。いや、死に向かっていたのだろう。大量吐血に見舞われたショパンは死の恐怖から、姉ルドヴィカに手紙を書き、再会を切望する。ルドヴィカは娘を連れて急遽ポーランドからパリに来る。そして、最期まで弟フレデリックの世話を続けた。

 9月末、トロカデロにいるよりも、温かいパリの街中に過ごすべきとの医師のアドヴァイスで、ショパンは2区のヴァンドーム広場12番地のアパルトマンに移された。すでに死期は迫っていた。10月なかば、友人の神父アレクサンデル・イェウォヴィツキがアパルトマンを訪れる。長らく信仰から遠ざかっていたショパンも、最後に彼から聖体を受け、終油の秘蹟にあずかったという。「終油の秘蹟」とは、「神父が臨終が近い人を訪問し、平安と希望が与えられるよう祈ること、また死にゆく者はこの世の罪を神父に告白する」宗教的な儀式だ。その直後、ショパンは危篤に陥った。朦朧とする意識の中で、彼は「自分が死んだら心臓はワルシャワへ運ぶ、葬儀にはモーツァルトの『レクイエム』を演奏する、未完の手稿はすべて破棄する」この3つの遺言を残す。そして10月17日午前二時頃、真夜中のパリで、息を引き取った。葬儀はマドレーヌ寺院で行われ、三千人が参列したという。その葬列はペール・ラシェーズ墓地へと続いた。その中にはドラクロアやジェイン・スターリングの姿も・・・。ジョルジュ・サンドだけは、最後まで姿を見せなかった。

 


ショパンはまさに天使です。彼の思いやりや優しさ、辛抱強さが、時々私を不安にします。
彼の体はあまりにも繊細かつ精巧で、完璧すぎるために、
粗野で苦難に満ちたこの世の生活では長く生きられないように思えるのです。
マヨルカでは死ぬほどの病気を患っていながら、天国の香しさに満ちた音楽を作り出しました。
私は彼が天上を飛翔しているのを見慣れていますから、生や死が彼にとって何らかの意味を持っているようには思えません。
ショパン自身、自分がどの惑星に生きているのかよく分からないのです。(略)

                                    音楽劇『ショパンとサンド〜愛と哀しみの旋律』
                                               ブルーノ・ヴィリアン編 持田明子訳 より サンドの言葉

6.静寂

 ショパンの人生は、わずか39年。それでも激動の時代に、ポーランドとフランスで生きた39年は、充分すぎるほどに波乱万丈だった。「美人薄命」というけれど、才能ある人間は所詮、太く短く生きる運命なのかと思うばかりだ。

 9月のパリは、ときに夏の名残りの陽差しを見せながら、すでに木立が色づき始めて、日本よりもはるかに秋の気配を漂わせている。ペール・ラシェーズ墓地には、2度とも、そんな9月に訪れた。公園のような佇まいに、朝な夕ないつもひとりで行ったけれど、今思えば、外国人の女ひとり、墓地をうろつくなんて物騒なことだったかもしれない。けれど、出会う人には総じて危険を感じなかった。お墓参りに来る人に悪人はいないという証拠だろうか。墓地の壁の向こうはパリの喧騒があるのだけれど、写真のような並木道を歩いていると、ほとんど静かだ。本当に散歩している気分になる。
 
 広大な同墓地の中でも、ショパンのお墓は比較的容易に見つけられる場所にある。いわば、メインストリートのようなところに立っているからだ。お墓自体は通り過ぎてしまいそうなつつましい大きさ。でも、必ず目に止まるはず。というのも、ここには、墓石の白さと見事にコントラストをなすように新鮮な花が、いつもたくさん飾られているからだ。華麗なピアノ曲そのものに、華やいだお墓。パリに数ある芸術家のお墓でも、これほどのものは、少ないだろう。
  

 
 それだけ、ショパン愛好者のお参りが絶えないということだろう。「ポーランド出身のショパンが何故パリに眠っているのだろう」と、あの頃は何も知らなくて、ただ写真を撮っていたけれど、フランス人を父に持ち、生まれた祖国ポーランドを愛しながら、父の祖国の音楽の都で功なり名を遂げて、いつか故郷に錦を飾りたいと願いつつ、病に倒れたその人生を思うと、音楽家としての彼を育てたパリにお墓があるというのは、当然だといえる。ただ、心臓だけはワルシャワ・聖十字架教会の柱の中にに安置されている。ショパンのふたつの祖国への思いが忍ばれる。

 ジョルジュ・サンドは、息子モーリスの妻、リナ・カラマッタが彼女の秘書を勤めるほど献身的に尽くされ、二人の間に生まれた娘(彼女にとっては孫)・オーロールにも慕われて七十二歳まで生き、ノアンの館で亡くなったという。数々の男性を激しく愛したサンドも、パリの二月革命を期にノアンに引きこもり、後半生を過ごした。ショパンとの愛を育み、その愛を失ったノアンで・・・。

 サンドの娘、ソランジュとショパンはサンドと別れた後も親交を続けていた。このお墓の台座の上に飾られた彫刻は、ソランジュの夫、クレザンジェの作品。最初は彼をひどく嫌っていたショパンだったが、ソランジュが結婚を機にサンドと決裂した後、何くれとなく、二人を支援したという。水原冬美著『パリの墓地』によると、この像は「弦の切れた七弦琴を抱いて涙にかきくれる美神エウテルペ」だという。弦の彼の死からちょうど1年たった1850年10月17日に、除幕式が行われた。サンドと出会わなければ、ショパンのお墓もまた違ったものになっていたかもしれない。飲んだくれで粗野な男という評判だったクレザンジェも、ショパンでなければ、自分の彫刻もここまで世に残ることはなかっただろう。まさに奇縁。ちなみに、ペールラシェ―ズには、ショパンと恋仲になる4年前にサンドの恋人だった、ミュッセのお墓もあるそうだ。残念ながら、まだ訪れていない。
   


