晴天好日、秋の花。





 金木犀の香りが、頬の先をかすめて秋風とともに流れていった。
 濃い華の気配にカカシは何もない空間をみる。
 目を細めて、口元で笑うと、ゆるりと足をアカデミーへと向けた。




「イルカ先生って、金木犀みたいですよね」
「…は?」

 教員控え室で書類を片付けていると、ふらっとやってきた上忍。
 とうとつに申し付けのように言われた。
 なんのことかさっぱり判別できずに間抜けな返答を漏らすと、カカシはさらに、告げた。

「だから、金木犀みたいだなぁって思って」
「―――…すいません、俺にはあなたの言うことがほんの一割一分一厘ほども理解できません」

 本当は一厘だって分からなかったが、正直に控えめに言ってみると、カカシが可愛らしく小首を傾げた。大の大人がそんな仕草をしても、実際、イルカには可愛くも愛らしくもなかったが。

「え〜? 俺、ちゃんと言語を話してるでしょ?」
「………」

 軽くぷちっとイルカの我慢の緒が切れかかる。
 どうしてこう、いちいち、深読みしたくないような含み有ることばかりいうのか。
 それともなにか、上忍は人の神経を逆立てるのが得意なのか。

「―――俺は、ちゃんとあなたの言っている言葉も単語の意味も分かりますが、国語的な問題としてあなたが言わんとする非言語的情報を読み取れないと、そう言っています」
「ああなるほど、そう言ってくれれば分かるのに」
「ははは」

 乾いた笑いがイルカの歯のあいだから漏れ出ていった。
 書類作成のために握っていたペン先で、いびつな線がじりじりっと長くなった。

「…それで、俺は現在、明日の会議に必要な資料を作っているところなんですが、それをおいてでも重要な暗号かなんかなんですか?」
「いえ、別に」
「それならまたどうぞ」
「そうですね」

 あっさりとしたもので、イルカが書類に向き直ったときには、傍らからカカシの気配は消えていた。
 心中で溜息をつく。
 邪険にされてすぐに退散するようなら、始めから仕事中にこなければいいのに、と思って。
 別にイルカだとて仕事中でなければもっと適切に対応できる。追い払うようにしないし、眉間にしわをよせて話したりはしない。カカシより仕事が大事だともわざわざ口に出さないし、またどうぞ、も言わない。
 何が言いたかったかは知らないが、本当にカカシはイルカに溜息をつかせるのが得意技だ。

「…ったく、なにが」

 なにが金木犀みたいです、だ。
 さっぱり分からない。
 もちろん金木犀は知っている。今のような秋の気配が本格的な頃合。里のあちこちの民家の庭で、豊かな香りを放っている。ひんやりとしてきた朝になど、その香りが漂ってくると、いかにも季節の移り変わりと、馥郁とした秋の豊かさが思われて、イルカは好きだ。
 あの香りが漂うころ、ああ季節が変わったなと思い、冬の寒さを思い出す。
 イルカにとって金木犀とはそんな記憶の匂いだった。
 だが、それを踏まえていても、やっぱりカカシの言いたかったことはさっぱりわからない。
 まさか秋ですね、といいたかったわけでもあるまい。
 イルカ先生は秋ですね、とでも?

   バカバカしい。

 イルカは思考を放り投げた。
 考えても本当に取っ掛かりさえ掴めない。
 機会があればこの謎は解けるだろうし、よしんば解けなくても構わない。
 そう思ってイルカは書類へ、今度こそ向き直った。



 その機会は意外な形でやってきた。
 書類も片付きそのた雑多な仕事も一段落して、そろそろ終業かという頃合に、紅がやってきたのだ。
 にこやかに鮮やかな唇が笑んで、イルカに声をかけてきた。

「今、良いかしら」

 密かにイルカは感動した。
 こんなに常識的な問いかけを耳にしたのは、いったいどれほどぶりだろうかと。
 少なくともカカシ≒上忍、の最近ではとんとお耳にかかっていない。
 あまり話したこともない艶やかな上忍への評価は、イルカのなかで、ただその言葉だけで鰻登りに上昇した。
 ゆえに、イルカは人当たりのよい笑顔で答えた。

