さようならの代わりなんて





 嫌われたくないとは思っていた。
 けれどみんなの前で言い合いなどしてしまったし、「私の部下です」なんてたいそうなことを言ってしまった手前もう引くに引けないけれど、しまったなぁと臍を噛んだものだった。
 できることなら穏やかに、先生、と呼び合う中で隣に佇んでいたかった。
 明朗に笑う顔が好きで、照れたときに頬をかく癖が好きだった。
 彼の矜持を傷つけたのだろうとは思う。
 こちらは上忍で、彼は中忍なのだし。



「どうも、お疲れ様です」

 差しだした報告書を受け取った指先。無骨そうで誠実そう。
 声といえば、硬いとしかいえないものだったけれど。

「どーも、お疲れ様です」

 それに気づかないふりで、カカシはだらりとした態度を守った。
 虚勢であることは自覚済み。
 こうでもしないと、猫背であるようにみえるのが項垂れているせいだとばれてしまうし、だらしない喋り方が震えないように努めているものだということがばれてしまう。
 それは厭だ。
 かっこ悪い自分なんて見られたくない。

「確かにお受け取りしました。お疲れ様です」

 そうして終わる、一日のうちの、短い幸せ。
 あのことがあってからは、お疲れ様です、に付随していた彼の照れくさそうな笑顔もなくて、その幸せはすこし味気ないものになってしまったけれど、今の自分にはそれでも大きな幸せ。
 もう、一緒に飯を食べにいったりとかもできないのだろうか。
 誘っても断られるだろうか。
 臆病な考えがぐるぐると渦巻いて、結局、彼に見せるのは無言の背中。


 だって、お疲れ様です、なんて「さようなら」って言葉とおんなじだろう?






***********


 好きになるのは当たり前だった。
 たとえみんなの前で、面と向かって「私の部下です」なんて言われたとしても、それはあの人の立場からの言葉だと分かるし、当然だとおもう。
 俺は俺の主張をしたから、彼は彼の意見を言った。
 そして、あの場では彼のほうに分があった。
 べつに恨み言をいうつもりはない。

 けど、あのことに関して、彼に対してなんのしこりもないか、っていったら嘘になる。
 たとえるなら、自分なりに大切にしていた存在を、自分よりも大切にちゃんと管理できる人に奪られた、ような。
 つまりは僻みなのだけれど。

 けしてナルトをはじめ、下忍たちは自分のものではないし、上忍のものでもないが、立場からすればたしかに担当上忍の部下であるはずで。
 それを面と向かって言われ、もう他人でしょ、と言われれば、ありもしない矜持が疼くというものだ。

 でも好きだ、って思っちまうんだよな。

 彼の喋り方や態度、噂や忍びとしての技量。
 すべてを総括して、彼を好ましいと思う自分をとっくに自覚はしていて、たとえ公衆の面前で言い合ったとしても、好きだとおもう自分は揺らがなかった。
 いじらしい、というよりは、いじましいと思うが、しょうがない。
 今日も受付の仕事をしながら、彼が自分のところに報告書をもってくることを望んでいる。

 ほら、やってきた。

 姿をみただけで、鼓動はかってに早くなり、それを隠すために最近じゃ顔がこわばるほどだ。
 ほかにも二人ほど受付には係りが並んでいるのに、差し出されるのが自分であることも、嬉しすぎて泣きそうで、声が震えないようにと緊張する。
 気安げに話すのなんて無理だ。

「どうも、お疲れ様です」
「どーも、おつかれさまです」

 彼はいつもどおりの態度を崩していない。
 ゆっくりとした喋り方も、猫背気味な背中も変わらない。
 けれど、あの口論、といえるのかどうかは分からないが、ささやかな意見の衝突のあとは、食事に誘ってくれることもなくなった。
 上忍からの誘いなんてままあることじゃなく、しかもそれがあの「カカシ」であったことなんて、やっぱり幻だったんだと思えるぐらい。
 それぐらいには、彼の態度は当たり前に「他人」だった。