6.鎮魂

またあの悲しい調べが聞こえてくる。
壮重な調べはまるで葬送のように私のほうへ向かって近づいてくる。
溜息とも、あえぎともいえない苦しい息づかい・・・。
私を迎えにきたのだろうか?
あれはショパンの、たしか作品四十八の一 ハ短調のノクターンだ。
音は益々近くなってきたようだ。(略)

                               遠藤郁子著『いのちの声―失うことは生かされること―』(海竜社刊)より


 1965年にショパン・コンクールで特別銀賞を受賞したピアニスト、遠藤郁子氏の随筆という本を読んだ。彼女は、日本クラシック界の重鎮であった年上の夫との、看病に費やされたような苦しい結婚生活を自ら絶ち、ピアニストとして再出発しようとした矢先に乳がんの宣告を受けた。離婚、手術、リハビリを経てピアニストとして再生するまでの軌跡が、この本には綴られている。実はわが友林檎がかの地で病に倒れたとき、贈られたのがこの本だった。林檎には、めったに取らないという遠藤氏の弟子の友人がいたのだけれど、もともとは遠藤氏が恩師のペルルミュテール(ラヴェルの権威だそうだ)に進呈された1冊で、巡り巡って彼女のもとに届いたということを、手紙に書いてくれている。手紙は「遠藤さんも“気”に凝ってる人だから、何かその本が私にもパワーを与えてくれそうな気もします」と続いていた。

 本の中で、遠藤氏は北海道旭川市にあるアイヌ墓地に行った時に、死者と対話した話をはじめ、臨死体験、夫の亡くなった先妻の亡霊との遭遇など、不思議な体験を書かれている。心底芸術家である彼女は、霊的能力も人一倍強かったのだろう。そんな不可思議な体験の後、病気が発見された。そして、手術後の病室ですり足で近づいてくる白足袋の姿を何度となく見るという、これまた数奇な体験をするのだ。それを能楽の一幕に出てくる巴御前の姿だと感じる彼女。そして、ショパンのノクターン作品48の1に、能の世界の「あの世」と「この世」を彷彿させる情念を感じ取るのだった。彼女の夫は、彼女との別離から10ヵ月後に脳溢血で亡くなったという。

 これも不思議な話なのだけど、数年前、姪がピアノの発表会でこの「ノクターン作品48の1」を弾いた。私はその時、初めてこの曲を聴いた。姪の演奏はどうみても失敗で、実力以上に難しいものを選んだものだから、暗譜もままならないまま、ほとんどとぎれとぎれだった。どうにか終って、姪は舞台でおじぎをしたけれど、泣きながらそでに引っ込む時というありさまだった。けれども、とぎれとぎれのフレーズが何故か私の耳に残ってしまった。すぐにノクターン全集のCDを買い、聴いてみて、私はすっかりこの作品48の1に魅せられてしまった。遠藤氏の本に出会ったのはそれからずいぶん後の今年になってから。そこで、林檎の手紙のことを思い出し、遠藤氏の『ショパン序破急幻』というCDにたどり着いた。「序破急」とは能楽の一日の演目のこと。遠藤氏は病に苛まれ、ご自身がガンと闘う中で鋭く霊感を研ぎ澄ませたように、常に死と隣り合わせに生きたショパンも「あの世」を体験したに違いないと感じる。そして、ポーランド人であるショパンの音楽に、能の世界の序破急を見出したのだ。

 遠藤氏はこのノクターンは「葬送の曲」ととらえていた。私が、あの姪の拙い演奏の中でただならぬメロディの響きを感じたのは、そういうことだったのか。だとすれば、今更ながら合点がいった。それは、やはり私にとっては、林檎自身に直結する。ピアニストにしては珍しくも、ショパンはあまり好きではないと言い、フランス音楽に傾倒していた林檎。その彼女が、一度とあるTV番組でショパンを弾いている。36年の生涯がついえる数年前の話だ。今思えば、これも不思議な符号。私には異邦人としてフランスに生きたショパンの孤高の人生が、林檎とダブって仕方がない。

 不思議といえば、私の友人が急にクラシックに凝り、原智恵子というピアニストのことを書いたノンフィクションを読んでCDも買うんだという話を聞いた。そこで早速私も『原知恵子―伝説のピアニスト―』という本を読んだ。なんと驚いた。フランスにピアノ留学をしていた原智恵子に片思いし、思いを遂げることもできぬまま彼女の才能にジェラシーさえ覚えて、最後には彼女の成功を陰で妨害した著名な作曲家の名前が出てくる。それが、後に遠藤郁子氏の夫になる人なのだ。因果はめぐる。原智恵子さんは1937年、第3回のショパン・コンクールに日本人として初めて出場し、聴衆賞を贈られている。波乱万丈の末、昨年12月、老衰のために86歳で亡くなった。最近になって再び脚光を浴びている彼女、この10月にはショパンとドビュッシーの演奏録音が復刻され、CDとして発売されている。

 音楽は、いわば天上との交信。そのメロディの誕生からすでに霊感を帯びているからこそ、美しい音楽は人の心を揺さぶる。まさにいのちを削るように作曲したショパン。ピアニストは作曲家のいのちを翻訳し、自分の身体を媒介にして今生きている者へつなげるリレー走者のようなもの。苦しくないわけはない。だからこそ、全身全霊で作曲家と向き合い、魂を交信しあえるのだろう。人生は短くとも、人の心に残るものは、時代を越えて生き続けている。ショパンのお墓があれほど花で囲まれているのが、何よりの証拠だ。

 

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