[カシュパーレク]
カシュパーレクの移り変わり

カシュパーレクはチェコの喜劇タイプのパペットで、※道化の人形。19世紀半ば、彼はチェコの 人形劇師たちが操っていたPimprleと呼ばれるオリジナルの喜劇人形に取って代わった。彼の名前の 由来についての論はいくつかあるが、歴史家たちはドイツのKasperlから翻訳してKasparekになったと する傾向が強い。Kasperlは18世紀終わりにプラハのVlastenske divadlo(Patriotic Theatre)と いうシアターでチェコではじめて代替的に現れた。はじめカシュパーレクは脇役で出ていた。

チェコの人形劇の中で、カシュパーレクは勇気があり、臆病で卑怯で怠惰で欲張りなどの間でゆれる とても矛盾した、小さい初老の男のキャラクターとして描写された。人形は非常にリアルに作られて いた。いつも利口でライバルをトリックに陥れ、正直さで一般の同情を獲得する。彼のおせっかいな 姿勢は、一般聴衆の姿勢を反映しており、コメディーヒーローの中では最も庶民的だった。それゆえに 人形師が確立した聴衆とのコンタクトの取次ぎとなる人形はカシュパーレクだった。民族復興運動で ヒーローとして担ぎ出されたのもこのためである。

しばしば彼が行う模倣と劇的で哀れなヒーローの姿勢は、その時代の大衆劇の特徴を持った明白な 風刺である。

カシュパーレクのユーモアは多くの聴衆たちの精神面を反映させていた。20世紀初頭、 カシュパーレクはアマチュアのシアターで子供たちのお気に入りのヒーローとなった。もともと彼は 背が低く、衣服には鈴がついていた。しかし、その後彼は陽気な若者になった。現在ではデフォルメ 化が進み、道化で二股の帽子を被っているものはカシュパーレクと認識されている。

そのため今ではカシュパーレクというと、人形個人の名前と、一般的な‘道化’の意味を含んでいる。

道化…王様が買って身の回りで遊ばせていた芸人。どこにいるときも無礼講で、王様と庶民の緊張を 緩和する役割をしていた。


カシュパーレクが主役の劇

カシュパーレクが主役の劇はたくさん存在するが、流れがどれも似通っている。主な登場人物は カシュパーレクと王様、王女様、そして敵(ドラゴンや盗賊など)だ。今ではそこに警察官が加わる こともあるらしい。たいていは王様が敵とトラブルを起こし、カシュパーレクがとんちで撃退して ご褒美をもらうというもの。

私たちがチェコウニマで拝見した劇では、悪を尽くす王様が公開処刑されそうになるところを カシュパーレクがとんちで助けていた。その王様は最後には死神に魂を持っていかれたのだが。 (Jeminkote Psohlavci)


マチェイ・コペツキー(Matej Kopecky)の伝説

「チェコ人形劇の開祖」、「チェコの操り人形劇師の王」と称されるマチェイ・コペツキーの 人生は巡回人形劇の時代に始まる。ある伝説は彼の頭上に後光として輝き、その命は成人や キリスト教伝道者のようにはじまった。この歴史的伝説は今、大変印象深くなったが、 マチェイ・コペツキーの「乞食かコメディアン」の本当の生活とはまったく関係がなかった。


本当のマチェイ・コペツキーの生涯

マチェイ・コペツキーは1775年、Hradec Kralove地区のLibcanyで生まれたとされている。 彼の父親は巡回コメディアンで人形劇師だった。このことはマチェイ・コペツキーが家族的人形劇団の 創立者であるという伝説を反証することになる。Kopeckyという彼の名前は、18世紀に人形劇師の間で つけられた。子供の頃、彼は両親とともに村の品評会をまわり、放浪者として生活していた。

1797年、マチェイ・コペツキーはマリオネットを操るライセンスをもらったが、それは Prachenの中だけで、しかもたった6ヶ月だけだった。ある文献によると、彼は若い頃からずっと 人形劇を演じ続け、それに必要な能力と支持者を持っていた。