「ええ、何かご用事ですか?」
「カカシのことなんだけど」

 ―――瞬時に、笑顔が凍った。
 申し訳ありませんが、とイルカは固まった顔のまま言った。

「それなら仕事が終わった後でもかまいませんか?」
「いつになるの」
「あと四半刻ほどで…」
「そう、じゃあ上忍控え室、分かるでしょ? そこで待っているわ」
「え、あの…っ」
「あんまり待つのは好きじゃないの、お願いね」

 ひらりと翻ったしなやかな背中。
 素晴らしい肢体がイルカの目の前から消えた。
 あとに残ったのは、まるで金木犀のような芳しい色気。
 あれが美女というに相応しい艶やかさなのだと、イルカはぼんやりと思ってしまった。


 そうして普段の倍以上のスピードで仕事を終わらせたイルカは、足取りもせわしく上忍控え室へ向かった。用件はどうあれ、あんな華人を待たせるのは心苦しくおこがましいことだと思って、急いだ。
 息をかるく切らせつつ、控え室の入り口へ立って、室内を覗くと、人影は二つ。ひとつは確かに紅だと分かり、部屋へ入った。

「お待たせしました!」
「あら、ごめんなさいね、わざわざ呼びたててしまって」
「いえ…っ」
「よぉ、お前ぇも災難だな、こんな女に引っかかってよ」
「アスマ先生…!」
「なによアスマ、その言い草! まるで私が狙ったみたいじゃない」
「違うのかよ」
「わざわざカカシのに手をだすなんてそんな面倒臭いことしないわよ!」
「そりゃそうだ」
「―――――――――…あの」

 控えめに口を挟んだ。

「…カカシ先生の、って誰のことですか」
「あら、それは」
「もちろん」



「あなたでしょ」
「お前ぇだろ」



 見事にハモった返答に、がっくり、とイルカは床に膝をついた。
 どうして。
 上忍にはまともな感性と客観性というものを持ち合わせた人材は居ないのか。
 どうして自分があの上忍の保持物のように言われなければならないのか。
 俺はいったい何なんだ、と考えたとき、苦笑まじりの声が降ってきた。低く太い声。

「まあ…お前さんにゃ迷惑な話だろうがよ、ついつい俺たちゃ面白がっちまう、悪ぃがあいつに目ぇ付けられたのが不運と思って諦めてくれ」

 優しい声音。
 だが言っていることは極悪にして非道。
 イルカは立ち上がる力もなく、ふふふ、と笑った。
 笑うしかないような気がして。
 だが今度は声音も美しくさえずる佳人の言葉。

「あら、私は面白がってなんかないわよ」
「なんだよ」
「楽しんでるのよ」
「同じじゃねぇかよ」
「違うわよ、ちょっと微妙に違うのよ」
「―――…いえ、どちらでもいいですけど…」

 ようやくそれだけ口を挟んだ。
 分かった、俺は玩具なんだ、と自虐的に結論を下す。

「…それで、ご用件はもうよろしいですか?」

 そして一刻も早くこの場を去りたく、イルカは力ない笑みのままで言ってみた。腹のなかではあの銀色の髪の上忍に、今度あったら嫌味のひとつでも言ってやろうと煮えたぎってはいたが。
 だが、黒髪も艶やかなくの一にとっては、あっさりとイルカを解放してやろう、とは思ってもみないことだったらしい。

「いやだ、ごめんなさい。ほらここ、ここ、座って。そうだ、何か飲む? コーヒーなんかどう?」

 矢継ぎ早に言葉を繰り出したかと思うと、なんとも無造作にアスマと紅のあいだの、椅子の空きスペースをはたいて見せたのだった。埃を払うような仕草に、密かに年の功を見たような気がしたが、イルカは賢明にも口にも顔にも出さず、

「いえ…、俺はここで…」

 と固辞しようとした。一緒に名の知れた上忍と長いすにならんで座るなど、とてもではないが胃の腑が持たない。話題が話題なだけに、ご遠慮申し上げたいところだった。
 しかし、紅が妖艶な唇をゆっくりと吊り上げ、笑った。