 まぁ、他人は他人だったけど。

 食事を口実にして、一緒にいることが楽しかったのは自分だけだったのかも、といまさら後ろ向きになりそうで、悔し紛れのように、カカシと自分のあいだの距離を思い出す。
 もともと、ナルトたちを接点にして交流をもてただけ幸運だったのだから。
 もう一度まえみたいに会えたら、なんて過ぎた願いだ。

「確かにお受け取りしました。お疲れ様です」

 ゆっくり、ふだんの約1.5倍ぐらいの時間をかけて彼の報告書を確認して、名残惜しいけど、お疲れ様です、と告げた。
 ほんとうなら二倍三倍の時間をかけてもいいが、そうすると他の係りの人がいぶかしむだろうし、彼にも変に思われるだろう。
 それはちょっと勘弁願いたい。
 以前なら、お疲れ様です、のあとに彼が食事に誘ってくれたときもあったが、最近じゃそれもないし、彼のなかの俺の評価を上げる機会はほぼない。
 一日のうちの、こんな短いあいだに、彼に変だと思われて評価を下げるのは避けたい。
 良い様に思われたいのは、絶対に、あたりまえのことだった。
 でもひるがえった彼の背中には、つい願いを思ってしまう。
 ほんとうは「お疲れ様です」なんて言葉で、彼をみれる時間を終わらせたくはない。
 けれど。


 「さようなら」よりはお疲れ様、のほうが寂しくないと思わないか?






***********




「あ…」
「―――あ」

 おもわず、といった風に声をあげたのは、同時だった。
 夕暮れも深く、あたりはとうに薄闇がおりていた。
 だがイルカはカカシの白くみえる頭髪をすぐにみつけたし、カカシは間近にせまったイルカの気配に気がつかないわけはなかった。
 アカデミーの門の前、ふたりして固まったようにお互いを見る。

 偶然か。
 偶然だろう。
 夕餉前のこの時刻に出会うことも。
 驚いたように声をあげたことも。
 まさか待っていたとも考えられず、先に声をかけたのはイルカだった。

「こんばんわ、カカシ先生」
「ええ、こんばんわ、イルカ先生」

 そつなく返ってきた返事。つぎに話すこともなくなってしまうほどの。
 イルカは寂しくなった内側に蓋をして、強張りそうだった頬をむりに動かした。
 笑ったように見えてくれるだろうか。

「待ち合わせですか」

 羨ましいですねという意味を漂わせて、わざと軽口のように。
 あまりにあっさり通り過ぎると、それはそれで失礼にあたることは処世術の基本として知っている。
 だから、適当な言葉に紛らわせて通り過ぎることにした。たとえ本当に羨ましかったのだとしても。
 カカシに待たれる人が羨ましかったとしても。

「それでは…お疲れ様です」

 ひとつ会釈をして、距離にして腕ふたつ分向こうの影に別れを告げる。
 お疲れ様です。
 言った途端、昼間のことを思い出す。
 結局、言っている中身は大して変わりが無い。
 さようなら、と代わりない。
 イルカのなかは寂しさでいっぱいだ。

「―――イルカ先生」

 だから、呼ばれたとき。
 考えるでなく、かってに身体が反応した。
 その声に、足が止まり半身が振り返る。
 カカシへと。
 ひそりとした立ち姿が、夕闇のなかでも形良く、浮き足立つ想いがした。

「なん、でしょう」

 腕ひとつ、距離が縮まったことを、イルカは振り返って知った。
 強張りそうな顔を、震えを伝える声を内心で叱咤する。情けない。呼び止められただけなのに。
 そしてもう腕ひとつぶん、距離を詰めてくる姿を見る。

「イルカ先生」

 もう手を伸ばせば届く距離で、名を呼ばわれる。
 はい、と返事をしてイルカはカカシの言葉をまつ。

「あの、ね、待ち合わせじゃないんです」
「はい」
「―――それでね、あの」

 そして、待つ言葉。
 どうしてこんなにもカカシは緊張しているようなのだろうと、思いながら。
 自分も緊張していることを自覚しつつ。
 カカシの言葉を待つ。


「もしよかったら――――――」


 続けられた言葉に、イルカが頷くかどうかは言うまでもなく。
 お互いが、お互いの想いを知るには、あといくばくかの時間が必要なようだった。





2004.5.16