彼はナポレオン戦争やイタリアの十字軍に参加し、十字軍で初めて人形を見たとする伝説もあるのだが、 マチェイ・コペツキーは幼い頃父親から教わっていた。

1811年、マチェイ・コペツキーの人生の中でとても重要なものになった。彼は Mikolas Sichrovskyに人形を彫ってくれるよう頼み、そしてその人形たちとともに国じゅうを旅した。

1811年、彼はどんどん衰退していき、ボタンと羊毛の貿易を試みる。しかし皇帝の特許権が 解放されたので、隣国との貿易摩擦が起こり、商売はうまくいかなかった。それで、 マチェイ・コペツキーは時計作りなどの合間に時機を得た人形劇を始めた。1812年、彼は Prachenとその周りの地域で、‘視覚的で機械的な劇を演じるための許可’を求めた。 マチェイ・コペツキーの家族の暮らしは本当に悪いもので、曲芸や手品の考えに取り組むには年を とりすぎていた。人形だけが彼の手元に残っていた。マチェイ・コペツキーの人形の起源は 知られていない。彼自身が作ることも可能だっただろう。マチェイ・コペツキーは1820年から 彼が死ぬ1847年まで人形劇を演じた。1835年にはBohemia(後のチェコ共和国)じゅうで 演じることを許可された。

彼は文字を書くことができなかったので、台本を創作できなかったが、非常にすばらしい記憶力を 持っていた。彼はたいてい最新の劇を演じ、一般の聴衆のために、有名な劇場で劇を披露した。だが、 その劇をアレンジする必要があった。よく行われた劇は’Doctor Faust’ ‘Don Sajn’ Mr. Franc from Castle’ ‘Village Fair in Hudlice’ ‘Flajsic’ など。 彼は風刺を含む劇を即興で作り上げた。彼のカシュパーレクはしばしばオーストリアの皇帝を批判した。 それでマチェイは政府に劇内容を報告することになった。

マチェイ・コペツキーはチェコで一番有名でも一番良い人形劇師でもない。彼はチェコで初めての 人形劇師ですらない。よく間違えられるようだが、チェコの人形劇についての初めての本は、 外国の人形の会社が始めてチェコで人形劇を催した17世紀からのものだからだ。なぜ マチェイ・コペツキーがこんなに名声を得て、伝説が生まれたのか未だに謎である。


マチェイ・コペツキーとカシュパーレクの関係についての考察

事前調査で私たちが調べた結果では、カシュパーレクはチェコで最も有名なマチェイ・コペツキーが ドイツから持ちこんだとしていた。だが実際チェコでもらった資料やお話によると、どうやらそうでは ないらしい。カシュパーレクはどうやら名前も残っていない一人の巡回人形劇師が持ち込んだようだし、 マチェイ・コペツキーも本当はよくある人形劇師の一人に過ぎなかったようだ。

ではなぜこの二人はつながりを持っているように世間では知られているのだろうか。私なりの考えを まとめてみた。


すべては民族復興運動から

国民復興時代、チェコの一般市民最大の運動、民族復興運動。実はカシュパーレクと マチェイ・コペツキーはこの運動で英雄に祭り上げられている。民族復興の英雄に人形劇師と人形が 選ばれたのは、チェコ語を使用禁止にされていたことからくるのではないだろうか。チェコで チェコ語を堂々と話すことができる唯一の人形たち。そんな彼らを英雄にする気持ちはわからなくもない。 カシュパーレクはその頃庶民に大人気だったのだから、これほどまでにない人材だったのだろう。 一方でマチェイ・コペツキーが人形劇師の代表としてカシュパーレクとともに英雄となったのかは わからない。しかし世間が彼らを結びつけて考えるきっかけとなったのはこの民族復興運動だろう。



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