「―――座って、くれるわよね?」
「――――――はい」

 勝敗は一瞬。
 所詮、蛇に睨まれたカエルの子だったのだろうか。力なき己を、イルカは「しょうがないじゃないか、座れっていわれたんだから」と慰めた。女はいつでも綺麗で怖い。

「よう、なに飲む。コーヒーでいいか」
「あ、いえ、そんなお気遣いなく…」
「気にすんな。どうせあとでカカシに酒でも奢らせる」

 アスマが言ったが、それはそれで、いっそう飲みたくなくなった気はする。答えにまごついていると、勝手にコーヒーのミルク入りにされた。密かに最近、胃の荒れを気にしていたので、ラッキーだった。
 そんなこんなで、自販機の紙コップを手に、二人の上忍の間に座らされたイルカ。
 にこやかにしているのは二人で、イルカはどうしたらいいものかわからなかった。
 第一に二人が自分を呼んだ理由が、今に至っても分からないのだから、当然といえば当然だった。
 だがアスマと紅は、イルカを肴に話をはずませていた。
 もしかすれば、この場をあとでカカシに話してみせることが目的ではないかと思えるほどに。

「たいていは春っていうけど、秋になってもまだ花咲いてるってのも見ものね」
「ばぁか、あれでいったん目ぇつけたものにゃ、しっつこいぜぇ?」
「ふふ、可愛いものね。そういえばこのあいだ聞いたんだけど」
「なんだよ、 カカシが黒い忍犬でも増やしたか」
「いやね違うわよ。花の話なんだけど、あれでホント、けっこうロマンチストで可愛い奴なんだって思ったんだけど」

 二人はカカシと仲がいいのだろうか?
 随分と親しみをもって話している。とくに紅は、まるで鉄壁の防御壁のような美しい顔を崩して、子供のように笑っている。それはそれで美しいし、美人はどんな顔でも美しいのだなぁとイルカは思っていたが、なぜか引っかかるものもある。
 たとえば、カカシは紅と仲がいいのかな、とか。
 二人が恋人同士ならたいそうお似合いだろう。祝福されるべきことだ。
 イルカに変に構ってくるカカシではあるが、こんな美女と仲がいいなら、そっちを優先させればいいのに、本当に行動予測のたたない人だ、カカシは。
 などと考えながら、イルカはぼんやりと二人の会話をきいていた。

「でね、一番好きな花はなにか、って話をしてたの、アンコと」
「ほう、で?」
「それでカカシが通りかかってね、ついでだから訊いてみたの。最近、色ボケしてるじゃないの、って言ってから」
「…お前ぇ、嫌がらせか?」
「いいじゃない、羨ましいんだもの。でもまさか返ってくるなんて思ってなかったの、答え。やけに真面目な目をして言ったから、こっちがびっくりしちゃったわ」
「なんて答えたんだよ、奴は」

 ふふ、と紅は笑った。
 少女のような表情で、特上の秘密をさぁテーブルにのせるわよ、と言うかのようだった。

「金木犀が、好きなんだって」
「あ?」
「今ごろに咲いてるでしょ、あのオレンジ色の、小さな花がいっぱい付いてる」
「あぁ、あれか。匂いがすげぇやつだろ」
「ええそう。なんで好きかっていうとね、あれって近くに居るとどうしてか匂いがしないんですって。でも、ちょっと離れてみたりするとね、不思議と匂ってくるらしいの。そういう、近くだと分からないけど遠くなってみると近くに感じるような、そんなところが好きだって。匂いも好きだ、って言ってたけど」
「へぇ、そりゃまたえらく似合わねぇ…」
「でしょ? でも真面目な顔して言って、すぐ行っちゃったのよ。第一、好きな花、っていうのがあったっていうことが驚いちゃったけど、ちょっと、本気だったのかしらってアンコと話して…――――――…あら、どうしたの?」
「おい、どうした」

 不意に二人の視線が、イルカに集まった。
 今まで話をふりもせず、おとなしく話を聞いていたイルカへ、不思議そうに二人は訊く。
 イルカは首を傾げてみせる。

「大丈夫? 顔が真っ赤よ?」
「風邪かよ」


「―――さぁ」



 そうかもしれません、と勝手に染まってしまった頬で、イルカは笑って誤魔化した。



2003.10.3