あなたを好きだと想わなければ。





「イルカさん、大丈夫ですか?」
「―――え?」

 驚いて顔を上げれば、平素とかわりない表情で、カカシが立っていた。
 受付の業務に腐心していたイルカは、返事がすぐにはできずまごついてしまった。そのタイムラグがじれったかったのか、カカシが重ねて問うてきた。

「具合、身体の。大丈夫?」

 イルカの横に座っていた同僚が、焦ったように、机の下からイルカの脇腹をこづいてきた。はやく返答しろ、という意味だ。
 カカシは名が高い。なまじ中忍になど話しかければ、ちょっとした話題になるほど。
 それは対イルカにしてもまったく同様で、イルカがカカシと個人的に繋がりがあるなど、極々一部の人間をのぞいてはほとんど知られていない。
 だからこそ、ぽかんとカカシを見上げたままなにも答えないイルカの脇腹を突付いたりする同僚もいる。
 イルカが、カカシに声をかけられて萎縮していると勘違いして。

「…ぉぃ! イルカっ、なにぼーってしてんだよ…っ」

 小声で囁いてきた同僚に、イルカは目線だけ返して、それから微笑を浮かべつつ答えた。

「何のことか分かりませんが、大丈夫です。ご心配いただき恐れ入ります」

 短くはない受付業務で学んだ、接客奥義。
 答えたくない質問には、礼で返せ。
 二人きりでなら見ることもないだろう、取り澄ましたイルカの微笑に、カカシの眉がこころもち斜めに上がった。
 気に食わない、という意思表示。
 だがそれも、真正面のイルカに分かる程度。
 現に、さっきまでせっついていた横の同僚は、さっぱり気づいていない様子で、イルカのほうを窺っている。

「………そう、それならいいんだけど」
「報告書、お預かりしました。お疲れ様です」
「どうも」

 くるりと見せた背中が、すこし怒っているようにみえたのは、イルカの気のせいだったのだろうか。
 答えがわかったのは、それから四時間半後。
 日がとっぷりと暮れて、アカデミーの門の側で。

「イルカさん」
「…カカシさん、どうして」
「あなたを待ってたんだよ。気になって」

 ひっそりと夕闇の濃度を増すように佇む姿。
 それが里には不似合いな物騒さを滲ませているように思えて、イルカは眉を潜めた。わずかばかりの険を混ぜて言う。

「気にしていただくことではないと言いました」
「そうだね」
「なら」
「でも、気になって」

 近づいてきた体温に、イルカは半歩ほど後退った。
 だがそれを追いかけて、カカシはイルカの掌を取った。

「それぐらい許して。それから薬も、用意したから」
「必要ありません。自分の分ぐらい…」
「薬ぐらい、用意させてよ」

 どこまでも言葉ばかりは下手をいくカカシに、イルカの険もさすがに鈍った。
 取られた掌が、自宅にむけて引かれていく。
 気になる人目を思いつつも、イルカはそれを払う気になれなかった。
 カカシの掌は、とてもひんやりとしているように思えた。

「あんまり無理は駄目ですよ」
「別に無理をした覚えはありません」
「どこが。繕わなきゃならない不調なんて」
「貴方以外には誰も気づきませんでした。その程度です、これぐらい」
「みんな間抜けばっかりだね」
「その言い方は…」
「ごめん」

 寒気が、夜気とともにイルカの身体に纏わりつく。
 首筋の嫌な熱が、喉をひりつかせて、吐息と共に抜けていくが、身体自体はいっこうに冷えてはくれない。あるのは寒気と、身体の奥の熱。
 これぐらい、本当に、忍びの身体にはどうということもないのに。

「本当に、大丈夫なんですよ」
「そうですか」
「だから、そんなご心配いただかなくても―――」
「俺、イルカさんの心配、しちゃいけないんだ?」
「……」

 ぴり、とカカシの背が、再び静電気を帯びたように尖ってみえた。
 それが電波したように繋がった掌までもが、震えた。

「ねぇ」
「………」

 掌が熱い。
 ひややかで心地よかったはずのカカシの掌が、まるでイルカの熱がうつってしまったかのように熱い。


   あなたを好きだと思わなければ。


 胸のうちで、イルカは呟く。
 目の前の人にはきかせるつもりのない言葉。
 カカシを、想わない自分であれば。
 ここでひとつ頷けるのに。
 カカシを誰よりも、想う自分で有ればこそ。
 彼の優しさが苦しいのに。

「答えて、くれないんだね」


 独り言のようなカカシの言葉が、ぽつりとイルカの心に刺さり、しばらく痛かった。



2003.10.23